思いはまるで伝わらない
この男はどうして自重が出来ないのだろうか。
羊皮紙に八つ当たりのように筆をがりがりと喰い込ませ、アーデルハイトは溜息をついた。
猟師は既に退室した。報告書は提出されているし、補足する点もアーデルハイトが聞き取って書類に纏めている。これ以上かび臭い執務室に引き籠っていられるか、と不貞腐れた表情でぼやいて逃げるように去っていったのだ。
……そんなに自分の小言は聞くに堪えなかったのだろうか、とアーデルハイトは少しだけ落ち込んだ。
「……いや、私は間違ったことは言ってない。敵の中に無謀に突っ込むあの人が悪いんだから」
――あの日、王都で叙勲を終え辺境伯の命を受けて戦場に急行したアーデルハイトは、思わず自分の目を疑った。
大要塞の兵士による籠城戦と聞いていたら、なぜか城門の表に『鋼角の鹿』が布陣し、あまつさえ交戦状態に陥っていたのだ。突撃する蜥蜴兵は氷でできた馬防柵に阻まれていたが、打ち壊されて突破されるのは時間の問題のように見えた。
これはいけないとスヴァークをさらに急がせると、近寄るドラゴンの気配を察知したのか、傭兵団も耐性付きの盾を構えてじりじりと後退をはじめ、爆撃の空間を確保しようとしていた。
――――最前線で敵を食い止めに残る、一人の猟師を除いて。
どうしてよりにもよってあの人が残っているのか。いつもながら捨て身過ぎる特攻精神に頭を抱えて…………いっそのこと巻き込んでやると決意したのが今回の真相である。
多少痛い目を見ないとあの猟師は絶対に懲りない。これは警告であり懲罰であると自分に言い訳しつつ、その時の魔力のノリはやけに滑らかだったのを覚えている。
もちろん手加減はした。猟師のいた地点はブレスの威力範囲から外れた場所にあったし、使用した冷気ブレスはリザードマンの弱点である反面猟師が得意とする属性で、いくらかは耐性が付いているだろうと判断したのだ。
結果はもくろみ通りに多数のリザードマンを凍てつかせ、痛手を負った軍勢を退却に追い込むことに成功。不意の防衛戦であることを考えれば大金星であるといえる。
客観的に見て、初陣としてはまずまず以上の戦果。あと数日もすれば辺境伯から論功行賞を受けて、同時に臣下に報いる名君という形で辺境伯の権威を内外に示す材料にされるのだろう。
「そうか、初陣……」
ぽつりと、思わず口から零れた言葉に顔をしかめる。
……そう、初陣。訓練の一環として魔物狩りに参加したり、歩兵として山賊の討伐に赴いたことは多々あるものの、それらはドラゴンを伴わないいわば非公式なもの。だから公式には、この戦いがアーデルハイトの初陣ということになる。
華々しい門出なのだろう。新世代の竜騎士は二種類のブレスを使いこなす稀代の天才――そんな噂が早くも人の口に上っているところに、何度か出くわした。
しかし、アーデルハイトが気にしているのは、顔も知らない誰かによる評価ではなく。
「初陣、なのに……」
それについて、あの人が何かを言っていたということはない。
おめでとうとも、よくやったなとも、これからも頑張れよ、とも。
結局あの猟師は、事務的に戦闘の報告を持ってきて、精々が誤爆について皮肉を飛ばしたくらいで帰ってしまった。当のアーデルハイトに労りの言葉の一つもかけずに、だ。
控えめに言っても気遣いにかけている。人の気持ちが欠片もわかっていない。ちょっとでも期待していた自分がバカみたいだ。
……なにが、初陣の時は護衛として特別料金でサービスしてやる、だ。むしろ身を守ってやったのはこっちじゃないか。
そうとも、リザードマンから猟師を守ったのは自分なのだ。いっそのこと、次に会ったときに料金でも請求してやろうか。逆サービスとして水増しして、あの男を借金まみれにしてやる。返済途中に戦死したら倍額を傭兵団に請求してやると言い添えて。
無茶が出来ないように借金で縛って、それから今度こそ護衛として特別料金でサービスしてもらえばいい。
返済が終わるまでは自分の専属だ。アーデルハイト・ロイターの護衛として付きっきりで一緒にいてもらう。訓練の時は師弟として手合わせをして、直轄領の見回りも当然一緒だ。食事のときは毒見をしてもらって。頼ってばかりだと悪いから、たまには差し入れに手料理を渡してみたりして。
それから、それから――
「――駄目、なし。いまのはなし」
頭の中に浮かんできた妄想をぱたぱたと振り払い、アーデルハイトは脱線していく自分の思考を落ち着かせた。顔を触ると風邪をひいたみたいに熱くなっている。理由は……あえて考えない。
きっと根を詰め過ぎたせいだ。益体もない妄想にふけるほど事務作業に疲れているらしい。ふと視線を上げて窓を見やると、すっかり傾いた陽が空を赤く染め上げていた。
「……帰ろう」
これ以上続けてもきっとはかどらない。急ぐ仕事でもないし、明日改めて進めればいい。
執務机に備え付けてある呼び鈴を鳴らして使用人を呼ぶ。程なくして現れた女性の使用人に退勤する旨を伝えると、彼女は得心したように頷いてみせた。
「それとなのですが、ロイター様」
「何か?」
「本日お見えになった猟師のコーラル様から、お預かりしているものがありまして」
そう言って、彼女は懐からあるものを取り出す。
「これは……」
「マフラー、のようですね。意匠はエルフのものに似てるようですが、彼らが防寒具を作るとも思えませんし……」
首を傾げる使用人からマフラーを受け取り、アーデルハイトは改めてそれを凝視した。
藍色の薄手の襟巻だ。若草色の蔦を模した刺繍をあしらい、中央には見たことのない文様がある。手に持つ重さは羽根のように軽く、手の温度を逃がさずじんわりと暖かい。
エルフによるものではない。デザインは似ているが、亜熱帯に住む彼らは襟巻など身に着けないし、中央の文様も彼らのそれとは違って見えた。
「この……コーラルは、これについて何か言っていましたか?」
上ずる声を抑えて問いかけると、使用人は微笑ましいものを見るような表情で首を傾げて、
「――初陣祝い、だそうです。竜騎士は寒い空に上がることも多いから、防寒具はあって損はないだろう、と。
手ずから渡そうか迷われたそうですが、職務中に持ち込むと邪魔になるし、帰り際にでも渡しておいてほしいと仰られて」
馬鹿だ。
猟師のあんまりにもあんまりな言い草に、アーデルハイトはどっと疲れた気持ちになった。
祝い物なのに、どうして直接渡そうとしないのか。
散々人の執務室で駄弁っておきながら、肝心な時に公私の別を盾にして、まるで逃げるように。
これでは、文句どころかお礼も言えないではないか。
「あの人は……」
呟く少女の横顔は、夕焼けを受けて赤く染まっていた。




