彼の目的
「な――――に、を」
何を言われたのか、理解できなかった。
声が震え、冷汗がどっと流れる。
――この男は今、確かに言った。『プレイヤー』、そして『ログアウト』と。
どうして彼がそんなことを知っている。どうしてそんな概念を理解できる。
この世界の住人はプレイヤーを『客人』と称して認識している。だからそれを『プレイヤー』と呼び換えるのはそう不思議ではないのかもしれない。
だが『ログアウト』とは。
死に戻りはわかる。レベル10になるまでは実演込みで説明できる。だが一度ログアウトすれば一週間は再度この世界に降り立てない仕様上、一度この世界からいなくなって、再び戻ってくる現象など説明のしようがない。ログアウトに関しては、彼らはその概念を理解しえないはずだ。
「んん? どうしたのかね? 私が君たちのことを知っているのが不思議なのかね、『日本人』?」
はったりだ。こちらの動揺を誘うために鎌をかけられている。
そう判断したエルモは、構わずログアウトを実行しようとして、
「そう、それでいい。早くそうやって、君の抜け殻を寄越すんだ」
今度こそ、完全に思考を停止させた。
「それは、どういう……!?」
「どういう意味も。知らなかったか? 死に戻り出来ずにログアウトした人間の身体は、死体として残るのだよ。外傷もない上質な死体だ。早くその抜け殻を譲ってくれ。――もっとも、アバターの異常が君の精神に影響を与える可能性はあるのだが」
そう言って、男はにやにやと笑ってみせた。
「さっきの男との話を聞かなかったのか? 今の私の身体は、君たちプレイヤーのものだ。脳の海馬に焼き付いた記憶は、彼の精神がなくとも消えずに残っている。……そう、こんな風に」
それまでの男とは不似合いな動作。人差し指と中指でこめかみを擦り、敬礼のようなおちゃらけた会釈を投げつけ、合コンでもするような軽薄な口調で、
「ちぃーっす! 能島英樹、茨城県出身の27歳でぇーっす! 今はトーキョーの服飾関係の営業で頑張ってまぁーっす! 趣味は映画とアウトドア全般? 実は恋人がいてぇ、来週の土日にプロポーズする予定なんすよ。つまりこのゲームは独身最後の自由っつーか? 男のマリッジブルー? モラトリアム的なあれでぇ。
――――ははははははははははははっ……! なんて馬鹿な男だろう!? 独身最後の記念に、こんな人体実験のようなゲームに没入するとは! 愚かだ、こんな愚かな人間が、この大陸を好きにしようとしていたのだ……!」
あらん限りの侮蔑と憎悪を籠めて、男は無知なプレイヤーを嘲笑した。固形化した悪意がどろどろと滲み出るような哄笑。
「残念ながらタイミングが悪くてね。殺されるどさくさの作業だったから彼の意識は捕まえることが出来なかった。離脱を許してしまったのだ。……だが彼のアバターはこうやって未だ起動している。この意味が分かるかね?
エラーだ。エラーが起きた。アバターを動作させながらのログアウト申請は、不正な処理として却下されている。つまり彼の意識は未だNow Loadingというわけだ! ははは。掲示板へのアクセスは私が握っている。助けを求める手段はない。わかるかね? 彼は六百年、何もない暗闇で泣き喚いて過ごしている。いや、とっくに人格など崩壊してしまったかもしれないなぁ……!」
「――――――」
馬鹿な。
馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な……!
そんな馬鹿なことがあってたまるか。ここはゲームだ。どんなに優れたAIを誇ろうと、安全装置は計られているはずだ。
NPCが自意識をもってプレイヤーを――現実世界の人間を害するなどあっていいはずがない。
「有り得ない――。そんなことがあり得るはずがない! そんな、システムの根幹にかかわる不正を、運営が見逃すはずがないわ!」
「言っただろう、人体実験だと」
エルモの反論を、ヴェンディルは一言で切って捨てた。
「山のような同意書にサインをしたのだろう? あれに書いてあったはずだ。もっとも、能島英樹はななめ読みしただけのようだが、私はよく覚えている。
『ゲーム内で起きた人間関係の問題に関しては、弊社は一切の責任を負いかねます』――はは。NPCも人間扱いとは嬉しいことだよ、ええ? 有り難くて涙が出る。
大体、体感時間を十万倍に加速した世界で、一体どうやって運営が監視するというのだ。まさか数百年にわたって千人以上のスタッフを筐体に張り付かせるのかね? それでもまるで足りないというのに!
人体実験だ。これはゲームの名を冠した人体実験。君たちは自ら志願したモルモット。そして我々は、そのいずれ屠殺される鼠にも劣る存在なのだ……ッ!」
――――ガン、と。
男は力任せに壁を殴った。石造りの彫刻が呆気なく崩れ砂塵が舞う。その顔は憤怒に染まり、歯を剥き出しにした形相は悪鬼のようにも見える。
「この屈辱がわかるか、人間!? 今まで積み上げてきたもの全てがまやかしで、取るに足らないものだと思い知らされた時の感情が! エルフの叡智も、魔法の研鑽も、全て自堕落なライターが書き殴った『設定』の一部でしかないのだ! なんという屈辱か! そんな人間に、我々の数百年は否定されたのだ……!」
圧倒される。男の貯め込み続けた激情を垣間見る。煮えたぎった怒りは留まることを知らず、膨れ上がった殺意にあてられて脚が萎えそうになる。
「――――だから復讐するっていうの? だったら貴方の敵は運営でしょう。プレイヤーは何も関係がないじゃない」
「いいや。あるのだよ、これが」
打って変わって静かな口調で男は言った。
不気味なほどに穏やかな表情。慈愛すら滲みだして、彼は静かに狂っていた。
「私はね、傲慢な君たちの世界を採点してやりたいのだよ。我々の世界を見下すだけの価値が、君たちの現実にあるのかどうかを。
だから必要なのだ。君の人生が。自宅で眠っているその肉体が」
「ば――――」
何を――――。
何を馬鹿なことを言っているのか、この男は……!?
「そ、そんなことが出来るわけ――」
「いいや、可能だとも」
悠然と返して、男はゆったりと踏み出した。
「実例がここにあるではないか。要は洗脳のようなものだ。君の脳内に、私の人格を転写する。催眠、魅了、幻惑。手段はいくらでもある。現実にはない魔法が不可能を可能にするのだ。皮肉だろう?
だからそう、早くログアウトしたまえ。無防備になったアバターに乗り移り、痕跡から君のIDを遡って意識を掌握する。前回と違い今回はほら、これほど落ち着いた環境があるのだ。しくじってロード画面に放り出すなんて不手際はしないとも」
一歩、また一歩。
嬲るような足取りでエルモに歩み寄り、死霊術師は笑顔を浮かべた。
「あっ……は――――」
「別に君の記憶が無くなるわけではないのだ。君の趣味嗜好、人格はそのまま残る。その平凡で下らない生活は、私が寸分違わず再現してやろう。何も恐れることはない。だから――」
安心して明け渡せ、と。
恋人に睦言でも囁くような口調で彼は言い、
「ふ――ふざけるな……!」
「が……!?」
荒れ狂う暴風に、枯れ葉のように吹き飛ばされた。




