セツナイセカイ
国王と王妃に王女。爵位を持つ身分の高い廷臣たち。
彼ら彼女らが集う王宮の一隅、その中央付近には複雑な紋様が刻みこまれている祭壇が置かれていた。
みなの視線は最も祭壇に近き位置にいる者、国一番の魔法使い、その一挙手一投足にそそがれている。
魔法使いは胸元まで伸びている髭をゆっくりと一撫でする。右手に握る奇妙に曲がりくねった杖を振り上げる。振り下ろす。
口からは魔法を解さない者には到底理解不能な言の葉のかたまりが漏れては消えていく。
魔法使い以外はただの一人も声を発していない。余計な雑音など神聖なる儀式の最中においては禁忌とされていた。
儀式が始まった時分、窓から差しこむ陽の光はこの場に集っているうちで最も身分低き者である衛兵の脚元をなめるように影を作っていた。今、その影は最も高貴な者である国王の御座まで達している。
魔法使いはムゥンと鋭く、そして短い叫びを発していた。掛け声とも苦痛のうめきとも取れるその音を残し、力尽きたかのように左の膝を地に落とす。
声に応じてなのだろうか、雲一つとてなかった空がにわかに曇をまとい始め、陽がさえぎられていく。やがて、天より高らかに雷鳴が轟く。一つ、二つ、三つ。
雷光に反応したのであろうか、しつらえられていた祭壇がまずは赤く、次いで青く光る。遂には白く丸い炎と化す。
見つめる者たちの心臓がドクンドクンと鼓動するほどの時間が過ぎた後、祭壇は忽然と消え失せ、その場には横長の箱のようなものが生じていた。
「成功、でございます」
国一番の魔法使いは国王へ向かってそう短く声を発すると、崩れ落ちるかのように両の手を地についていた。
四つ脚で這う獣のようなその姿勢のまま、そろりそろりと魔法使いは箱へとにじり寄る。一歩、また一歩。
と、その時である。ゴトリという音がこの場に集う全ての者の耳に達した。
音は、祭壇が変じた横長の箱。棺より発していた。
「こたびこそは」
王妃の口から漏れるかのように出でた短いつぶやきは、まるで祈りのような響きを有していた。
「やりましたな」「これでわが国は」「希望の光ですぞ」「国王陛下万歳」
皆が口々にさえずり始めた音のかたまりは、国王の「静かに」という震えと威厳を帯びた声により一転して静まっていった。
棺からはガタンゴトンという音がやまない。
棺を間近に望む位置へとにじり寄った魔法使いは、杖を支え棒のようにして立ち上がる。膝に力が入らないのであろうか。まるで風に揺れる樹木の小枝のように全身を覆う灰色のローブが震えていた。
荒い呼吸音とともに魔法使いは再び呪文を唱え始めている。
やがて、棺の蓋が横に少しずつずれていく。人々が刺すような視線を向ける中、ドンッという派手な音とももに棺の蓋は石の床へと落ちた。
ここはどこだろう。
それが山戸健が始めに思ったことであった。
部活のロードワークをさぼって川原の土手で寝ていたはず。ところが目を覚ましてみれば、全身が鎖で縛られたかのように身動きが取れない。
目が見えない。いや、厳密にいうと見えてはいる。墨で真っ黒に塗りつぶしたかのような暗闇を、視ている。
おおーい、と思わず声をあげる。けれども、肺から喉を経由して口から漏れるはずの言葉が出てこない。口が開かないのだ。聞こえるのは鼻から抜けるうめき声と呼吸音だけ。
幸いなことに、耳はずっと聞こえている。何やらところどころ意味が理解出来ないものの「なんちゃら神の名の元に」だとか「召されし者よ」だとか。
男の声が、まるで校長先生のような年老いた男のうなるような荒い声が聞こえてくる。
これは……夢を見ている。ここは夢の世界だ。まずはそう思った。
しかしながら、夢にありがちな第三者として自分を眺める自分が、ここには存在してなどいなかった。
心臓がドクンと跳ねる。どこなんだ、ここは?
とはいえ、夢以外のどこだというのだろう。
そう思ってしまうと、心臓の鐘の音も自然と静まっていった。慌てて、無理やり本当に目覚めて現実世界に戻るという手もある。だがそれは、考えるまでも無くモッタイナイ。 けれども、夢にしてはいくらか不可解でもあった。夢特有のいい加減さが乏しいのだ。頭そのものも冴えている。
とすれば、本当に夢ではないのかもしれない?
もしかすると……こういった展開は大好きなライトノベルでよくある話。
ずばり異世界。
……ではないだろう、そんな都合の良い話は眉唾モノだ。やはり夢だろう。けれども、限りなく現実感をともなっている。
山戸健の身体を横たえている台が揺れ始めていた。揺れるがままなこの状況、奇妙な体験に身をゆだねるしかなかった。
実際、他に何が出来るものでもない。
「時は満ちた。天駆ける漆黒の翼を備えし者よ」
目覚めた当初より聞こえ続けている老人の、くぐもった声だった。
おおおおー。
声は相変わらず出せないものの山戸健は落ち着いていた。心の中では小さなガッツポーズすらしていた。
黒一色であった視界が徐々に薄らいでいく。光が上方より差しこんでくる。
まぶしい、と思わず目を伏せ首をひねる。はたと気がつく。まぶたを閉じることが出来る、首を曲げることも可能。
先ほどまでの全身金縛り状態が嘘のようだった。顔のパーツどころか、腕も、脚も、指も、動かせる。
声は……いや、今は止めておくべきだろう。
ここで間の抜けた声をあげるというのは興醒めというもの。自身にとっても、この恐らくは異世界の人たちにとっても。きっとそうに違いない。
第一印象ならぬ第一声を粗末に扱いたくはない。大事に取っておきたい、おくべきだ。
少なくとも、「ここはどこ?」などと間の抜けた頼りなさげな問いかけを発するのはよくない。読み親しんでいるライトノベルから得た知識がそう告げる。
自らの理性が導き出したその解に、山戸健は全くの同意を与え、ごくりと唾を飲み込む。とともにその時を待つ。
棺の蓋が石の床へと落ちる。コツンという、まるで重さを感じさせないかのような小さな音がした。
「タソガ陛下。王国開闢以来の千年を超える歳月をかけて代々の魔法師が集めし魔石。その全てを以って、ここに異な世界よりの召還が、無事にかないました」
国一番の魔法使いは棺の横に立ち、叫ぶかのように言葉を発していた。
王宮の一隅に集っていた者、全ての視線は国王へと注がれている。
「よき……まことに素晴らしくも重大な使命を果たした。これで我が国は、我らの民は」
タソガ七世の唇は震え、声も揺れを帯びていた。目からは涙がぽとりと零れ落ちている。
皆が嗚咽を漏らしていた。王妃も王女も公爵も伯爵も男爵も衛兵も、全ての者が。
「我が国も、民も、大魔王の悪の手より救われるに違いない。皆の者、何をしておる。涙をぬぐおうぞ。英雄を歓迎するに泣いているなど、相応しくないぞ。さあ、ウツカ老師よ。救国の勇者を、ここに!」
「かしこまりました」
そう短く応え、頭を下げた魔法師ウツカは右手の杖を棺へ向けて振りかざす。杖の先端の、血よりも赤く、拳よりも大きな宝玉が一段ときらめきを増す。
棺が、まるで羽毛ほどの重さしかない、とでもいうかのように。風に乗った花びらのように、ふわりと浮き上がる。
ゆっくりと、それは赤子の歩きほどの速さ。だが、棺はこの国の王タソガ七世の御座近くまで運ばれていく。
魔法師ウツカが呪文を唱える。すると棺そのものが緩やかに縦へと回転しつつ徐々に、まるで霧が晴れていくかのように透けていき、やがては棺が消え失せた。
男が、青年というには少しばかり若い、少年というにはいくらか年かさの黒い髪をもつ男がその姿を王宮にあらわし始める。
ちょ、ちょっと待ってくれ!
山戸健は軽く混乱し始めていた。
寝そべっていた身体ごと浮き上がっていく不思議な感覚にびっくりしていた。けれども、今はそんなことなど些細なことともいえた。
ここが夢世界であろうと、異世界であろうと……期待値が大き過ぎるのだ。
勇者を召還。
これは良しとしよう。自分が勇者かどうかはさておき、わざわざ招くからには特別な存在を呼び出したいはず。ゆえに、強い者を。これは分かる。
だが……ここがどのような世界なのかは知らないものの、千年かけて蓄えたモノを消費してまで召還した。ということは先ほどのやり取りを聞いていたので理解していた。
けれど、それが自分?
……ヒジョーにまずい。千年ということは、日本換算だと平安時代からってことになる。これはどう考えても重過ぎる。
何か面倒な頼まれ事をされるとして、例えばその報酬がスポーツドリンクのペットボトル一つで動くほど自分は安くはない。けれど、高級プロテインの粉末ならばほいほいと釣られてしまいそうな自分が。
……英雄で、敵は大魔王?
頭の良さ?
いやいや、そこそこの進学校ではあるけれど成績は中の上。つまり、勉強で選ばれたわけではなさそうだった。
運動神経で?
うーん、野球部では二年生ながらレギュラーだ。まだ小学生の従兄弟とかに告げると「兄ちゃん、かっけー」と言われる。もっとも、部員は十二人しかいない。
強いてあげれば、脚力?
にしても、運動会では小中高とリレー選手に選ばれたり補欠だったり、だ。遅い方ではないものの、群を抜いて速いわけでもない。
やばいな、逃げ出すべきだ。これが夢としても、たかが夢でストレスが胃に来るなんてまっぴらだ。
起きろよ、俺!
……けれども、強引に意識を振ってみても場面は変わらないままだった。
夢ならば、これで目が覚めたはずなのに。つまりは考えたくもないけど、異世界。だけど、これは異ではなくて嫌世界だ。
そうこうする内に、仰向けだった姿勢が変化する。
足が浮いていた。もやがかかっていたかのような視界もゆっくりと晴れていく。
立ち乗りジェットコースターのテッペンで、後は急加速で落ちていくのを待つばかり。そんな感覚におちいっていた。
こうなったら、どうにでもなれ! と、半ば開き直りながら山戸健はゴクリと唾を飲みこんだ。
ドスン、という音が響く。
国王タソガ七世の耳は確かにその音を捉えていた。
現われた若い男がしりもちをついている。
タソガ七世の目は間違いなくその光景を見ていた。
召還されし大英雄が……なんたること! 失敗したのか?
第一声が「イテテ」 ……こう言っては失礼だが、随分と間の抜けた登場の仕方ではないだろうか。
失望の叫びをあげそうになる。
けれど、一国の王たる身としては不用意に過ぎるその軽挙は未然に防がれた。声にはならなかった。他の者たちのあげる声に半歩ほど遅れたゆえに。
「この者が? 勇者なのですか?」
王妃ヤサグの、それはひきつった声だった。気持ちは分かる。
「ひょろっとしていますな。いささか迫力に欠けているような」
トンデ公爵は戸惑いを婉曲に申し出ていた。そうであろうな、余から見ても衛兵の方が余程強そうに見える。
他の者たちも口々に失望めいた言葉を発している。
我が国は滅亡するしかないのか。胃がキリリと痛みを訴えてくる。
と、その時。
「おおおおおお! 伝説の勇者様ですぞおおおお! このお姿はまさにまさに!」
ウツカ老師の感極まった雄叫びが全ての音を圧倒していった。
はたと、我に返る。おお、そうであった。言われてみれば、まことその通り。
そこらの害獣を討つのではない。悪竜を狩るわけでもない。魔族を討伐するのでもない。悪の大魔王を倒すのである。
勇者にして約束された英雄。いわば、神の力を持つ者。姿かたちなど、常人のはかりで捉えられるはずもなし。余としたことが……。
タソガ七世は玉座よりすっくと立ち上がる。両の腕をかかげる。
「うろたえるでない! みな、聞けい」
左右をゆっくりと睥睨する。一同がシンと静まりかえっていく。
「その者、雪より白き衣をまとい、生い茂る夏の山々のような緑の腕を持ち、光の腕輪を備え、蒼き夜の帯を締める。黒き髪を草原の芝のようにそろえ、黒き瞳を銀で覆う」
家臣たちの瞳に徐々に理解の色が拡がっていく。
一呼吸空けた後、ウツカ老師へと目をやる。
「これは我が王家の始祖カツガ一世より代々の国王と筆頭魔法師のみに伝えられてきた祈りの言の葉である。ウツカ老師よ、間違いないな」
「いにしえよりの秘呪にあるままでございまする。一言一句たりとも差異、ありませぬ。国王陛下」
大きくうなずく。床に腰を降ろしたままの異世界よりの召還者へと、タソガ七世は視線を向ける。
「さあ、勇者よ。汝の名を、世界を救う尊き御名を、我らに聞かせてはくれまいか!」
顔が青ざめていく。時を追うごとに血の気が引いていく。
帰りたい! 強くそう願ってみる。
夢なら覚めて! ……全くその気配はなかった。
だがしかし、ここまでくればもはや開き直るしかないのではないのか。頑張ってみるか。山戸健はそう思う気持ちも少し芽生えてきた。
「ぼ。コホン。我が名は山戸健」
ちょっとだけ生まれていた前向きな思考は、数秒後には消えてなくなっていた。自分の名前を口に乗せた瞬間、山戸健には原因が分かってしまった。
ああ、この人たち……確かに日本神話のヤマトタケルなら勇者だろうし、大英雄だ。きっとこの異世界の大魔王とやらにも勝てるんだろう。
ごめんなさいと謝るべきなのだろうか。けれど、それも何だか違うような気がする。
白い野球のユニフォーム、緑色のアンダーシャツ、車のヘッドライトに反射する蛍光塗料入りのリストバンド、蒼き帯は単なる革ベルト。五分刈りの坊主頭に銀ブチのスポーツメガネ。
絶対間違えているよ。
勇者召還か……まずは名前で絞って、更に伝承とやらの外見で絞ったんだろうな。確か、千年分の魔石をつぎこんだとか言ってたよな。
イメージ的には、こうか。きっとノーマルガチャではなく、プレミアガチャ、それも条件絞り有りな超プレミアムガチャに違いない。
でもさ、でもさ、ありえない失敗をしでかしてるよ。
これからどうしよう。
「ようこそ、勇者殿。我が名はタソガ・レーテル。この国の王である。さあ、皆の者もヤマトタケル殿にご挨拶を」
え? 何だって?
「よくお越しくださいました。わらわは王妃ヤサグ・レーテル」
聞き間違い……ではないんだ。
「初めまして、勇者様。王女アキ・レーテルです」
ああ、そうですか。たそがれて、やさぐれて、おまけに呆れてるんですね。全く以ってその通りかと。
「魔法師ウツカ・リサンでございます」
あんたのせいだ! 何、大事な点をウッカリしてるんだよ。
「公爵トンデ・モナイである」
ですよねー、とんでもないですよね。
「ソウデ・モナイ伯爵。トンデ・モナイ公は叔父上にあたります」
そうでもないですか。根拠は無いけどポジティブシンキングっと。
「わたしはタオセ・ルワケナ・イヨ伯爵であります」
「私は伯爵ネム・レナ・イヨ」
「イガイ・タ・イヨ子爵と申します」
……心の代弁者かよ。
「イヨ一門の総帥カエサナ・イヨ侯爵です。大魔王ヘガデ・ルの討伐、よろしくお願いいたしまする」
敵はおならプーかよ。
「私は」「私は」「私は」「私は」
ああ、もう止めてくれ。っていうか、勘弁してください。
うん、そうだ。これは不幸な出会いだったんだよ。
そっちは間違った者を招いてしまってる。
ホンモノのヤマトタケルさんは、多分二~三千年くらい前の人だよ!
こっちも間違えた異世界に来てしまったんだよ。
もっとこうシュバルツなんちゃらとか、オーディンとか、ローエングリンとか、精霊が囁くとか、大地よ砕けろバーストほにゃららとか、そういうの! かっこいいネーミングにあふれている異世界に行ってみたかったんだよ!
そうだ! ノーカウント、ノーカウント!
もちろん、そんなに都合よくいくはずもない。
山戸健は出来ることならば耳をふさいでこの場から消え去りたかった。けれど、ただの高校生は勇者ヤマトタケルではないので、ダッシュで駆け出しても屈強そうな衛兵にすぐ捕まりそうだった。
「ようこそ、ヘンデス王国へ!」
満面の笑みを浮かべている国王の、そんな声が聞こえてきた。