人竜一体、その所以
満身創痍。
よろよろと覚束ない足取りで現れた主人に対し、スヴァークは一目でそう判断した。
ふらつく足取りはいつもと変わらない。脇腹をかばって背中を丸め、もつれるように歩く姿もいつか見たことがある。身に纏った古びた外套の裾を握りしめ、何か思いにふけるのは主人の癖だ。
だが、目が違っていた。
今にでも死んでしまいそうな――否、死んでしまいたいと願っているような目つき。なにもかも投げ出して消え去ってしまいたいと弱りきった表情。
人間の中にこういった顔をする者がいるのを、スヴァークは見たことがある。孤立して追い立てられる敗残者の顔だ。その絶望は随分と久しぶりに見る。ここ数十年は空から一方的に敵を焼き払ってばかりで、ろくに敵の顔を見ることもなかったためだ。
そんな弱々しい顔を、スヴァークの主人はしていた。
……らしくない。スヴァークの主人として相応しくない。
この主人は今までこの背に乗せた中で、飛び切り才能のある人間だ。ドラゴンと心を通わせるという難行は、初めてスヴァークに跨った竜騎士にも充分には為せなかった。
だがこの主人は違う。スヴァークと心身を共有し、その力を限界以上にまで引き上げることが出来る。
だから、本当の意味でスヴァークの主人となったのは彼女が初めてということになる。
――そんな主人が、こんな弱者の瞳でいじけているなど、あってはならないことだ。
……何とか励ましてやりたいが、上手い慰め方などまだ若くつがいも得ていないスヴァークには荷が重い。
荷が重いことはやりたくない。だから違うもので目を逸らさせることにする。
……ハイジが戻った。いじめられて逃げ帰ってきた。
「……ハイジじゃない」
とりあえず歓迎のつもりで喉を鳴らすと、主人は力のない声でスヴァークの思考に訂正を求めた。
だがスヴァークとしては大いに異を唱えたい。アーデルハイトの愛称はハイジ。長はそう主張している。長はいつも強く賢い。ならば正しい。だから主人の名前はハイジなのだ。
「そう……かもしれないけど。でも、叔父上にも呼ばれたことのない愛称だから」
愛称で呼ばれることに慣れていないのだと、主人は寂しそうに呟いた。
呼ばれ慣れてない。つまりは特別な愛称ということだ。使っているのはスヴァークだけ。特別な関係の主人とスヴァークに相応しい。
寂しくないぞという意味を込めて、鼻面を彼女の腹に押し付ける。主人は一瞬驚いた様子でたじろいだものの、すぐに立ち直ってスヴァークの首に腕を回した。
「……ううん。本当はね、そう呼んでくる人が一人だけいたんだ。……初対面の癖に、気安いったら」
つまりそいつも特別な人間なのだろう。スヴァークの主人は気高い。初めて会う相手が馴れ馴れしい態度で接して来れば、不機嫌な様子を隠しもしなくなる。
なのにそいつのことを語る彼女はどこか懐かしげで、嫌悪感が感じられなかった。
……ちょっと癪だが、仕方がない。スヴァークも雄のドラゴンだ。いずれつがいを持てば、主人だけが特別な相手というわけにはいかなくなる。それと同じだ。
スヴァークはドラゴンの特別。そいつは人間の特別。棲み分けは出来ている。
――ただ、主人はまだ、繁殖に適した年齢といいがたいのが難点だ。
「つがいって……そんなんじゃないよ」
特別なのだろう? スヴァークの特別は単純だ。親と兄弟、未来のつがいと子供。命を預けるアーデルハイト。そして遥かな目標としての長だ。
長は敬意を払うべき相手だ。だからその他の特別は全て身内。だからハイジの特別も身内に違いない。
「…………それなら、そうかもしれない。うん、私にとって、あの人は特別。この感情は、スヴァークが赤竜様に向ける特別と、きっと似てる」
本当に? スヴァークは長に敬意とともに畏れも抱いている。今主人が心に抱いてるものと同じだ。
だが、感情に向ける感情が違うのだ。
スヴァークはこの畏れを心地よく思っている。自らの上位者として振舞うに足る威風だ。ならばそれに心ごと首を垂れるのは当然のこと。
だが主人は違う。スヴァークとハイジの心は繋がっている。奥底の思いは欠片なれども感じ取れる。
ハイジはそいつに向ける畏怖を、消し去りたいと思っている。恥ずかしいと思っている。
「それは……」
そいつを畏れたくないのだと、ハイジは心の底で思っている。違う感情を向けたいのに、どんな理由かわからないができない。それがもどかしいのだろう。
「…………」
人間は複雑だ。思うさま振舞うことが出来ず、心を割り切ることもできない。欲と見栄に挟まれることはドラゴンにもよくあることだが、それはどちらも選びたいから迷うのだ。
だが人間は、選びたいものを拒み、忌むべきものを選ぶために葛藤する。若いスヴァークには未だ理解できない。
「選びたくても、出来ない。私からは歩み寄ってはいけないから。……それに、あの人は……私に、気付いてくれなかった……」
語尾が震えてか細くなった。ぐずりと嗚咽をすすり上げ、緑色の外套を皺になるほど握りしめているのがスヴァークに見て取れた。首元に抱き着かれているせいで、顔はよく見えない。
主人が胸に何を秘めているのか、スヴァークには推し量れない。心を合わせる関係とはいえ、それは彼女が自分のために大事に鍵をかけてしまい込んだ宝物だ。スヴァークが土足で踏み入る真似は出来ない。
相棒にも明け渡さない領域がある。それは歓迎すべき錨だ。竜騎士として位階を進めれば、自我とドラゴンの境が曖昧になり、最後には自らが何者なのかもわからなくなる。
心に重石を置いておけば、どこまで踏み込んでも耐えられる。戻るべき方向に光が差しているなら、ヒトとドラゴン、両方を上手く釣り合わせて高みに登れるだろう。
いい主人だ。彼女とともにいれば、スヴァークはさらに強くなれる。彼女の思いが、記憶が、その理性が、残滓となってスヴァークの中で積み重なって強くなる。
前の主人はだめだ。まるで話にならなかった。考えることといえば巣に貯めこむ財の量や、群れの中での序列くらい。騎竜に心を許さず、騎竜の心を開こうともしない、いまどきにありがちな竜騎士。
やることといえば背中に乗ってふんぞり返り、あれを焼けここに飛べと命令ばかり。そんな主人ではスヴァークの糧とならない。
だから、目の前のアーデルハイトは得難い主人。彼女の重石が揺らいでは、スヴァークの将来にも関わってくる。
……やはり、焼き殺そう。ハイジを泣かせた愚か者は、スヴァークが殺す。揺らぐ重石は、動けないように燃やして固めた方がいい。
「やめて、スヴァーク。あの人はそんなのじゃないから」
そう言って、主人がスヴァークに抱き着く腕に力を込めた。
「――あの人とは、私がけりを着けないといけないから」
それがおかしい話なのだ、とスヴァークは唸り声を上げた。
けりを着けたい、というなら、なおのことスヴァークを連れてかかるべきだ。竜騎士とドラゴンは人竜一体。スヴァークはアーデルハイトの牙であり爪であり翼である。スヴァークを連れないということは、翼と息吹抜きに戦いに挑むということ。それは竜騎士の戦いではない。
「そうだけど。……でも、父上は魔法もドラゴンも無しであの人と戦った。……私もそれに倣わないと、周りに示しがつかない」
……本当にそうだろうか? 主人は本当にそう思っているのだろうか?
スヴァークは一人考え込む。……主人の言葉には嘘が混じっている。そう感じる。スヴァークに対してではない。彼女は彼女自身に対して、嘘をつきたがっている。
スヴァークを連れていれば一刻で終わる戦いに、何回も何カ月もかけている理由がシメシとやらか。どうにも理解が出来ない。
――――どちらにせよ、これ以上は彼女を追い詰めまい。近いうちに、主人は否が応でも選択を迫られる。
こんな日々が、そう長く続くはずがないのだから。




