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初デート


「すみません、遅くなりました」


 時間きっかりに、颯馬は待ち合わせ場所に駆け込んだ。

 どうしても早足になってしまい、二十分も前から待っていた無月は、ようやく生殺し状態から解放されると、安堵のため息をつく。

 いつも会っているはずなのに、こうして待ち合わせをすると、まるで知らない人に会うかのような心持ちになるのだった。


「いえ、大丈夫よ」


 努めて冷静に、いつも通りに返事をする。

 そんな自分がどこか滑稽で気恥ずかしかった。


 今日二人が待ち合わせをしたのは、この辺りでは比較的有名なデートスポットでもある公園だ。

 公園とはいえ園内には、ボートに乗れる池や、有名なレストラン、様々なカフェ、植物園や、動物ふれあい広場まである。

 初デートにはうってつけだと夏希のお墨付きも貰っている。


 いつもの帰り道、「行ってみたい」と誘ったときには、一瞬怪訝な顔をされてしまったが、すぐに何か納得した顔になって、「いいですよ」と了承してくれた。

 何だかんだで、やはり彼は優しいのだ。


「それじゃあ、行きますか。最初はどこに向かいますか?」

「犬を連れて散策できるのですって」

「あぁ、それなら受付は北の方ですね」


 彼と一日過ごせるなら、別にそこらにあるベンチに座って日を暮らしても構わなかった。

 だが、それではせっかく割いてもらった時間に退屈させてしまうだろうし、色々な思い出を作りたいのもまた事実だった。



――――……



「ほら!フラン!今度は向こうに投げるわよ!」


 そう言ってフリスビーを投げると、真っ白の大型犬はその後を追って勢いよく駆けていく。

 その後を、無月も軽やかに追って行った。


「…元気な人だなぁ」


 スカートにパンプスであそこまで動き回ろうとは思ってもみなかった。

 犬との散策であそこまではしゃぐ大人はなかなかいないだろう。

 真夏とはいえ、まだ風の爽やかな時間帯。

 緑は眩しいが、体力を奪われるほどではない。

 

「颯馬さん!早く!」


 無月が満面の笑みで手を振ると、周囲はぎょっとしたように振り向いたが、平和な公園でのこと、それ以上何かが起こることもなかった。


「はいはい」


 申し訳程度の駆け足で近寄ると、無月はいっそう嬉しそうに笑う。

 何がそんなに嬉しいのか不思議ではあったが、そういえば彼女が楽しげなのはいつものことだったと納得した。



――――……



 昼食は、園内のレストランでサンドイッチを買い、池のほとりで食べることにした。

 颯馬の選んだ厚焼き玉子サンドは、ふんわりとした分厚い玉子と、軽くトーストされたパンの食感が楽しく、思わず無月にも食べさせたくなってしまう。


「無月さん、これすごく美味しいですよ。一口どうですか?」


 無月は頰がかぁっと熱くなるのを感じたが、ここで不純な思惑に気付かれるわけにはいかない、と、震える指を叱咤して受け取った。

 案の定、味などちっとも分からなかった。


「颯馬さんも、お返しにどうぞ」

「サラダサンドでしたっけ?いただきます」


 ざく切りのトマトの甘み、チーズのまろやかさと、レタスの食感、そして生ハムの塩気が絶妙なバランスの逸品だったが、颯馬が齧った後の味は、やはりもう分からなかった。

 ただただ、水面に照り映える日の光が美しく、青々と茂る木々や草花の香りが清々しい。

 世界はこんなに鮮やかなものだっただろうかと、思わず深呼吸してしまうほどに。


「少し疲れましたか?」

「いいえ、違うの。むしろすごく良い気分転換になってるわ」

「大学は忙しいですか」

「編入組だから、少し勝手は違うわね。でも、充実してるわ」

「それは良かったです」


 社交辞令などではなく、真実自分のことのように嬉しそうに、颯馬は微笑んだ。


「一人暮らしとバイトも順調ですか?」

「えぇ、大分慣れてきたわ。バイトでも、とても良くしていただいているし」


 無月は、あの不機嫌そうな男を思い出し、ふふっと笑った。

 何だかんだで面倒見の良い、皆の良き店長を。

 その笑みを見て、颯馬も誰を思い浮かべているか悟ったのだろう。

 決して不機嫌そうではないけれど、何とも言い難い、複雑な表情をした。


「上手くいっているなら良かったです」


 一瞬、何とは無しに、違和感を感じた。

 どこか空気の噛み合わないような、妙な感覚。

 しかし、無月が颯馬を呼び止めるより先に、彼は立ち上がった。


「さて、そろそろ行きましょう。次はどこに向かいますか?」

 

 もはや先ほどの違和感などどこにもなく、話題を戻す機会は完全に失われてしまった。

 仕方なく無月も立ち上がる。

 大したことではないに違いないと、自身を誤魔化しながら。



――――……

 


「こんな花初めて見たわ!可愛らしいわね」


――高山植物展


 そう銘打たれた室内には、目に鮮やかな花も、派手な高木もなかったが、そのどれもが素朴で特別な魅力を持っていた。

 無月の好みには合っていたようで、興味深げに一つ一つを見て回っている。

 薫がいれば、こんなところまで母親に似たのかと笑ったに違いない。


「『厳しい環境下で生き抜く知恵を身につけた植物をぜひご覧ください』」

「まるで私たちみたいね」

「…無月さんのそういう図太いところ、嫌いじゃないですよ」


 嫌いじゃない。

 その一言に大いに動揺し、つんのめりそうになる。

 それをなるべく目立たぬように深呼吸し、落ち着けと自身に言い聞かせる。


(落ち着きなさい。図太いは決して褒め言葉ではないわ)


 意識し始めてからというもの、こんな何気ない一言で一喜一憂し、まるで気持ちが落ち着かない。

 これまで経験したことのないほど、気力を削られていく。しかし、それが無くなるとなると、それはそれで耐えられない。

 恋とはこんなに難儀なものだったのかと、瞑目した。


「無月さん、売店がありますよ。記念に何か買って帰りますか?」


 記念。ただそれだけの単語にまた胸が踊る。

 少なくとも彼は、記念を残してもいいと思える程度には、今日を楽しんでくれたということだ。


「えぇ、そうしましょう」


 声や足取りまで踊りそうになるのを抑え、なるべく落ち着いて見えるように、颯馬の後に続いた。


「この辺りが高山植物展のグッズですね」


 無月の方を振り向きながら、颯馬は目の前の小瓶を指差した。

 熱帯植物展や蘭特集など、沢山の展示を見たにもかかわらず、一番気に入ったものに気づいて、覚えていてくれたことが、嬉しかった。


「瓶の中に、ドライフラワーが詰まってるのね」


 一つを手に取り、まじまじと見つめる。

 中に入っていたのは、紫陽花をぎゅっと小さくしたかのような小さな白い花々だった。

 一方、颯馬は、淡い黄色の花弁を持つ花のものを選ぶ。


「これ、無月さんにと思ったんですけど、もし良かったら交換しませんか?」


 願っても無い申し出に、無月はこくこくと頷く。

 気に入った花を彼の手元に置いてもらえて、彼の選んだ花を貰えるなんて、夢のようだった。


「…大事にするわ」


 小さな紙袋を胸に抱く無月に、颯馬は初めて愛しげな笑顔を見せた。



――――……



「それじゃあ、俺はこれで」


 無月の部屋の玄関で、颯馬はそう言って踵を返した。

 夕方の涼しい風に吹かれ、彼のシャツがはためく。

 夕陽が眩しくて、無月は泣きそうだった。

 結局、まだ言えていない。

 何も、伝えられていない。

 言葉でも、態度でさえ。

 きっと今日を逃せばもう、こんなチャンスは巡ってこない。こんな勇気は振り絞れない。

 いつでも会える。

 明日もきっと、一緒に下校することになるだろう。

 しかし、明日では駄目なのだ。

 今日この日が自分との約束の日。決意を固めた特別な意味を持つ日なのだから。


「颯馬さん!」


 自分でも声が震えていることが分かる。

 カンカンと、階段を駆け下りると、彼は驚いたように振り向いた。

 言いたいのに、言わなければならないのに、息が詰まって言葉が出てこない。

 沈黙が、二人の間に落ちた。

 颯馬が一歩無月の方へ戻ってくる。

 張り詰めた空気に、何かあったのかと心配しているようだ。


「どうかしましたか?」


 優しい声だった。

 その声に、涙が一粒瞳から転がる。

 颯馬は驚いているようだったが、何も言わなかった。

 その静かな空気は、決して重くなく、むしろそっと、無月の背を押した。


「好き!」


 無月の世界から音という音が消えた。

 赤い世界の中で、立ち尽くす彼だけに、無月は言葉を紡いだ。

 颯馬は暫くの間茫然としていたが、無月が照れくさそうに、困ったように笑うと、どこかほっとしたように笑い返した。


「無月さん、からかわないでくださいよ。びっくりしたじゃないですか」


 無月は、言葉を失った。

 一切の悪気なく、彼は無月の告白を冗談と見なした。

 全ての真心を乗せた言葉は、伝わらなかったのだ。

 これ以上、どう言えというのだろう。

 表情が、全身が凍っていくのが分かる。

 涙さえ出てこない。

 それでも、最後の意地だけはまだ生きていた。

 なるべく自然に見えるように表情を作り変える。

 それはとても難しかったが、どうしてもやらねばならなかった。

 それから、なるべくいつも通りに、「引き留めてごめんなさいね」と別れの挨拶をする。

 せり上がってくる何かを抑えつけ、悪戯っぽく彼を送り出す。

 去り際、彼は何かを言おうと口を開きかけたが、結局何も言わずに行ってしまった。

 いつも通りに。


 その晩、無月は布団の中で、ありったけの涙を流した。




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