何か疲れる
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「主任、メールで送った書類読んでいただけました?」
「ああ。今読むから」
「何かお疲れですね?」
「うん。君も分かる?俺が疲れてるのが」
「ええ。……体調にはお気を付けくださいね」
「ああ、まあな。……でも仕事あるから、仕事しないとな」
そう言ってパソコンのディスプレイに見入り、部下の児玉が送ってきた書類に目を通し始める。彼は出来る人間だ。俺のように単なる地方の三流半ぐらいの大学の法学部を卒業した人間じゃないのだから……。児玉も自身が都内の某国立大学の大学院の修士課程まで出たことを自慢している。まあ、学歴などへのツッパリにもならないのがこの世界の実情だったが……。
毎日午前八時過ぎに重たい体を抱えて出勤する。さすがにずっと仕事が続くと疲れるのだ。今の社に入社して十年以上経つのだし、部下を抱える管理職なので重責だったが、ちゃんとやっていた。欠勤など出来ないのである。週末やまとまった休みの日以外は、ずっと仕事が続いていた。
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「主任、お昼ですよ。お弁当です。コーヒーも淹れておきましたので」
「ああ、済まないね」
女性社員の若村がデスクに食事と、熱々のホットコーヒーの入ったカップを届けてくれた。彼女は未婚だが、もう二十代後半ぐらいでずっと普通の女性社員だ。おそらく独身を通すのだろう。そう言う俺も三十代半ばで独り身だったが……。
いつも昼は社と契約している仕出し屋が弁当を持ってくる。昼はそれだけで済ませているのだった。食事に関し、特に嗜好はない。ただ、和の弁当と洋風のそれなら、和の方がいいという程度だった。ちなみにこの弁当は一つが四百円ぐらいで、食事代として給料から差し引かれるのだが、週休二日で、勤務日が月に二十日間程度なので、月に八千円ぐらいだった。
それに残業時など出前が取ってあったりもする。だが、ラーメンもうどんも蕎麦もそう高くは付かない。そう思って食べ続けていた。一杯が四百円ちょっとぐらいでも、残業代で十分カバーできる。
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午後から会議などが入ることもあった。一つの係の主任として、資料やデータなどを詰め込んだパソコンを持ち、出席する。会議中はずっと他人の発言を聞き続けていた。何か気になることがあれば、持参していたノートパソコンのメモ帳にメモしておく。今はパソコンなど出来て当たり前で、職能でも何でもないのだが、昔は違っていた。
俺の就活時期は二〇〇〇年前後で、ちょうど就職氷河期を経験していたのである。当時大学に在学していて、法律を勉強しながら、同時に就活も続けていた。受けて内定をもらった会社が三社ほどあったのだが、あえて今の社を選んだのである。働きやすいんじゃないかと思って、だった。
それにしても主任である以上、気を抜けない。仕事が終わった後、仲間内で飲みに行ったりすることはなかった。別に気に留めていなかったのだが、金が溜まる分、ストレスも溜まる。その繰り返しだった。何かしら疲れを覚えていたのである。きついなと。
普段から考えていた。これから先もこんな感じで仕事が続くのかと。さすがに生身の人間である。心身ともに疲労が溜まっていた。だが、没頭することでいいとも思ったりする。確かに過労やストレスは大敵だったが、どうしても避けられないからだ。
長時間の会議になると、眠くなったりすることもある。だが席を立ち、コーヒーを飲みに行くわけにはいかない。あえて我慢していた。もちろん、十年以上同じ会社にいるのだから、社内の勝手は手に取るように分かっていたのだが……。
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その日の会議後、児玉が、
「主任、本当に体調大丈夫ですか?お顔の色がお悪いですよ」
と言ってきた。
「うん。一応一定期間経れば、治ると思うし」
「一度、この街の精神科を受診なさったらどうですか?今、いい医者がいて、安定剤もたくさん種類がありますよ」
「そう?あまり関心ないけど」
「騙されたと思って行ってみてくださいよ。ここに」
児玉がそう言って、街の目抜き通りにある<森原メンタルクリニック>のパンフレットを置き、自分のデスクへと舞い戻った。一度行ってみてもいいかなと思う。何せ疲労が溜まったまま、仕事を続けるのは難儀だったからである。
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ちょうどその週の土曜は仕事が休みで、午前十一時頃に森原メンタルクリニックに行った。そして受付で診察の手続きを済ませ、待ち続ける。慢性的に仕事が続いていてきつかったから、ちょうどいいと思う。今、精神科もいろんな人間が来るから、昔のような誤った認識はない。
ドクターの森原と会い、初診だったので、小一時間話をした。そして診察が終わり、投薬してもらうことになる。極軽めの安定剤のようだった。副作用としては、わずかに眠気が差す程度と一言言われる。さすがに慌しい職場では、安定剤の副作用である眠気が来ることなどまず有り得ない。
「また体調がお悪いようでしたら、いつでもおいでください」
「ありがとうございます。では」
森原は気さくな医者で、初対面の俺も緊張はしていたのだが、ゆっくりと話をすることが出来た。別に斜に構えたようなところはまるでない、普通の壮年医師だ。
診察費を支払い、病院と隣接する処方箋薬局で薬を受け取って帰宅することにした。病院で待たされたり、投薬をしてもらったりするのも、長時間になることはまずない。案外淡々と済んでしまう。待ち時間、ずっとタブレット端末かスマホを使っていた。時間が惜しいと思うことがあるからである。
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疲れるという、つっかえ棒のようなものが取れ始めているのが分かってきた。確かに誰とでも仲良くなれるわけがない。ただ人間だから、出会ったり、離れたりしてしまうことが絶えずあるのは分かっていた。こんなことは極当たり前である。誰からも言われずに素直に受け入れることが出来ていた。
自宅までここから歩いて二十分ほどである。秋めいた通りの様子を見ながら、歩き続けた。ゆっくりと、だ。焦ることはないと思う。時間など作ればいくらでもあるからだ。そんなことを感じながら、また慌しい日常へと舞い戻る羽目になる。歩きながら、スマホを見続けていた。情報収集に余念がない。そこら辺りに一介のサラリーマンとしての俺の生き方があるのかもしれないと思っていた。何事にも安易に妥協せずに、である。
ちょうど午後一時過ぎで、朝食べたきりだったので、近くの牛丼屋へと入っていった。そして一食が四百円ぐらいの格安の定食を一つ頼み、食べる。さすがに空腹は覚えるのだ。しっかりと仕事をしている分、食事に金を掛けることは惜しまない。今の三十代男性というのは、実際のところそうだった。食事を取りながら考える。これから先のことを、だ。たとえ淡々としていて、つまらなくても、それが俺の日常なのだから……。
(了)