辺境伯の憂鬱
ここのところ、半島では『亀鹿』の噂が盛んに世間を賑わしている。
領都からみて南東のはずれを主な生息地としている『亀鹿』は、八年前からじわじわと勢力を伸ばしてきていた。
『亀鹿』の最大の特徴は、その背に背負う巨大な甲羅である。未知の素材で構成された甲羅はワイバーンのブレスに耐え、爪の一撃を受け止めてもびくともしないほどの頑強さを誇っている。甲羅が攻撃を弾き、相手が怯んだところを『亀鹿』はその手に持つ鋭利な剣で逆襲するのだ。
『亀鹿』の正式名称を、『鋼角の鹿』といった。
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「…………」
領都ジリアンに威容をたたえる山城、その執務室にて、城の主である辺境伯ジークヴァルト・ミューゼルは、一人で机に向かい黙々と書類に目を通していた。
既に日は落ち、あといくらかで日付も変わろうとしている。半島で最も人口の多い領都とはいえ、大半の住民は眠りにつく時間帯だ。執務室のテラスからは領都の全景が一望できるが、夜景といえるほどの景色は望めない。
かつては半島一の賑わいをみせ、夜空を照らし返すほどの明かりを放っていた歓楽街も、ここ数年は倹約のために照明を抑えるようになっていた。
抑えるようになったとはいえ、たかだか数年前の三割減といったところ。店頭に並べる灯火を、数本に一本灯さずにいる程度に過ぎない。
……それでも領都の景色が薄暗く感じられるのは、そこにある活気が衰えているという実感がそのように見せているのだろう。
八年前のスタンピードから、領都は未だ立ち直れていない。
直轄地からの税収はそれほど減っていない。むしろ直轄領内にできた新興の村が栄え始め、それに釣られるように周辺の村からの収入も安定し始めた。流出していた人口も、一部は増加に転じ始めているほどだ。
領内の魔物も、スタンピードを機に大半が一掃され、その後もまとまった規模の群れが発見されたという報告は減少の一途をたどっている。……そして、魔物が目に見えて減少し始めたのは半島の東端からだった。
領内に発生する魔物が減少するのはいい。予算が少なく再編が遅々としている歩兵部隊はようやく形になってきたところだ。だが規模も練度も不安が残る。討伐遠征の規模は小さいに越したことはない。
領内の治安維持のための見回りも……不本意なことだが、半島の東側はその必要がほどんどない。理由は語るまでもないことで、現在彼らの領域には建て前的に数人の巡回のみを送っている状況だ。
兵を派遣する必要がなく治安が向上しているのは良いことだ。魔物狩りといえば聞こえはいいが、死骸が素材となりうる魔物はそう一般的ではない。グリフォンの毛皮、オークの脂肪、スケルトンや竜牙兵の骨粉。有用な素材は常に人間の生活圏外にある。ゴブリンやオークをいくら殺しても、良質な皮や脂肪は得られない。
使い道のないゴブリンやオークの耳を持ち込んだ傭兵や賞金稼ぎに、討伐証明部位と称して報酬と引き換えにしているのは、ひとえに領内の治安のためである。
当然、出来ることならば革袋いっぱいの生ごみに金を払いたくなどないのはこちらの本心だ。だから領内の治安が向上し、在野の傭兵や自称冒険者が稼ぎ場を求めて領内でなく、半島北部で領外の魔物とせめぎ合う状況が望ましい。
だからそう。辺境伯直轄領に関しては、八年前よりも環境は改善している。
――――だが、本当の問題は竜騎士にある。
彼らの収入源は二通りある。辺境伯領内から割り振られたいくらかの所領による税収と、辺境伯から支払われる給金である。
なぜ収入が二元化されているのかというと、それぞれ竜騎士に領内への関心を持たせるためと、強大な武力を個人として所有する彼らに大領を与えて独立性を持たせないため、という理屈による。
小貴族としての税収と、公務員としての俸給。二百年以上にわたって機能してきた仕組みは、ここにいたって組織の腐敗により機能不全を起こしかけている。
呆れたことに、スタンピードによって急激に悪化した自領の収入の補填を、竜騎士たちは辺境伯に求めたのだ。
曰く――竜騎士はスタンピードの南下を食い止め、その後もたびたび北部の魔物を間引いている。功績を上げ続けているにもかかわらず、得られる報酬が減るのは理に反している、と。
被害を受けたのは辺境伯直轄領も同様だ。だが辺境伯は減少した税収からどうにか彼らの給金を捻出し、減給だけは避けることとした。……実際、あの戦場での竜騎士の活躍は期待通りのものであったし、軍務を果たす以上、彼らはその分の報酬を受け取る権利がある。
しかし、領地経営の尻拭いを主君に求めるのは筋が違う。
立て直しのための融資を求めるならいざ知らず、対策案一つ示すことなく、足りないのだから補填しろ、とは。
竜騎士に求められているのは地上に固まった敵の集団を焼き払うことであり、畑を耕すことでも歩兵を率いて数人の賊を追いかけることでもない。――辺境伯の詰問に、ある竜騎士は憮然とした表情でそう答えた。
とある竜騎士にいたっては、自領の治安が彼らによって改善したのをいいことに、私兵の規模を減らして費用節約と嘯いた。そして浮いた資金を浪費して半島北部に遠征し、焼け焦げたゴブリンの耳を持ち帰って戦功だから報酬金を支払えと主張する。ゴブリンの耳などという二束三文にもならないものに、政府がわざわざ対価を支払う意味を理解していないのだ。
解雇するわけにもいかない。領地を召上げるわけにもいかない。騎竜は己の契約者にのみ従う。竜騎士が叛意を抱いたら、漏れなくドラゴンが反乱戦力として加わる。
辺境伯が独断で左右するには、竜騎士という身分は強力過ぎ、また特権を与えすぎた。
これが今の竜騎士。
三百年にわたって勇名を馳せてきた、伝説の騎士団のなれの果てである。
「――――――」
辺境伯は憂鬱な気分のまま、机に置いてあった数枚の羊皮紙をまんじりと見つめた。そこには部下の一人に命じて集めさせた、新興勢力の調査結果が載っていた。
――この数年で急激な発展を遂げている傭兵村。聞けば、二年前に南方のエルフとの航路が開通し、交易都市としてにわかに注目を集めているという。
名目上は村と称しているが、傭兵の持ち帰る魔物素材の取引規模や、彼らが肩代わりしている周辺の新興村の各税を鑑みるに、とうの昔に都市並みの金銭が動く土地となっている。
率いているのは傭兵団『鋼角の鹿』団長、『鉄壁』のイアン。――過去は『鉄剣』と称していたが、あのスタンピードからいつの間にかそう呼ばれるようになっていた。
百戦錬磨の荒くれ者を統率し、魔物の大軍を寡兵で打ち破った傑物、と。
年齢は三十を超えたところ。未だ若々しさに溢れ、その勢いは衰えることを知らない。
――食わせ者だ。そんな印象を抱いた。
三年前、辺境伯に念願の跡取り娘が誕生した。そしてその一年後、言葉も話せない娘の前に突然赤竜が降り立ち、初代辺境伯以来の契約が結ばれた。
契約は初代以来の慶事とされ、財政難を押して盛大な祝宴が開かれた。貴族はもとより、周辺の大貴族や大工房の親方まで招待された大規模な宴。
当然、招待客の中には半島最有力の傭兵団の団長であるイアンの姿もあった。彼は和やかな表情で他の招待客と談笑し――――その後、個人的なつながりを持つようになっていった。
豊富な資金源と強力な武力を有するイアンに取り入ろうとする人間は多い。貴族はもちろんのこと、彼らの影響圏内で商いをする商人。芸術都市から魔物の素材を買い付けに来る商人など。そして東辺海航路が開かれた今、今後も彼に群がる人間は増え続けるだろう。
何件か縁談が持ち込まれたという話も聞く。縁戚としてあの村の戦力と財力に影響を持つのが狙いだ。あまりのあからさまさに流石に引いたのか、イアンはどれも断っていたようだが。
彼らの存在はあまりにも大きくなりすぎた。それも、八年前の想定を容易く上回る形で成り上がっている。
スタンピードの直後、誉れはあっても実質は壊滅状態にあった傭兵団が、たった十年足らずで半島の一部を牛耳るほどになっていた。あの謁見の時に、現状を予想しえた人間がどれだけいたというのだろう。
「……座視は出来ない。だが潰せば彼らの抱えている住民が難民と化す。これ以上の財政負担は破綻を招きかねない。よって目下は彼らの取り込みを目指すことになる。
だがどうやって? 仕官も、貴族位も既に提示して断られたあとだ。縁戚として取り込もうにも、親族で年頃の娘は相手が決まっている。姪のユーディットも、二年前に婚約が決まって王都の学院に入学した」
心労のせいか、独り言が増えてきた自覚がある。そういえば、趣味であった灰竜に乗っての飛翔も、あのスタンピード以来めっきり回数が減っていた。
「――――いかんな、どうにも気が滅入る。気分転換をしよう」
口に出して苦笑する。いちいち言い訳を口にしないと、遠乗りに出る気にもなれないとは。
一度思いつくと、どうしても空が恋しくなった。雲を突き破って水滴を顔に受け、頭を冷やせば妙案でも浮かんでくるかもしれない。
そこまで考えると居ても立っても居られなくなった。辺境伯は執務机にある呼び鈴を手に取り、侍従を呼んで外出を告げようと――
「――――閣下! 辺境伯閣下!」
慌ただしい男の声。駆け足に床を踏み荒す音と、乱暴に執務室の扉を殴りつける音。
――異常事態だ。遠乗りはお預けになった。
「一大事です! 書庫が荒らされました……!」




