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失恋カフェ


「ねぇ店長は失恋ってしたことある?」


 またその話かと男はため息をついた。

 誰だこいつと休憩時間がかぶるようなシフトにしたのは、と心底恨めしい気持ちになったが、自分以外の何者でもない。

 そもそも人手が足りていないのだから、かなりの確率で昼時が重なるのは不可抗力だった。


 初めこそ、気の毒だと思いもした。

 さっさと告白してしまえ、と投げやりにけしかけた負い目があるから尚更だ。

 しかしこうも長い間うじうじされれば、いい加減立ち直れと言いたくもなってしまう。


「休憩室はてめえの失恋カフェじゃねぇんだよ」


 そう吐き捨てれば、無月は「ひどいわ!」と憤慨する。

 余計にうるさくなったと眉をひそめる他ない。


「少しくらい話を聞いてくれたっていいじゃない!」

「うるせぇ!一体何度同じ話を聞かされてると思ってんだ」

「店長の方がうるさいですよ」


 同じく休憩中だったチーフに指摘され、男はぐっと苛立ちを抑える。


「いいじゃないですか、話くらい聞いてあげたら」

「…さっさと次の恋すりゃいいんだ、若いんだから」

「それは店長には言われたくないんじゃないですか?」


 さらりと発された言葉に、無月は微かに首を傾げた。

 どういう意味なのだろう。

 店長は既婚者なのに。

 左手に光る控えめな指輪は、どこからどう見ても結婚指輪だ。

 無月の疑問を察した男は、何でもないことのようにコーヒーを啜った。


「あぁ、そうか、藤泉院は知らなかったか。嫁さん亡くなってんだ」


 特に悲しげな声でもなかった。

 無理をしている様子でもなかった。

 彼の中ではもう全てが、納得のいく場所に収まっているようだった。

 だからこそ、その事実は、すとんと無月の胸に落ちてきた。

 気を使う必要はないのだと、伝わってくる。


「お前も驚くような美人だ。写真見るか?」


 懐かしんでいるのだろう。

 声の響きがいつになく柔らかい。


「見たいわ」


 そう言うと、どこか嬉しそうに彼は液晶の画面を差し出した。

 写真に写る彼女は、緩やかにウェーブした髪をなびかせた、背の低い女性だった。

 瞳は慈愛に満ちており、腕には小さな女の子が抱かれている。

 

「本当、綺麗な人ね」


 心の底から無月はそう思った。

 世界中の誰よりも幸せそうな笑顔だった。


「そうだろ」


 そして眼前の男もまた、全く同じ顔をしている。

 きっと彼は今でも、誰より彼女を愛していて、それが何より幸せなのだろう。


「ねぇ店長、そんな素敵な恋ができる秘訣ってあるの?」


 若い悩みだと思った。

 苦くて爽やかで、眩しい悩みだ。


「とりあえず笑っとけ。女は笑ってさえいれば数百倍は可愛く見える。おら、休憩終わりだ。フロアに出ろ」


 言葉尻は素っ気なかったが、無月はその言葉に確かに勇気付けられた。

 そうだった。

 どんなときも笑顔を忘れてはいけない。

 一瞬一瞬の楽しさを蔑ろにしてしまうから。

 笑って、日々を慌ただしく過ごしていれば、この胸の痛みもじきに引いていくのだろう。

 いつか、他の誰かと愛し合うこともあるかもしれない。

 それは少し、寂しい気もするけれど。

 少なくとも、このまま前にも後ろにも進めないよりはずっと良い。


「ありがとう店長!とりあえず、目の前のことに打ち込んでみるわ」


 そう言って、無月は慌ただしく部屋を出て行った。


「…バックヤードでばたばたすんなって言ってんだろ、まったく」


 男は大きくため息をつくと、自分もそろそろ業務に戻るかと席を立つ。

 そうして扉に手をかけたところで、その扉が勢いよく開いた。


「うおっ、何だ」


 思わず肩を揺らし、突然眼前に舞い戻ってきた人物に、不審げに眉をひそめる。

 

「忘れ物か?」


 そこには、先程までの威勢が嘘のように、おどおどと戸惑った無月がいた。

 思わずチーフも立ち上がり、「どうしたの?」と駆け寄る。

 無月は、二人を交互に見つめ、「…どうしよう」と口を開いた。


「彼が、いるの、フロアに一人で」



――――……



 運の悪いことに、今日は特に人手が足りていない日だった。

 キッチンは場立ちのような騒ぎであるし、フロアはチーフ、無月、そしてベテランアルバイトの三人で何とか回すことになっている。

 無月がフロアに戻れば、今立ち働いている女性は休憩に入ってしまう。

 そしてチーフは、あと三十分は休まなければならない。

 つまり必然的に三十分間、無月は一人で接客を行うことになる。

 勿論、店長もフォローに入るつもりではいたが、特定の客を避けている余裕はない。

 要するに、必死の訴えも虚しく、彼女は今一番会いたくない人物の接客をすべく、バックヤードから放り出されたのである。


「……ご注文をお伺い致します」


 まさに戦々恐々といった様子の無月が現れると、颯馬もまた、どこか戸惑ったように瞳を揺らした。

 一瞬、何か言いたげに口が開かれる。

 しかし結局、彼はその口で定食を注文すると、「以上です」と締めくくってしまった。

 二人の間に気まずい沈黙が流れる。

 しかしそれも瞬間的なことで、


「すみませーん!」


 と無月を呼ばわる声で、すぐに現実に引き戻された。


「はい!少々お待ちくださいませ」


 振り向きそう返答すると、素早く注文を復唱する。

 その間にも颯馬は何かを逡巡しているようだったが、今の無月にはそれを気にする余裕もなかった。

 とうとう時間にして二分も経たないうちに、彼女は次の接客をすべく、その場を離れた。



――――……



 無月にとって想定外だったことは二つある。

 一つ目は、あれから約三週間、数日と開けずに颯馬が店に来るようになったことである。


「今日も来てるわねぇ」


 しみじみと呟くチーフの様子からも明らかなように、彼はすっかりお馴染みの客になってしまった。

 そしてもう一点。

 あれから幾度となく店内で会話をしているにも関わらず、彼は依然として注文以外のことを口にしていないのだ。

 てっきり、何かを言いたくて店に来たのだと思っていたのだが、そういうわけではないのだろうか、と首をひねらずにはいられない。

 いや、もしかしたら、そんなこととは一切関係なく、近くで習い事でも始めたのかもしれない。

 本人に尋ねてみれば良いのだろうが、そんなこと、今の無月にはとてもできなかった。

 聞きようによってはまるで期待しているようではないか。まだ諦めていなかったのかと呆れられては、耐えられるはずがない。

 しかし、忘れると決意したにも関わらず、こうして毎日のように顔を見ていては、忘れるどころか胸がときめく一方だった。

 これではいけないと思いながらも、顔が火照るのを止める術などない。

 どうしようもなく胸が苦しい。

 せっかく忘れようとしているのに、それさえ許してくれないのかと、理不尽な怒りさえ湧いてくる。

 無月のあまりの憔悴ぶりに、チーフも店長でさえ、接客を代わると申し出たほどだ。

 現在それだけは固辞しているが、この調子で通われては、いつか客である彼を詰ってしまうかもしれない。

 そうならないためにも、なるべく素早く淡々と注文を取ることを心がけていた。

 友人に対してあまりに冷たいのではないかとも思ったが、動揺して、他の客に違和感を与えるよりは余程ましだと思い直す。

 今日も今日とて自らを鼓舞し、注文を取りに行く。

 彼の表情は、今日も晴れない。



――――



 颯馬が無月に会いにファミレスに顔を出したのは、言ってしまえば消去法に他ならなかった。

 部外者が無断で大学に入り、彼女を探すのは躊躇われる。

 自宅に押しかけるのも、気まずい距離が開いてしまった今、何となく気が咎めた。

 それならばメールを送り、待ち合わせでもすれば良いのだろうが、これまで送ったメールは悉く遠回しに断られていた。

 直接会って話したいならば、ここしか残っていなかったのだ。

 しかし、実際来てみれば、仕事中に押しかけるなんて、迷惑以外の何ものでもない。

 そんなことにも気づかなかった自分の想像力に呆れたが、席に着き、注文を取りに来た彼女と向かい合えば、退路は断たれたも同然だった。

 何か言わねばと思ったが、忙しない店内だ。

 とても長く引き留めることなどできない。

 頭の中を様々な言葉が巡った。

 

――驚かせてすみません。


――元気そうで安心しました。


――無月さんのことがとても気にかかっていて。


――少しお時間を割いていただけませんか。


――終わる頃に、迎えに来てもいいですか。


 しかし結局、このうちの一つも口をついて出ることはなかった。


「焼き鮭定食一つ」


 という他人のような声が、耳に響いた。


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