叢雲隠れ
「無月、着いたぞ」
穏やかな呼びかけに、無月は目を覚ます。
夕日が山の端にかかり、フロントガラスから差し込む日差しは、赤く柔らかく色づいていた。
その光に、日向の色素の薄い髪が、薄桃色に染まる。
「…綺麗」
覚醒しきっていない頭で、無月はぼんやりと呟く。
「ほら、起きろ!」
日向に額をはたかれ、無月ははっと目を見開いた。
「あ、…お、おはよう、日向」
自らが眠っていたことにたった今気がついた無月は、恥じ入るように俯く。
「ごめんなさい…寝てしまって…」
「気にするな。疲れてたんだろ。その上あれだけ満腹になればな」
そうして悪戯っぽく笑った。
そんな日向に、無月はむっとむくれる。
「いいじゃない!お腹が空いていたのよ!」
日向は声を立てて笑うと、シートベルトを外した。
「まさかきつねうどん完食した上に抹茶アイスまで…」
「日向!うるさいわ!」
無月は、さっとシートベルトを外して、ばんっと車外へ出て行った。
一人車内に残された日向は小さく笑うと、すぐに無月を追うべく扉を開けた。
車外へ出ると、無月は十メートル程先を早足で歩んでいる。ボタンを押して車の鍵をかけるのもそこそこに、日向は急いで無月に駆け寄った。
前方を早足で歩く無月を、駐車場内の人々は、呆気に取られたように見つめている。
「…無月!」
注意をしようと呼び止めた日向だったが、しかし、「何?」と振り返った無月に唖然としてしまった。
無月の漆黒の髪は夕日を受けて幾分柔らかな輝きを放ち、振り向くと同時に広がり、そして背に纏まる。
作り物めいた造形の顔立ちが、こんな風にはにかむ姿を見たのは久方ぶりだった。
クリーム色のスカートがふわりと揺れ、その下から雪のような脚がすらりとのびる。
暑さの和らいだ風が、ふわりと無月を包み込み、また、長い髪を舞わせた。
その瞬間、日向は、はっと我に帰る。
「…旅館の場所分からないだろ。ほら」
「それもそうね」
無月は嬉しそうに差し出された手を握った。
無月の指が絡まる瞬間、日向は一瞬、僅かな緊張を感じた。
無月にこんな風に見惚れることも、彼女に触れるのを躊躇うことも、これまで経験したことのない感覚だ。
しかし、日向は自らの感情に驚きはしなかった。何故なら、その感情はとうの昔に自覚していたからだ。
そして、その感情は、決して無月に悟られてはならない。彼女は、ただの幼馴染としての日向を望んでいるのだ。安心して共に過ごせる存在を。
日向は、己を自嘲した。想いを告げることも出来ず、ただ、無害な幼馴染を演じるしかない、そんなありふれた存在を。
しかし、実際日向は、自分自身の想いさえ、正確に測れてはいなかった。自分は一体、何を欲しているのだろう。無月に対する、幼馴染以上のこの感情は何なのか。幼馴染の延長なのか。それとも、恋人にしたいのか。
「恋人」
その響きがまた日向を困惑させた。
こうして無月の手を握り、彼女と歩幅を合わせていると、その表現に妙な違和感を感じる。本当に、それが自分の望みなのだろうか。
そうして考えに沈んでいく日向を不審に思ったのか、無月はくいと日向の手を引いた。そして、その顔を覗き込む。
「日向、歩きながら考え事?危ないわ」
前髪の間から覗く眉が顰められる。
「一体何を考えているの?仕事のこと?」
とにかく、このよく分からない感情は、無月に見せてはならない。
日向は儚げに微笑むと、「受けようか迷ってる仕事があるんだが…」と、平気な顔で嘘をついた。
――――……
「ようこそお出で下さいました」
二人を出迎えた女将は、柔和な笑顔をたたえた、初老の女性だった。小柄な体躯はきっちりと和服で整えられ、白髪混じりの髪も、丁寧に纏められている。
そんな彼女が日向、無月と並ぶと、更にちんまりとして見える。
日向は、彼女に会釈を返すと、無月の手を引いた。無月の視線は女将を捉えることなく、ホールに生けられている花に向けられていた。
そんな無月に、そして隣に並ぶ日向に、一瞬見惚れた女将であったが、年の功の成せる技か、すぐに上品な佇まいを取り戻す。
「お疲れでございましょう。お部屋へご案内致します」
「ありがとう」
日向は最低限の返答を返し、また無月の手を引く。
「無月、行くぞ」
「えぇ」
無月は名残惜しげに花を眺めていたが、すぐに日向に従って歩き出した。
――――……
「こちらでございます」
その部屋は、畳敷きの間が左右に三つずつ広がっており、正面の間には大きな長方形の卓やテレビなどが備え付けられていた。
また、全面庭に面しており、全てガラス障子となっているため、趣向の凝らされた庭が一望できる。
専用の浴室と露天風呂も設けられているようだ。
「こちらのお部屋には専用の庭園が備え付けられております故、是非にご散策くださいませ」
無月がガラス越しに庭を眺めている間、日向は説明を受けていた。
「ご夕食はいかがなさいますか?」
「もう運んでいただいて構いません」
「承知致しました」
それらのやり取りを済ませると、彼女は楚々と退室して行った。
「無月」
座椅子に腰掛け、用意されていたお茶を手に取って、日向は呼びかけた。
その声に反応し、すぐさま窓際を離れ、正面の座椅子に腰掛ける無月。
「ごめんなさい。でも、本当に綺麗なお庭だわ」
そう言って、嬉々としてお茶を口に運ぶ無月に、日向は思わず笑ってしまう。
「そういえばさっき、玄関の花を見てたな。何か面白い花でもあったか?」
「えぇ。桜が混じっていたの」
「桜?この時期に?」
それは、確かに妙だ。初夏のこの時期、桜などとうに枯れ落ち、青々とした葉が茂っているはずなのに。
「あの桜は、どうしたのかしら」
そう言って、また庭に目を向ける無月を、日向は切なげに見つめた。
「後で、聞いてみるか」
つい、明るい声音でそう提案してしまった。そんな日向に気付いたのか、無月も明るさを取り戻す。
そんなとき、丁度襖越しに声が掛けられた。図ったようなタイミングに、二人は顔を見合わせ、悪戯にはにかむ。
「失礼致します。ご夕食をお持ち致しました」
「はい」
日向の返答を皮切りに、次々と夕食が運び込まれてくる。すぐに二人の眼前の卓は、多すぎるほどの料理で埋め尽くされた。
「本来なら、順に運ばせていただくのですが、今回春乃宮様の御要望により、お二人きりでとのことでしたので、全て運ばせていただきました。それでは、御用の際はすぐにお呼びくださいませ」
そう言って、また音もなく退室しようとする女将を、日向はすぐに呼び止めた。
「少しお尋ねしたいことがあるのですが」
彼女は正座の状態から更に腰を低くして、丁寧に礼をした。
「はい、何なりと」
すると今度は無月が言葉を継いだ。
「玄関のあの桜の花はどちらのものなの?」
一瞬、その玲瓏たる声音に言葉を詰まらせた女将であったが、無意識に平伏しながら、なんとか言葉を返した。
「はい、この宿の裏山の登り口に、神社がございまして、この辺りでは土地神様として奉っております。こぢんまりとした境内ではございますが、その境内の奥の方に、一本、年中咲き続ける桜の木が…」
「年中?」
女将の説明を遮り、無月が驚きの声を上げた。だが、それに気を悪くすることもなく、女将は言葉を繋ぐ。
「はい。品種などは別段珍しいものでもなく、また、気候や風土なども他所と変わるところはございませんので、原因などは私共にも分からぬのですが…この辺りでは狂い咲きの桜ということで『狂い桜』と呼ばれております」
「珍しいですね」
日向も驚きを声音に滲ませていた。
「もし宜しければ是非ご散策ください」
そう言い残すと、女将はまたいそいそと退室して行った。
そんな女将の態度は、無月を前にした人間としてさほど珍しいことでもないので、二人は別段気に留めることもなく箸を取った。
「いただこう」
「そうね」
そうして、二人はずらりと並ぶ料理に箸をつけた。
「無月、明日、行ってみるか?」
「えぇ、面白そうだわ」
無月も心から楽しそうに首肯した。
そして、にこにこと笑いながら、「美味しいわ」と呟く。
料理の質で言えば、藤泉院家の食事に敵うものなどない。日頃より美味しいと思えるのは、この状況によるものだろう。
そう考えると、日向は、嬉しいような、切ないような、妙な感情に囚われた。無月の現在置かれている状況を思えば、何もしてやれない無力な自分が悲しかった。そして、その中でも、彼女に僅かな安らぎを与えることが出来ているのだ、と思うと、また、嬉しくもあった。
――――……
「日向、透の誕生日会のことなのだけれど」
深夜、しんと静まり返った部屋で二人、枕を並べてまどろみに身を任せていると、唐突に無月が囁いた。僅かに身じろぎして、彼女の方へ体を向ける。微かな衣擦れの音が異様に大きく聞こえた。
「何だ」
月明かりの下でぼうっと輝く無月の頬に、日向はそっと手を沿わせた。無月を安心させるため。そして、彼女の存在を感じることで、自身を安心させるために。
そんな日向の手に目を細めて喜びを示しながら、無月は再び口を開いた。
「きっと私も、透の婚約者候補なのよね」
日向は、無月の頬に載せていた手をすっと引いた。無意識に力がこもってしまえば、無月の顔に傷がついてしまう。
しかし、すっと熱の引いた体とは裏腹に、冷静さを失いつつある自身を、日向は確かに認めていた。努めて穏やかな声音を出そうとも、表情が氷のように冷たく固いものになっているがために、それは徒労に終わる。
「…そうだろうな」
何とか絞り出した声も、およそ自分の声だとは思われなかった。しかし、無月は僅かに首を傾げながら、心底不思議そうに問い返す。
「…でも、私は日向と結婚するのでしょう?」
それから、二秒程の間を空けて、彼女は少しだけ決まり悪そうに付け加えた。
「…そう、周りの人たちが言っているの」
そうして、彼女はゆっくりと瞳を閉じると、再び重たいまつ毛を持ち上げた。
「でも、私たちが夫婦になるなんて、何だか変な感じね」
彼女の出した結論に、日向は心の底から同意した。日向自身、無月に対する気持ちを測りかねていた。それが、異性に対する想いなのか、それとも、もっと別の何かなのか。
これが恋心であることを、恐らく半ば祈っているのだ。そうであるならば、この先もずっと、彼女と共に生きていけるのだから。
しかし少なくとも、無月が日向に抱いている感情は、恋情ではないに違いない。
無月は、あまりに世界を知らない。より正確に言うならば、ことに敵意や害意に関しては殆ど無知である。
よって、無月と面識のある大方の者は、無月を危険視することがない。言葉を選ばずに言うならば、彼女に計略を練るだけの思慮や見識があろうとは思われていないのだ。
無月の生まれだけを知り、彼女と実際に対面したことのない人々の中には、影ながらそのような評価を下す者もいる。
しかし、そうではないのだ。彼女は決してお飾りの人形でいられるような器ではない。
豊かな感受性、冷静な判断力、そして、適切な対応を行うだけの器、それから何より、得難い正義感と、それを支えている芯の強さは、何物にも代えがたい。
だからこそ、彼女は他人を傷つけない。超然としたその姿を見るたびに、日向は恐ろしくなる。彼女には、もっと生まれるに相応しい世界があったのではないかと。
「……無月、俺は、お前がいつか消えてしまうんじゃないかと思うと、恐ろしくて仕方がない」
思わず溢れた掠れた声に、無月は目を見開く。
「…私は、どこにも行かないわ。でも、私も、日向がいるから、何にだって耐えられるの」
日向は再び、無月の頬をその手で包み込んだ。
叢雲が月を覆ったのだろうか。二人の姿が再び照らし出されることはなかった。