ニザーン防衛戦④
勇士が破れ、士気が落ち込んだリザードマンの軍勢。その司令官が次に何を命令するのかなど、誰から見ても明らかだった。
すなわち、一騎打ちの相手――ウェンター副団長への攻撃である。
今なら彼は単騎で戦場のど真ん中に孤立している。せめてこれを多数でもって討ち取り、味方の士気を上げようとするのは至極真っ当な判断だった。
――もっとも、それを予想して副団長は用意を進めていたのだが。
「はっ!」
指笛を鳴らして乗騎を呼び寄せ手早く跨ったウェンターは、脇目も振らず自軍に向けて逃走を開始した。
逃がしてたまるかとばかりに蜥蜴の軍勢が追撃を差し向ける。足の速い精強な軽装兵。恐らく追撃や挟撃に用いるために機動性を重視した編成なのだろう。武装は小刀や自らの爪といった重さの無いもので占められていた。
いささか貧弱な兵装だが、何も逃げる戦士自身を殺す必要はない。馬に毒爪で傷をつけるだけでいい。それだけで毒に侵された馬は倒れ、副団長は足を失い、あとから迫る軍勢に蹂躙されて終わるのだから。
意気揚々と進発した追撃兵は、鶏のような雄叫びを上げて走り出した。……沼地に迷い込んだエルフに追いすがって食い殺す走力。苦手な地形とはいえたかが平原。重量のある人間を一人乗せた馬など、易々と追いついてみせると意気込んで。
「ケェエエエアアア!?」
しかしこれはどうしたことか。彼我の距離がまるで縮む様子が見えない。
追撃兵は困惑の叫びをあげた。……おかしい、あれの速度は一騎打ちの時に見た。あれだけの速度なら敵軍に戻られる前に必ず追いつく、そう考えての追撃だったというのに。
おまけにこの地形は緩やかな傾斜。馬が自軍に戻るには登る形になる。先ほどよりものろのろとした走行になるはずだった。
――では目の前の、来た時以上の猛速で坂を駆けあがる馬とはいったい何なのだ……!?
「やぁっ!」
栗毛の馬に鞭を入れつつ、もくろみ通りに事が進んでいるウェンターは軽く口端を吊り上げた。
……この馬は特に速力に優れているというわけではない。コーナリングに秀でているというわけでもない。平地での競争なら中の下程度の成績しか収められないだろう。
だがひとつ、登りに強い。
山岳で育った馬だからだろうか。山道を行くのにまるで速度を落とさない。どんな悪路でも何でもないようにぐいぐいと進んでいく。その発達した前脚が、力強く地面を掴むように身体を前に押し上げていくのだ。
峻険な地形の半島で鳴らしたこの脚力である。たかだか傾斜があるという程度のこの平原を行くのに、一体何の支障があるというのか。
「弓兵、構えぇっ!」
追撃を悠々と引き剥がし自陣に帰還した副団長を尻目に、中隊長が胴間声で号令を上げた。四重横隊、後段二列が弓に矢をつがえ、ぎりぎりと引き絞っていく。
狙いは戦場中央よりやや自軍より。副隊長が己を餌に釣り上げ、間抜けにも突出してきた少数の軽装蜥蜴。
「さあやるぞ傭兵! お客様のご到着だ――――ッ!」
一斉に矢が放たれた。総勢五十名の弓兵による一斉の曲射。追撃に引き込んだ蜥蜴兵三十体にこれを躱す術はなく。
「ケ……ゲェ……!?」
軽装の蜥蜴、というものが悪かったのか。
武器も盾もほとんど用いず、身軽さを持ち味とするなら、それは鱗の厚さも同様であったのかもしれない。
傭兵の放った矢は追撃兵の鱗を易々と貫通し、その体に次々と突き刺さっていく。踏み潰される鶏のような悲鳴。リザードマンは傭兵の横列陣に近付くことも叶わずバタバタと倒れていった。
――敵陣から、怒りの籠った雄叫びが響いてきた。
リザードマンの首領によるものだろうか。地揺れすら伴う咆哮とともに、敵軍の雰囲気が明らかに変わった。
――――――来る。
「シールドウォール!」
副団長の怒号。前衛二列が身を寄せ合い、手に持つ盾を突き出して構える。後衛は更なる矢を取り出して弓につがえた。
恐らく次は本攻撃。百人の傭兵を確実に潰しうる軍勢をもって叩く気か。
号令に従い蜥蜴が繰り出してきた軍勢とは、
「――――――はっ! この期に及んでまだ俺たちを舐めるらしいぞ、あの蜥蜴は!」
副団長の吐き捨てるような嘲笑。本心からでなく、味方を鼓舞するための虚勢にも聞こえる。事実、経験の浅い傭兵には体の震えが盾に現れるものもいた。
二百人。布陣したリザードマンの軍勢、その右翼を丸ごと投入しての突撃だった。
本陣と左翼は万が一のための備えだろうか。……惜しいものだと舌を打つ。全軍まとめてやってくるなら、ウェンター自身が少数を率いて本陣に斬り込むというのに。
地響きがする。二百人のリザードマン、百キロ以上の重量を誇る物体が荒々しく地面を踏み鳴らして突き進んでくるのだ。その威圧感たるや、歩兵でありながら重装騎士による騎馬突撃すら彷彿とさせる。
「弓兵、放て! 矢が尽きるまで射続けろ!」
このまま接近を許せば、いかなドワーフの盾で身を守ろうと蹂躙される。それほどの勢いでリザードマンは戦場を駆けていた。
弓兵が射撃を続けているが、攻め寄せてきている蜥蜴は鱗が厚いのか容易く受け止められている。刺さった矢も浅手であるのか、鱗ごと引き剥がして放り捨て、再び耳障りな鬨の声を上げて走り出す始末。
「――――ハスカール、物は持ったな?
狙いを被せるなよ?」
だが忘れてはいないだろうか。ここは要塞都市ニザーン。地形そのものが防衛に適した土地。
眼前に広がる平原は確かに何もない。しかしここは傾斜の地。櫓や堀がなくとも、坂を上るというだけで攻め手の体力に消耗を強いる土地。
現に蜥蜴の軍勢は陣形を乱し、より健脚な兵士が突出する形で列が伸びている。――それも当然、彼らの生息地はあくまで沼を中心とした湿地帯だ。足並みをそろえての突撃など、やろうと思ったことすらないのだろう。
――――遠吠えが聞こえる。
どこか透き通った、雪洞を通る風のような音だった。
目前には蜥蜴の一番槍が迫っていた。こちらの射程内にいる敵先鋒は十体程度。弓兵は次々と矢を放ち殺しきれないまでも敵の足を鈍らせている。
――頃合いか。
「いまだ、やれ――――ッ!」
――――ダン、と何かの激突音が響く。
今にもこちらに襲い掛かろうとしていた蜥蜴兵は、その額に投斧を生やして絶命した。
硬質な鱗など障害にもならない。最前列二十五名の擲った重量級の投擲武器。蜥蜴一体につき二本の斧を受ければただで済むものではなかった。
一斉に倒れ伏した敵先鋒。健脚な兵を先に潰せた事実は大きい。
しかしそれ以上に、得られた利点というものがある。
「総員、抜刀」
突撃中の最前列が不意に倒れたらどうなるか。あとからやってくる二番手以降による玉突き事故である。
狂乱して理性を失っているならともかく、通常の精神をしているなら仲間を踏みつけにしようとは思わない。急な停止の効かない騎馬突撃ならともかく、今回のリザードマンはあくまで歩兵。前の味方を撥ね飛ばす馬力など望めない。ゆえに、
細長く伸びきった蜥蜴の突撃陣。その勢いが弱まった。これでは突撃の衝力など見込めないと、素人でも見極められるほどに。
万金の好機。脚を緩めた敵兵に、傭兵は逆撃を決意する。
「俺たちが鹿たる所以をここに示せ! 斬り伏せろ! 踏み躙れ! 串刺しにしろ!
ハスカール、突撃……ッ!」
副長が大剣を掲げて叫んだ。すでに馬からは降り、存分に両手剣を振り回せると息巻いている。
「ハスカールに!」
「鋼角の鹿に!」
「無敗の鹿に!」
「勝利を!」
「前進を!」
「突撃を――――ッ!」
高揚する。振り絞る怒号は向かい来る蜥蜴すら竦ませた。
口々に鬨の声をあげ、傭兵たちは恐れ知らずの吶喊を開始する。
そして、
「――――――結構な釣果だ。これは保存に冷蔵庫が必要だな……!」
突如として現れた、雲とも見紛わんばかりの巨大な霧。
それまで誰にも存在を気取らせなかった気象現象。平原の北から現れたそれは、まるで生き物のようにリザードマンたちの軍勢、その横腹に喰らいついた。




