復讐とは
その言葉を口にした瞬間、目の前の男の気配が一変したのをイアンは感じた。
重苦しい威圧感。首筋に走る怖気と、背をじわりと伝う脂汗。
猟師は佇まいを変えないまま、明確な殺気を団長に向けていた。
「――――少し、驚いたよ」
声を荒げるわけでもなく、いっそ穏やかな口調で猟師は言った。
だが、その眼は、
「まさか、その台詞をお前から聞くことになるとはな、若造?」
――その眼に込められた万感は、いかほどのものか。
普段の飄々とした雰囲気など欠片もない。醒めきった口振りと傲慢に細めた瞳が、値踏みするようにイアンに向けられていた。
その重圧を受け流すのに苦労する。ともすれば前屈みになりそうになる身体を抑えて、イアンは猟師に相対した。
「……言っただろ。お前を、餓鬼の感傷じみた復讐に付き合って死なせるわけにはいかねえ」
「そうとも、餓鬼だ。多少の我儘には付き合ってやるのが大人の甲斐性だろう?」
「お前のそれは行き過ぎてるんだよ。殺し合いを挑んだ以上、餓鬼とはいえそれは戦士だ。後腐れなく殺してやるのが礼儀だろ。
倫理や道徳がどうだとか、お前のいた世界ならどうだったかは知らないが、少なくともこの大陸ではそうだ。――――俺だって、女子供を殺したことくらいはあるさ」
この半島に来る、ずっと前の話だ。イアンがまだ駆け出しの頃で、配下など抱えてはいなかった。
雇い主は西方の騎士団。西の砂漠民族と小競り合いを繰り返し、安易に使い潰せる傭兵は便利に使われたものだった。
当然戦う相手など選べるはずがなく、相手をした敵の中には、騎士団に集落を焼かれて略奪で食っていくしかない元村人が多くいた。手にナイフを握ることが出来ればもう戦力。足取りもおぼつかない老婆や、十を超えた年頃の少年まで、多くが食い扶持を得るために駆り出されていた。
そんな彼らを、今このときなら真っ先に保護して職と糧を与えるであろう彼らを、成人したばかりのイアンは殺した。迷うことなく殺した。迷う余裕などなかった。
「……酷いもんだったぜ。こっちが剣を向ければ、あいつらはか弱い一般人ですって顔で泣き叫ぶんだ。そして油断して背中を向けたら隠していた短剣でぐさり。それで同期が二人死んだ。それで思い知った。
――――殺し合いに、女子供なんかあるもんか。やるからには徹底的に根を断たないと、甘い奴はいつか何もかも奪われちまう。
お前だって知ってるんじゃないのか、コーラル?」
「――――――」
目の前の猟師の素性を、イアンは未だに良く知らない。
猟師自身が語りたがらないとともに、たまに彼との会話から飛び出てくる過去が、どうにも薄っぺらで現実味を帯びて聞こえないのだ。
精々が、言葉の端々から断片的に、傭兵のような荒事を生業としていたと窺えるくらい。
……だというなら、イアンのような経験などいくらでもしているのではないのか。
半ば確信じみたイアンの予感は、沈黙という形で返答された。
黙り込んだ男に向けて、団長は言葉を重ねる。
「コーラル。なぁ猟師。これはよくあることなんだ。倒す敵が後味の悪い奴だった、ただそれだけだ。――いい加減、見切りをつけて前に進もうぜ」
「…………」
猟師は無言。ただ、その説得に僅かながら目を揺るがせて、
「――――――いや」
出てきたのは否定の言葉だった。どこか掴み切れない表情で首を振り、猟師は言った。
「悪いな、団長。俺はそんなに小器用には生きられない。……あの娘が俺の前に立つなら、それは正当な理由からだ。背を向けるわけにはいかない」
「お前があの竜騎士を殺したのと同じだから、邪魔しちゃいけないってか」
「それは違う。俺があれを殺したのはただのけじめ、見せしめだ。私刑と言い換えてもいい。
別にあの男を殺す必要はなかったし、見逃してやる理由もあった。あの男の選択次第では和解することも出来ただろう。――ただ高みから眺めて奴を試しただけだ。そんなものは、復讐とは呼べない」
そう言って、猟師は苦笑を漏らした。
「ただ嬲る、ただ殺すだけでは意味がないんだ。それではただの憂さ晴らしにもなりはしない。次を見据えた上での行いでなければ、復讐はその価値を落としてしまう」
「次?」
「殺すことを終点に考えてはいけないという意味だよ。その先も人生は続くんだ。先のない殺しなどただの自滅だ」
とん、とん、と猟師は食卓を指先で叩いた。遠くを眺めるその視線は、己の過去でも見ているのか。
「復讐というやつは難しい。なにせ自分が食うためでもなく、身を守るためでもない、心を守るための殺しだからだ。
……そいつがいては自分が生きていけない。自分の存在が成り立たない。心が、感情が、誇りが死んでしまう。だから殺す。――生きるために、進むために行う殺しだから復讐は意味を持つ。復讐者はまず、答えを得ることから始めなければならない」
「どんな答えだよ、そりゃ」
「決まっている。どう向き合うか、だ」
さも当然のように男は言った。
「対象は様々だ。奪われたもの、これから奪うもの、失ったもの、喪わせるものに。そしてひいてはこれからの自分の人生に。何を捨てて何を拾い何を背負うのか。仇が生み、また己が生み出そうとしている因果と向き合わなければ何も始まらない。
憤怒と憎悪、そして自制と良心がせめぎ合う葛藤の果てに、ようやく得た結論として復讐は為されなければならない。
……何も得ないまま衝動的に相手を討ち果たしたところで、ひと時の快感と、あとに続く虚無感しか残らない。区切りにならないんだ。
そうなった人間は酷いぞ。自分の胸にある満たされない何かが何物であるかもわからないまま、いもしない仇を求めて街中を彷徨うことになる。……幽鬼と同じだ、見るに堪えん」
そう語る猟師を見て、イアンはようやく腑に落ちた。
……あぁ、そうか。やっとわかった。
この男は、この猟師は、自分を憎む相手にすら正しさとやらを説こうとしている。
たとえ相手が数分後、猟師自身によって殺される人間だとしても、口を出さずにはいられないのだ。
誰にでも、というわけではないのだろう。無法者を殺すときの猟師は問答無用で、魔物を殺すのに意味など語らなかった。
アーデルハイト・ロイターという少女が、この男をそうさせる理由はわからない。彼女を特別視させる何かが猟師にあったのだろうか。部外者のイアンには推し量れないことだったが。
「ひでえ偽善だな。それって、可哀想な嬢ちゃんが人生の目標を見つけたら迷わず殺すってことじゃねえか」
「言い方は悪いが、そうなるな。だが俺には他に思いつかない」
「あーそうかよ、そこまで言うなら勝手にしろ。――だがな」
聞き分けのない頑固さに諦めの溜息をつき、団長は目を据わらせた。
「お前のそういう上から目線のご講釈ってやつ、鼻についてたまらねえぜ」
「なんだ、知らなかったのか」
そのからかい混じりの皮肉に対し、猟師は涼しい顔で切り返した。
「俺は元々傲慢なタチでね。
――――いいか? そも、不屈だの負けず嫌いだのといった心とは、目の前に立ちはだかる壁を見下すことから始まるんだよ」




