玄関先の鬱
いつまでも動き出そうとしない、マルチーズを待つこと十分。
ついにわたしは痺れをきらしてきてしまう。
「コータロー、まほりのとこ行こうよ」
『くぅぅん』
わたしがそう言っても、幸太郎はあたかも犬のように鳴くだけ。
こうしていても、埒があかない気がして、地面に丸くなる幸太郎のわきの下に手を入れると、赤ちゃんにそうするみたいにして体を抱き上げる。
『え!ええっ!?何してんだよ!』
「男のくせにぐだぐだ言うなっつーの!さっさとまほりのとこ行くよ!」
『ミサキには俺の気持ちなんてわかんねーよ……』
ぶうぶう文句を言う幸太郎を腕の中に収める。
軽い。体重はウサギくらいかもしれない。
腕に触れるもこもことした体毛が心地良くて、つい空いた片手で撫でてしまう。
さっきは我慢したのに、失敗。無駄に見た目が可愛いから悪いんだ。
そうこうしていると、
『ちょっ、ミサキ!抱っこはさすがにっ!』
幸太郎がわたしの腕の中でじたばたと暴れる。
「もう!何で暴れるの?」
『何でって……。分かんねーの?』
幸太郎は顔をあげてこちらをうかがう。
「分かんないけど?」
わたしがそう言ったとたん、マルチーズはものすごいあくどい顔で笑った。
犬が笑うってよく分かんないけれど、多分今のが笑うって表情だ。
口を曲げて、目を鈍く光らせて――にやり。
『じゃあ、いっか』
「今の顔が、わたしとしては気になるけど……」
『気にしない気にしない。さっさと行こうぜ!』
俄然やる気になるのが何だか怪しい。
でも、幸太郎の折角のやる気に水を差す気にもなれなかったので、とりあえず保留にして、まほりに会いに行くことにした。
まほりに連絡を取ると、もう家に帰っているとのことなので、わたしと幸太郎はまほりの家まで行くことにした。
電話口でちょっと大変なことになった、とわたしが言ったときのまほりの楽しそうな声と言ったらない。
「何々?大変なことって?楽しそう。早く来てー!今暇で死にそうだったの」
わたしの身の回りに大変なことが起きないかな、と待ち望んでいたかのようなテンションだった。
まさか、この手の甲のマークが変なことになるって分かっていてやったんじゃ……と疑いたくもなる。
まあ、もしもそうだったとしても、まほり以外に頼れる人はいないわけだけど。
家のチャイムを鳴らすと数秒も待たずに、まほりは玄関先に出てきた。
慌てて出てきた様子で、いつもはふわふわのボブがすっかりぼさぼさになっている。
「まほり、そんな慌てなくても……」
「もう、気になって気になって!それで、大変なことって何?」
大きな目を輝かせながらまほりはわたしを見る。これは相当な期待をしている目だ。
わたしは腕の中の幸太郎を抱えると、まほりの目の前に差し出す。
いくら大変なことを期待しているからって、この異常な事態をそう簡単に信じてくれるとは思えないけど……。
「あのね。コータローが……犬になった」
自分で言ってバカバカしくなる。
『そう、犬になった!どうにかしてくれ、椎名!』
幸太郎が相づちを打つ。
まほりは鼻先の犬とわたしとを交互に見る。
ミサ、正気?脳みそ溶けてシェークになっちゃった?
そんな毒舌も少しだけ覚悟していたのに。
「そっかあ。やっぱり変なこと起こっちゃったんだね」
縁側でお茶をすするおばあちゃんのように、まったりとしたテンポでまほりは言う。
幸太郎が犬になったことなんて想定範囲とでもいった感じだ。
「あのお……さっきまでのハイテンションと期待はどこに?」
「ごめんごめん。ミサが急にモテモテで困っちゃう、っていうような大変さかと思ったから」
『ミ、ミサキがモテモテ?』
「何それ……どういうこと?」
「昼間、言ったでしょ。あのインドのおまじない恋愛感度アップするって。あれね、本当はモテモテになるおまじないなの」
「はいぃ!?」
「むやみやたらにモッテモテ、色んな恋愛の機会がやって来るスペシャルなおまじない。アホマホサークルのメンバーが持ってた本に出てたの」
「ご、ごめん、まほり。今理解できない単語が1個あった。アホマホサークルって何?」
「え、言ってなかったっけ?アホウになるまで魔法を研究しましょうサークル。略してアホマホサークル。近所の公民館で不定期に活動してるの。もちろんわたしもメンバーだよ」
そう言って、まほりは私服のスカートのポケットから会員証を取り出して見せてくれる。
「会員番号一桁は名誉会員なの」
と変に得意そうだ。
「そ、そうなんだ。良いよ見せてくれなくて、ホント」
そんな怪しいサークルが市民の集う公民館で活動するって、どうなの!?
という突っ込みを入れたくなったけれど、ともかく脳の片隅に置いておく。
「アホマホサークルとおまじないのことは分かったけど、どうしてそれでコータローが犬になるの?」
「多分、失敗しちゃったからかなあ……」
まほりはしれっとした顔で、とんでもないことを言う。
『し、失敗ぃ!?』
「古今東西、モテモテになる魔法ってメジャーなものだけど。失敗も多いらしいんだよね。モテたいっていう欲望が大きい分、代償が大きいっていうか」
「いやいやいや!わたし、モテモテになりたいなんてこれっぽっちも思ったことないから!」
出来る限り恋愛事には関わりたくないわたしからすれば、モテたいなんて欲望は無縁のものだ。
人から好かれるのはもちろん嬉しいけれど、モテるモテないっていうとどうしたって恋愛要素がくっついてくる感じだし。
わたしがそう言うと、
「あれ?そうだっけ?」
まほりは口元に指を当てて、あさっての方を向く。要するにとぼけている。
今日は何回か突っ込みたいのを我慢したから、もういよいよ限界だった。
「あれ、じゃないぃぃぃ!」
わたしの左手がまほりの前頭部を襲撃する。すぱこーんと良い音が響く。
「うわっち!」
まほりは変な声をあげて仰け反った。
『ミサキがマジで怒ってるぞ、椎名……』
「ふぅ、久々に突っ込みいれられちゃったよ」
まほりは一人何だか爽快な雰囲気で、髪をかきあげる。もう何だか色々が面倒くさい。
「まほり。もう一回突っ込まれたい?今度は音が悪くて、痛いほうでいくけど?」
「ゴメンナサイ!明日のお昼、プリン差し入れるから許して!」
まほりは顔の前で腕をばってんにして、防御する。
そんな様子を見ていると、今更ながら、わたしには変わった友達がいるなあ……とたそがれてしまいそうになる。
でも、今はそんな場合じゃない。
「色々ただすのは面倒だから、率直に聞くけど……」
「うん」
「まほり、コータローを元に戻す方法知ってる?」
『知ってるなら教えてくれよ!』
わたしが尋ね、幸太郎がダメ押しをする。
まほりは、豆鉄砲を食らわされたハトのように目をまん丸にした。
それからあからさまに視線を泳がせる。
「……知らないんだね」
「だって、人間が犬になるってどんな状況?虫になるとか虎になるとかカエルになるとかは本で読んだけど……犬って」
語尾にぷくくくくという笑いがくっついてくる。
『い、犬の何が悪い!可愛いだろ!』
「犬の何が悪いってコータローが」
何となく通訳(?)してみる。
「悪くないけど……」
まほりは幸太郎に視線を向ける。
「この犬め!けだもの!」
「ま、まほり?」
「言ってみたかっただけ。ごめんねコータロー君」
そうしてよしよし、と幸太郎の頭を撫でるけれど、幸太郎はぽかーんと口をあけたまま静止している。
そりゃそうだよね。まほりの欲望のためだけにけだもの扱いされたんじゃ。
「確かに、犬を人間の戻す方法は分かんないけど……」
まほりはそんな幸太郎を尻目に、切り出す。
わたしも人のこと言えた義理じゃないけれど、まほりもたいがい無遠慮だよね。
「ミサにかかった魔法がとければきっと、コータロー君も元に戻れるんじゃないかな」
「わたしにかかった魔法……?」
そう言うと、まほりは頷く。
「手の甲、ピカピカ光ってるでしょ。それ魔法がかかってる証拠だよ。『インドのラブラブマジック』に出てたもん」
『インドのラブラブマジック……』
う、胡散臭い。
『ああ、チョー胡散臭いな』
あまりの胡散臭さに、ついつい幸太郎と心の声を通して会話をしてしまう。
「それって、どんな魔法なの?」
「分かんない。失敗しちゃったし」
まほりは肩をすくめる。
「えー……何か可能性は?」
「ミサがモテモテパラダイス?」
「それはもう良いってば!」
「良くないのに……」
何だか知らないけれど、まほりはわたしを恋愛事に巻き込みたくてしようがないみたいだ。
「わたしにかかった魔法、どうやったらとけるんだろう?」
「しょせんマジックで描いたマークだから、時間がたてば消えて同時に魔法も消えると思うけど……」
「それってどのくらい?」
「油性だからー……はて?」
「はてって……」
「一週間もすれば消えるんじゃない?」
「消えなかったら?」
「消えなかったら……楽しもう!」
まほりはすごくいい笑顔で笑う。既に、まほりはものすごく楽しんでいらっしゃる。
「はあ……」
『はー……』
何だかわけの分からない魔法をかけられたわたしと、何だかわけが分からないまま犬になってしまった幸太郎。
どっちも救いようがない。
溜息をついていると、さすがに見かねたのか、
「大丈夫。わたしも何とか魔法がとけるように協力するから」
まほりがそう慰めの言葉をくれる。
でも、さっきすっかり楽しんでいた様子を見た後じゃ、説得力は半減だと思う。
「怪しい知識なら任せて!だてにアホマホサークル入ってないから」
まほりは、ぐっと右手の拳を握りしめる。
怪しいサークルでの知識が頼みの綱だというのは、なんともいただけない。
でも、それしか頼れないならしょうがないかな。
『そーだな、椎名よろしくたのむ』
「うん、まほりお願い」
「オッケー。大丈夫、きっとすぐにとけるよ」
そうやって、まほりが明るく笑うから、ちょっとだけ大丈夫かなという気になる。
元をただせば、まほりが全ての元凶なわけだけれど、まあ、それは過ぎたことだからしょうがない。
今やれることをして、何とか全てを元通りにしなくちゃね。
「それより、ミサ。何でコータロー君抱っこしてるの?」
「何でって……、ああ、さっき落ち込んでたから無理に連れてくるために」
「そうなんだ。でも――」
まほりの目線が幸太郎をまっすぐ見る。
幸太郎はぴくん、と身じろぎするとまほりの視線から逃れ、わたしの胸の方に隠れる。
何だって言うんだろ?
「元々人間の男の子だったコータロー君が、ミサに抱っこされるとドッキドキじゃないのかな?」
「え、何で?」
「何でって。ミサの胸が――」
『キャンキャンキャン!』
唐突に幸太郎が吠える。
そのあんまりのわざとらしいタイミングにわたしは全てを悟った。さっきのにやりの意味も。
そのあと急に張り切りだした態度の意味も。
わたしは自分の心がすうっと冷えしまっていくのを感じた。
その心の冷えを眼光に変えて、幸太郎を射抜くと、幸太郎はマルチーズだけれどチワワのようにプルプル震え始める。
『ミ、ミサキ。たぶん、すっげぇ誤解があると思うんだよなあ……。はははっ』
「全て吐き出してご覧なさい。言い訳はそれからです」
「ミサ、キャラ変わってる。何キャラ?」
『じょ、女王サマか……?』
「女王でも何でも言い!さっさと吐けぇぇ!」
『ひぃぃ。すみませんっ!ミサキのおっぱい近くてラッキー、ちょっと触ってもバレてねぇって!』
「エロ犬飛んでけぇぇぇ!」
おもうさま振りかぶって、犬を投げた。
『言い訳聞いてねぇ!』
犬を投げてはいけません、動物虐待になります。でも、中身がわたしの幼なじみ横堀幸太郎だったら、つい投げちゃっても可。
幸太郎はまほりの家の斜向かいの家のミニ菜園へと落ちていった。
「ミサ、すっごいパワー」
まほりはひゅうと口笛を吹く。
『おっぱいくらいで、ひどい、ひどすぎる……』
幸太郎はよろよろとこちらに戻ってくる。
白い毛がすっかり土まみれだ。
「だまらっしゃい!エロ犬!半径200キロ以内に入ってこないで!ていうか日本本島から出てって!」
『そんなの無理だっつーの!』
それから、ちょっと静かにしてくださらない、犬のしつけがなってないのねぇ、なんて、まほりのうちのお隣さんから苦情が入り、わたしたちは、収拾をつけるほかなかったのだった。