はじまりのとき
「まったく、何やってるのよ、我が愚弟は!」
あまりの言いようだったが、颯馬には返す言葉もない。
ばつが悪そうに黙っていると、茶子は更に肩を怒らせた。
それを隣に座る康助が、「まぁまぁ」と宥める。
「茶子さん、落ち着いて。颯馬君はよくやっているよ」
「この状況の!どこが!よくやっているのよ!」
勤め先に通い詰め、何も言わずに去って行く。
どう控えめに言ってもストーカーではないか。
怖すぎる。
そう訴えるも、康助はのほほんと笑った。
「いやいや、その人とは仲良しだったんだろう?きっと大丈夫だよ」
全く大丈夫ではないと、茶子には分かっていた。
しかし、この能天気な夫には、何を言っても無駄なこともまた分かっていた。
「とにかく」
と咳払いし、声を低める。
「このままじゃ事態は全く好転しないわ。策を練らないと」
「そうだねぇ…」
颯馬とて、焦る気持ちはある。
彼女との会話がなくなって、既にひと月だ。
誤解ならば解くのは早ければ早いほど良いし、謝罪も然りだ。
しかし、彼女と向き合うと、何故かうんともすんとも言えなくなってしまう。
この間まではどんな話でもできたのに。彼女を前にして緊張する日が来るなんて。
颯馬は俯き、握り締めた両手を見つめた。
もはやどうすれば良いのか分からなかった。
康助は、そんな颯馬を元気づけようと、なるべく柔らかく声をかけた。
「まぁ、仕方ないよ。好きな人を前にしたら、皆そうなるからね」
それを聞くが早いか、颯馬は弾かれたように顔を上げた。
「……好きな人?」
茫然と、康助の言葉をなぞる。
確かに彼女のことは好ましく思っている。
当然ではないか。彼女は、友人であり、良きライバルなのだから。
信頼もしているし、尊敬もしている。
しかし義兄の言う「好き」はそれらとは全く別種のものだった。
「俺が無月さんを好き?」
口に出すと、想像していた以上の実感が全身を駆け巡る。
そうか、俺は、あの人のことを好きだったのか。
「今更何言ってんのよ!」
ばしっと強く背を叩かれる。
見上げると、いつの間にか姉が隣に立っていた。
完全に呆れ眼である。
「初めから、恋の相談以外の何ものでもなかったじゃない」
途端に、かっと顔が熱くなる。
そうと気付いてしまえば、今までの言動が恥ずかしい。
彼女の「好き」を聞いたとき、まともに取り合わなかったのは、冗談だろうと判じた心以外に、僅かな苛立ちがあったのだ。
他に想う人がいるのに、何故そんなことを言ってよこすのかと、そんな恨めしさが、意識の奥の奥に、確かにあったのだ。
何て幼稚だったのだろう。
思えば彼女は、そんなたちの悪い冗談を言うような人ではなかった。
例え他人の情動には疎くとも、友人に、心の無い言葉を投げかけるような人ではなかった。
「…俺、無月さんに何て謝ればいいんだろう」
取り返しのつかないことをしてしまった。
そう、茫然とする颯馬。
しかし、それを康助は優しくもしっかりと否定した。
「心から謝れば、伝わるよ」
そうだ。
彼女は決して、必死に語りかける相手の心を、無視することはない。それが例えどんな相手であっても。
危ういほどの直向きさで、向き合おうとする。
そういう人だった。
「…そうですね」
取り返しがつかないなんて、そんな自己完結をしてしまうのは、都合の良い逃げ道でしかなかった。
伝えよう。
他の誰でもない、自分自身の言葉で。
「やっと貴方らしい顔になったじゃない」
姉のお墨付きに、しっかりと笑い返せた。
本当は、とても怖いけれど。
「それで、その人と共通の女友達はいないの?」
「共通の?」
突然何を言うのだろうと思いつつ、「いるけど」と肯定する。
すると茶子はあからさまにほっとした顔で「それは良かった」と頷いた。
「じゃあまずその子に相談してからにしなさい」
出鼻をくじかれた颯馬の顔には明らかな困惑が浮かぶ。その表情は言葉よりも雄弁に「何故?」と問うていた。
「貴方不器用だから。二人を知ってるその子なら悪くはしないでしょ。戦にはバランサーが必要なのよ」
分かるような分からないような理屈ではあったが、康助まで「そうだねぇ」と笑っていたため、大人しく従うことにした。
ともあれ、ちっぽけな恥や外聞を気にする余裕がないことだけは確かであった。




