家族会議
「さぁ颯馬、揃ったわよ。相談って何なの?」
若瀬家の食卓は、ある種の異様な緊張感に満ちていた。
右から、茶子、初子、江子と並び、眼前の弟に視線を注いでいる。
その視線の鋭さに、颯馬は生唾を飲んだ。
自分から呼び立てておきながら、早くもこの状況を後悔し始めている。
だが、こと恋愛に関して、これほど頼りになる者たちを、他に知らなかった。
「ちょっと聞きたいことがあって」
恐る恐る切り出すと、三人は一様に聞く態勢に入った。
何だかんだで、皆弟が可愛くて仕方がないのだが、それが本人に伝わっていない以上、この沈黙ほど颯馬を追い詰めたものはなかった。
「……女の人が、髪を切るってどんなとき?」
予想だにしていなかった質問に、闊達な茶子でさえ、ぽかんとする。皆この質問の意図がうまく飲み込めないようだった。
「うーん、私は雑誌で可愛い髪型見つけたときかな!」
固まりかけていた空気をほぐすように、三女の江子が元気よく答える。
すると、次女初子が後を引き継ぐように口を開いた。
「そうね、私は伸びてきて手入れがしにくくなったときとか」
探り探りの回答だったが、颯馬はどこか安心したように、「やっぱり色んな理由があるよな」と納得していた。
この感じで答えればいいのかと、お鉢の回ってきた茶子も周りの友人を思い浮かべながら、続けた。
「あとは…気分を変えたいときとか?失恋したときとか、いい例だと思うけど」
その瞬間、颯馬の表情が、ぴきりと凍った。
あまりに分かりやすい反応を示した彼に、三人は困惑する。
一体全体どうしてしまったのだろう。
年の割にどこか老成した弟がこんな風に悩み、取り乱すなんて。
三人は目配せし合い、無言のうちに、初子が探りを入れることになった。
三姉妹のうちで最もおとなしい彼女は、若瀬家の良心であり、颯馬の良き理解者でもあった。
「身近な人が髪を切ったの?」
颯馬は首肯する。
「…うん」
「それで、何でその人が髪を切ったのか、気になったってこと?」
颯馬は、もう一度頷いた。
「……その人に『好き』だと言われたんだ。でも、冗談だと思ってしまって」
その言葉を聞いたとき、思考が固まってしまった。
世界中に、ただ二人だけ取り残されてしまったかのようで、何故かそれが嬉しかった。
そして、それを嬉しいと思ってしまった自分が、まるで見知らぬ他人のようで、どこか恐ろしかった。
唯一人への執着というのは、こんな気持ちなのだろうか。
夕焼けに濡れるただ一人の女性しか目に入らないその感覚は、まるで夢の中に立っているかのようだった。
そのとき、眼前の彼女が、笑った。
年齢の割に幼く、剥き出しの心を全て晒すかのような、いつも通りの無防備な笑み。
颯馬はその瞬間、初めて彼女の笑顔に見惚れた。
瞳を奪われるとはこういうことかと、彼は半ば信じられない気持ちで硬直する。
どんな美女にも心惹かれることなどなかった自分が、まるで木偶の坊のように、眼前の麗人に惹きつけられている。
そのとき、唐突に思い至った。
彼女は、この世に二人といない傾国の美女であったということに。
気づくと同時に、どうしようもない自己嫌悪に陥った。
あれほど美を特別視する輩を疑問に思ってきたのに、結局のところ、自分も美人に惹かれているではないか、と。
颯馬の内面は、様々な感情が吹き荒れ、ほとんど前後不覚だった。
様々な思い出が、言葉が、顔が、浮かんでは消えていった。
この中には、彼女の周囲の男性――日向や槙、そして、あの日暗がりの中で会った、彼女の上司と思われる男の顔もあった。
颯馬の頭は、急速に冷えていった。
あの日の彼女の表情を、思い出した為である。
彼女はあのとき、わざわざ店から追いかけ、駆けつけてくれたあの男を、見つめていた。
暗闇の中でさえ間違えようのないほどひたむきに。
そして、その瞳の中には、誰もが恥じらうほどの想いが、確かにこもっていたのだ。
頬を染め、瞳を潤ませて、彼女は確かに、あの男を見つめていた。
柄にもなくかっと頭に血が上りそうになる。
それを颯馬は、小さく深呼吸して抑え込んだ。
突拍子も無い彼女のことだ。
きっと何か理由あってのことに違いない。
本番前にちょっと練習しておきたいとか、今の告白に、何かアドバイスがほしいとか。
いかにもありそうなことだった。
それだけ信用されているということなのだろう。
しかし、何故かそれを素直に喜ぶことができなかった。
それどころか、言いようのない虚しさと苦しさが、喉の奥からせり上がってくる。
とても冷静なアドバイスなどできそうになかった。
だから颯馬は逃げたのだ。
これ以上聞きたくないとばかりに、有無を言わせぬ笑顔を貼り付けて。
「でも、それから彼女と会うことがなくなった。前は毎日会っていたのに。そのときになって初めて、無月さんを怒らせてしまったのかもしれないと気づいた」
江子は首を傾げながら、「メールで謝ったら?」と提案する。
すると颯馬は俯いて首を振った。
「謝ったけど、『怒ってない』って。むしろ謝り返されてしまって。直接話を聞こうにも、会えないならどうしようもなかった」
しかし、それから一週間の後、槙の誕生日会があることは分かっていた。
だから、それほど焦る気持ちもなかったのだ。
どちらにせよ、顔を合わせることになるのだから。誤解があるのなら、そのときに解けばいい。
しかし、そんな悠長な考えも、無月の髪が目に入った瞬間、霧消した。
「腰まであった長い髪が、肩につかないくらい短くなってて…」
そして、颯馬の顔を見た瞬間、表情が凍りついたのが分かった。
ほんの一瞬のことだったけれど。
それがどうしようもなく颯馬の心を傷つけた。
それから作られたぎこちない笑み。
何とかいつも通りに振る舞おうとする彼女を見て、颯馬は何が何やら分からなかった。
あんな顔をされる理由が、自分にはない。
彼女がどうしてあそこまで自分を避けるのかが分からない。
心当たりがあるとするならば、それは――
「…颯馬は、もっと、自分に自信を持たなくちゃ」
珍しく悲しげな声が、茶子の口から零れ出た。
ふと前を見ると、初子や江子まで、どこか俯きがちに颯馬を見守っている。
暗くなりかけた空気を、江子がぱっと笑って霧散させる。
「そうよ!茶子姉の言う通り!あんたパパに似ていい男なんだから」
初子も穏やかに笑って頷くと、颯馬の手を撫でた。
「『好き』だと言ってくれたなら、それを信じてみてもいいと思うの。会えなくなったっていっても、何の手がかりもないわけじゃないんでしょ?」
颯馬は、目を見開いて、頷いた。
そうだ。会えなくなったのではない。
彼女の方から会いに来てくれなくなった。ただそれだけだ。
彼女の通う大学も、アルバイト先も、言ってしまえば住んでいる場所さえ知っている。
それなのに、一度も自分から彼女に会いに行ったことなどなかった。
待ち合わせを提案するのも、訪ねてくるのも、連絡をくれるのも、全て彼女の方からだった。
自分たちの関係は、ただ彼女の優しさによって、支えられていたのだ。
その事実に、愕然とした。
対等なライバルだと思っていた関係が、全て彼女の努力によるものだったとは。
そんなことにも気がつかなかったなんて。
颯馬は唇を引き結ぶと、さっと立ち上がった。




