表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/63

祝福の日


「つまり、颯馬様は無月様のことを愛してらっしゃるということですの?」


 からかうでもない、純粋な目に見つめられ、颯馬の顔は赤く染まった。

 

「愛…してるんだと、思い、ます」


 かろうじてそう絞り出せば、蜜華は一言、「そうですの」と納得し、目の前の紙コップに入った紅茶に手を伸ばす。


「…颯馬様のご気性を鑑みれば、無月様を無二の装飾品だと思われているわけでもないのでしょう」


 独り言だったのだろう。

 しかし、賑やかなファストフード店に、その静かな声は際立って聞こえた。

 颯馬は答えるべきか逡巡したが、結局迷いながらも口を開いた。


「…見た目のことをこんな風に言うのは憚られるのですが、初めは、無月さんの姿が苦手だったんです」


 姉で慣れているはずの自分でさえ、彼女の美貌が常軌を逸していることくらい一目で分かった。

 そしてそのとき湧き上がった感情は、憐憫にも似た切なさに他ならなかった。

 直視していたくない、痛々しい、そんな感情だったのだ。

 それは、姉のこれまでの人生を、間近で眺めてきたからなのだろう。

 美しすぎる姉の周囲で生きてきた痛みを、忘れられないからなのだろう。

 大多数から浮くこと。

 周囲の注目を集めること。

 それが生きていく上でどれほどのハンデになるか、颯馬には分かっていた。

 そして確かに、彼女は深く傷ついていた。

「自分は一人ぼっちなのだ」と本気で信じ込むほどに、心を閉ざしてしまっていた。

 それを見たとき、「無理もない」そう納得した自分が、確かにいた。

 しかし同時に、沸々と湧き上がる何かがあった。「何故そんなことを言うのか」と怒鳴り散らしたい衝動。どうしようもない悲しみ、やるせなさ。

 それは、彼女を姉に重ねていたが故の激情だった。

 笑ってほしい。幸せになってほしい。

 理不尽なひどい世界だけれど、どうか負けずに、前を向いて生きてほしい。

 そんな姉への密かな願いを踏みにじられたかのようだった。

 今ならば分かる。

 複雑な生い立ち、狭い世界の中で、彼女は雁字搦めにされていたのだと。

 しかし、あのときは、感情に任せて声を上げることしかできなかった。

 彼女の気も知らず、ただ自分の言いたいことを喚き散らしただけだった。

 それなのに、彼女は言ったのだ。


――ありがとう、と。


 孤独に苛まれながら、それでも彼女は考えることをやめてはいなかった。

 希望を捨ててはいなかった。


「僕はあのとき、無月さんは不幸だと決めてかかっていました。でも、そうじゃなかった」


 誰より強く未来を願う彼女。

 誰より周囲を愛する彼女。

 その眩さが、いつしか痛みを塗り替えていった。


「彼女に恥じない自分でありたいと、思います。彼女の笑う未来に生きたい」


 蜜華は透明な瞳でひたと見つめた。

 吸い込まれそうなその色は、一体何を見据えているのだろう。何を思っているのだろう。

 どれだけの沈黙の末にか、蜜華はようやく口を開いた。


「…無月様とともに生きることがどういうことか、聡い颯馬様には分かっているはずですわね」


 その雰囲気には他者を萎縮させる何かがあった。

 それでも、颯馬は視線を逸らさなかった。

 迷わず頷いた。

 その先にはこれまで以上の困難が待ち構えていることだろう。

 これまでになかった選択を迫られるかもしれない。

 それでも。


「あの日、無月さんに出会えたことが、僕の人生の幸いだったんです。例えどんな困難に見舞われても、不幸になんてなれません」


 それに、と背筋をピンと伸ばした蜜華を見据える。

 その表情は年頃の娘にしては凛々しく、勇ましささえ感じられる。

 しかしどこか、泣いているようにも見えた。


「彼女の羽ばたく空を奪わせはしません。この先もずっと」


 僕は、その空の青さに救われたのだから。

 

 蜜華は小さくため息をついた。

 知っている。

 その言葉に嘘がないことも、その覚悟を違えることはないことも。

 そして何より、無月が同じ心を彼に抱いていることも。

 無月の空が彼の救いであったように、彼の見据える空もまた、彼女の希望だったのだから。


「……私、無月様をお慕い申し上げておりましたの」


 低く、しっかりとした声が出た。

 本当は、こんなことを言うつもりはなかった。

 今更、こんな場所で、本人にさえ告げなかった心を、伝えるつもりなどなかったのだ。

 さぞ未練がましく聞こえることだろう。

 さぞ驚くことだろう。

 そんな恐れに負けそうになる。

 しかし颯馬は、ただ静かに次なる言葉に耳を澄ませていた。

 そこには驚きも軽蔑も、困惑さえなかった。

 そうか、と納得する。

 きっとこんな彼だから、無月の心に届く言葉を発せたのだろう。

 もう、恐れることなどなかった。


「あの愛は本物でしたわ。ですから同時に分かっていました。私では、無月様を幸せにして差し上げられないと。性別など関係なく、私では駄目なのだと」


 だからこそ、日向に協力していた。

 日向と共にいる無月は、少しだけ自由に笑う気がしたから。

 結局、あれほど近くにいながら、無月の表情一つ正しく読み取れてはいなかったのだ。


「颯馬様」


 眼前に座る青年は、どこにでもいるおよそ平凡な高校生だ。

 だが彼は、彼の心は、彼だけのものなのだ。


「永遠なんていうものが無いことくらい、私にも分かっています。それでも、どうか、そのお気持ちだけは、変わらないことを祈っておりますわ」

「…確かに、永遠なんてありません。変わり続ける一瞬の連続です」


 でも、と颯馬は考える。


「僕が彼女の幸せを願うことに、変わりはないことだけは分かります」


 永遠などないと言ったその口で、それでも願いを信じる、愚かしいほどの眩しさ。

 蜜華は心の底から愉快になり、初めて涙が浮くほど笑った。

 彼の言葉を信じるわけではない。

 人の心は移ろうものだし、人生というものは、何が起こるか分かったものではない。

 それでも、見てみたくなったのだ。

 彼の言う「彼女の幸せ」を。


「…だそうですわよ、無月様。そろそろ出て来てくださいな」


 はっとする。

 今、ここに彼女がいるのか。

 蜜華の視線の先を辿る。

 そこには、確かに言葉通り、茫然とした無月が立っていた。


「……今のは、今の、言葉は」


 唇がわなわなと震えている。

 信じられないという疑心と、疑いたくはないという不安。

 膜を張った瞳に、くしゃくしゃに歪められた眉。


「…颯馬さん、本当、なの?」


 颯馬の視界から、何もかもが消えた。

 見えるのは目の前にいるのは、ひどく傷つけた彼女の心だけ。

 どう立ち上がったのかも分からない。

 気づけばその冷たくなった両手を、きつく握りしめていた。


「無月さん」


 名前を呼べば、彼女の瞳から雫が落ちた。

 息を呑み、時が止まったかのような彼女に、もう一度呼びかける。


「…好きです、無月さん」


 いくら言葉を尽くそうと思っても、これ以上の言葉は出てこなかった。

 ただ彼の目が、その声が、何より彼女を想うと訴える。

 もはや疑うことなどできなかった。


「…私も、颯馬さんが好き」


 もう二度と口に出すまいと決意した言葉。

 それがこんなにも幸せな響きを持っていたなんて。

 無月が颯馬の腕におさまると、周囲で唖然と見守っていた人々から、遠慮がちに拍手が起こった。

 それは徐々に広がり、音を響かせ、いつしか大きな喝采となり、店中から割れんばかりの祝福が湧き上がった。

 そのときになって初めて、颯馬はここがファストフード店であることを思い出したほどだ。

 恥ずかしさでどうにかなりそうだったが、彼女はといえば、それはそれは嬉しそうにはにかんでいた。

 なるほど、彼女が笑うのなら、こういうのも悪くはないのかもしれない。

 情緒も何もなかったが、こんなにたくさんの人たちに祝福される出発なんて、いかにも自分たちらしいではないか。

 人だかりの中には、日向や槙、それから、一葉、夏希、佐月の姿まで見えた。

 いつか見た成宮透や藤子、光親子までが、目に涙を浮かべている。

 この分だと、無月を知る人物は、全員ここに集っているのだろう。

 まったく、と内心涙まじりで息をつく。

 揃いも揃ってお節介でお人好しで、心優しい人たちばかりだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ