ニザーン防衛戦⑤
何もかもが上手くいかない。これだから脳筋は嫌なんだ。
「止まれ止まれ! なに見境なしに突っ込んでるんだこのノータリン!」
力の限り絶叫し、ソルは改めて後悔の真っただ中に突き落とされていた。
明らかにまるわかりの罠、少し考えれば子供でも看破する引っかけに同僚たちは殺されようとしている。制止の声も聞き入れられず、蛮勇に酔ったリザードマンたちは恐るべき単細胞ぶりで突撃一辺倒を繰り返していた。
「ふざけるなよ! なんでこんなのに気付かないんだ!? お前らレミングスかよ!?」
目の前に立ちはだかるものは、真っ白な霧だった。
体積にして学校の教室二つ分程度。踏み入れれば五歩先も見えなくなるほどの濃霧だ。自然界ではありえないことに、その霧は境目を明確にしたままどこかに拡散するというわけでもなく、容器に区切られたように明確な輪郭を維持したまま泰然とその場に立ちはだかっていた。
明らかな不自然。なにかしら人間の作為を感じる。――恐らくは何らかの魔法によるものだろう。
だというのに、この馬鹿どもは一体何を考えて……!
「この……っ!」
「ギェッ!?」
「ガイ!?」
命知らずに霧の中に突っ込もうとする部下を殴り飛ばし、もう一人の胸甲の襟を掴んで後ろに投げ飛ばす。
加減などしない。骨の一つは折れているかもしれないが、死ぬよりはマシだろう。
「下がれ! いいから下がるんだ!」
これだからソルはこの侵攻に反対だったのだ。時期尚早だと口が酸っぱくなるほど忠言した。それでも聞き入れられることがなかった。――もっとも、たかが氏族長の部下の言うことなど、考慮にも値しなかったのだろうが。
あの欲の皮の突っ張った族長。そして胡散臭い魔族の商人。当たり障りのいい言葉を並べ立てて族長ゲルドの野心を煽った。その結果がこの戦場である。
魔族の商人が献上品と称して贈ってきたものは、確かに有用なものなのだろう。
切れ味のいい刀剣、リザードマン用に調整された頑丈な鎧、抵抗値を一時的に上昇させるアクセサリー。……どれもこれも手先が不器用なリザードマンには作成が困難な代物だ。手に入れるには人間やエルフで地位の高いものを襲って奪う必要があるほどの。
族長ゲルドはこれら献上品をそれぞれの氏族長に分配し支持を集め、今回の侵攻に踏み切った。お裾わけの鎧を身に着け側近に見せびらかす氏族長の姿は微笑ましくすらあった。
だが問題はそこにはない。問題は高価な装備品ではなく、魔族からもののついでとばかりに贈られた『おまけ』の方にある。
――耐寒スキルと水属性耐性を上昇させる胸甲。それも数人分ではなく七百人分もの量を、まるで出血大サービスですと言わんばかりにじゃらじゃらと無償で提供しやがったのである。
これを見たソルの友人はやる気を失ってログアウトした。いつか自分自身が北の冷気を克服できるものを作ってみせると息巻いていた男だった。
生産向けでないリザードマンでやるからこそ達成感が大きいんだ、と語ったプレイヤーは、己の掲げた目標が取るに足らないものであるかのように投げ売りされているさまを見て何を思ったのだろうか。リアルでの関わりのないソルには確かめる術のないことである。
――あぁ、そう、胸甲。
大量かつ無償で手に入った、リザードマンの弱点を補強する装備。これを手にした野心溢れる族長は何を考えるか。わざわざ考えるまでもない。
「――――っ」
何かの拍子で外れたのか足元に転がっていた件の胸甲を、ソルは忌々しい思いで踏み砕いた。
……これさえなければ、蜥蜴はいらぬ野心を持たずに済んだ。尚早な侵攻に逸る必要はなかったのだ。
こんなものを頼らず、あくまで正攻法で挑むべきだと、ソルは再三進言していた。冬の海に身をひたして耐寒と水属性耐性を得る。その時こそが本来の攻め時であると。
時間はかかるだろう。だがその間に他のスキルの習得も目指せばいい。寒空の中、命を脅かされながら剣を振り続ければ、スキルの上がりにくい種族でもそれなりに形になる。
事実、ソルの部下は五年をかけて武術系スキルをレベル5以上にまで鍛え上げている。ステータス的にはまだ不安が残るが、単純な筋力や敏捷よりも熟練した技量こそが土壇場で役に立つと判断してのことだった。
部下を後方に配置して自分だけ前線に出てきたのは正解だったと、ソルは確信している。
リザードマンは頭に血が上りやすい。おまけに戦いのさなかは目の前の敵以外に対して注意力散漫になる。軽度の発達障害じみたこの特性は、時に身体的ポテンシャルの爆発的上昇という恩恵をもたらす。しかし今回の戦いにおいては明らかに裏目に出ていた。
――簡単な挑発に乗って一騎打ちに敗北。逃げる敵将に向け追撃部隊を放つも間に合わず蹴散らされる。なし崩しに開かれた戦端。右翼は戦場を丸ごと突っ切るような突撃を敢行し、敵陣に到達する前に疲弊し、伸びきった戦列のせいで敵の斉射の集中を許している。平原で大軍を率いた経験のない蜥蜴だ、本陣と左翼との連携もままならず数の利点を生かしきれていない。
そしてこれだ、この霧だ。
あ、こりゃ駄目だ、と突撃の中で直感した途端、嫌な予感がして自らの足に急ブレーキをかけた。すると次の瞬間、目の前を走っていた味方の姿が見えなくなった。比喩でなく、真っ白に染まった視界で何も見えなくなったのだ。
そう、白い霧。まるで生き物のように隊列の横腹を飲み込んだ。向こう側から伝わる音声は耳鳴りのように遠くなった。それでも確かに届いてくるのは――――うめくような断末魔。
「――――――」
こわごわと手を差し伸べる。革手袋を嵌めた右手。毒爪を活かすために指貫式になっている。霧の中に仕入れて、ソルは自分の予感が正しかったことに溜息をついた。
――――寒い。まるで、精肉加工工場の冷凍室に手を突っ込んだような。
「くそ……っ」
およそリザードマンが耐えられる冷気ではない。胡散臭い胸甲を纏っていても気休めにすらならない。この霧を突破して敵陣に到達する頃には、憐れな変温動物など半死半生になっているだろう。
抜き出した手は水滴で濡れて、あまりの冷気に震えてすらいた。味方に見せないように右手を外套の中に隠し、ソルは改めて警告を発しようと後ろを向いて、
「――――――ほう。なかなか勘のいい奴がいる」
背筋を震わせるような声に、今度こそ絶句した。
振り返る。真っ白な視界。次第に霧が晴れていった。露わになる味方の姿。何体も何体も、折り重なるように倒れている。うっすらと見える緑の身体は身動きの様子もない。見開いた目は真っ白な霜に覆われていて、生きていないと一目でわかった。
霧が晴れる。無謀な味方の末路が詳細に目に飛び込んできた。
倒れ伏すリザードマン。斬り殺されたものもいる。きっと強引に霧を抜けたのだろう。弱った末にボロボロとまろび出るように突破して、視界が開けた途端に見えるのが盾を連ねた敵兵である。ひとたまりもなかったに違いない。
――では、霧を抜けられなかった蜥蜴は?
生きているはずだった。冷気で身動きが取れなくとも、生命力に優れたリザードマンだ。なすすべなく蹲っている彼らは、それでも体温さえ戻れば立ち上がれるはずだったのだ。
頑丈な鱗を貫通する、十数本の矢が突き立ってなければ。
「これは、クロスボウの……」
死屍累々に無数に刺さったボルトを見て、ソルは何が起きたのか今度こそ理解した。射手の姿を求めて視線を彷徨わせれば、案外簡単にそれは見つかった。
敵前衛より外れた場所に、ソルから見て二時の方向に彼らはいた。
恐ろしく気配が薄い。霧に包まれてしまえばそのまま姿を見失ってしまいそうな二十人。
彼らは皆、その両手に物々しいクロスボウを掲げ持っていて、
「装填は完了したな? 照準は慎重に行え」
指揮官と思しき男が言った。群青色の外套を羽織り、フードで顔を隠している。傍らには雪のような体毛をした大きな狼が佇んでいた。
自らも弩弓を構え、その男は明確な殺意を乗せて号令を下す。
「では猟兵――――斉射、開始」




