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夜道


「藤泉院」


 通用口のドアノブに手をかけたところで、背後からそう呼び止められた。

 そこにいたのは、少々目付きの悪い男。いかにも面倒臭げに頭をかいている。ベストのポケットから覗く煙草の箱が、ガラの悪さに拍車をかけていた。

 だが、その姿とは裏腹に、制服のボタンは上まできちんど留められ、しゃんと伸びた姿勢は、どこか生真面目なようでもある。

 一見アンバランスなこの男こそ、無月を雇い入れた張本人、この店の店長だった。


「お疲れ様です」


 何の用だろうと訝しみながらも、とりあえず挨拶はしておく。

 騒ぎになるような失敗はしていないが、何か良からぬことが耳に入ったのかもしれない。

 そうとしか思えない程、彼の目付きは悪かった。

 故に無月は、その第一声を聞き取ることができなかった。

 

「今日は何もなかったか」

「…え?」


 ぽかんとする無月に苛立つこともなく、彼は先程と全く同じ声色で今一度問うた。


「初出勤だろ。困ったことはなかったか」


 心配からというよりは、義務や責任感からの質問であると見受けられた。

 親身になっている様子は微塵もない。

 しかし、そうであるが故に、無月は、余計な言葉を使うことなく率直に答えられた。


「いいえ、特にありませんでした」


 すると男は「そうか、それならいいが」と頷いた。淡々としたものだった。


「キッチンに戻っても良いと思ったら、すぐに言え」

「いえ、お話しした通りです。少なくとも暫くはフロアに立たせてください」


 男は僅かに眉を下げ、頭をかいた。

 どうやら困っているらしい。


「まぁ、心配しなくとも、無理にキッチンに放り込むことはしない。フロアに立ちたい理由も、納得できないわけじゃないしな。お前さんの言う通り、色んな人間と接する良い機会だ。ただ、従業員に無理をさせるわけにはいかん。何かあれば隠し立てはするな」


 無月とて、以前ほど無知ではなかった。

 自分がどんな事件に巻き込まれる恐れがあるか、きちんと認識はしているつもりだった。

 だからこそ、その忠告じみた気遣いを、素直に受け入れることにした。


「はい、何かあれば報告します。それでは、お先に失礼します」

「あぁ、お疲れ」


 全く心のこもっていない「お疲れ」に、無月は内心舌を出した。



――――……



「あれ、店長、藤泉院さん一人で帰したんですか?」


 ちょうど通りかかったのだろう。

 片手に空の皿を持ったフロアのチーフが、信じられないとばかりに口を覆う。

 

「あんな規格外の子、何かあったらどうするんですか、こんなに遅くに帰らせて」

「知るか、いい大人だろ。何言ってんだ」

「何言ってんだはこっちの台詞ですよ」


 このチーフ、穏やかな見た目とは対照的な毒舌で有名な、フロアの若き母だった。


「いくつになろうと、女性はか弱い生き物なんですよ」

「お前もか」

「私は例外です」


 茶化す相手に苛立ちが募ったのか、彼女はとどめの一言を放った。


「想像してください。店長の可愛ーい娘さんが、どこぞの悪漢に襲われそうになっているところを」


 その瞬間、彼の顔が凍った。



――――……



 ワケありそうだというのが、藤泉院無月という娘の、第一印象だった。

 どう見てもいいところの娘さん。

 何をどうしたら、こんな何の変哲も無いファミレスでバイトしたくなるのか。

 尋ねても良いのだろうが、正直そんなことに興味はなかった。

 とにかく人手不足なのだ。特にキッチンは。

 真面目に働いてくれるならそれでいい。

 そんな気持ちで「キッチンでいいか」と確認すると、彼女は暫く逡巡し、「お任せしますができればフロアに出たいです」と答えた。

 不純な動機ならすっぱりと却下し、キッチンへ送り込めたのだが、人と接したいというあまりに純粋な動機を前にすれば、もはやなす術もない。

 本当はキッチンの人数を増やしたかったのだが、儘ならぬものであった。


「…分かった。ただ、その容姿でフロアは危険が多い。ストーカーに付かれたら嫌だろう。妙な輩に絡まれたらすぐに言え」


 この話は終わりだと切り上げる。

 初出勤日を伝え、そのまま帰した。


「店長、そういうところですよ」


 会話を聞いていたのだろう、キッチン担当の男が呆れ顔で声をかける。


「そうやって皆の希望ばっかり聞いてるから、シフトも偏るし、人出も足りないし、俺の仕事は増える一方」

「うるせぇ、きびきび働け若者」

「ひーこわ」


 全くこの店の従業員は年上を敬う心が圧倒的に足りていない。

 妙に馴れ馴れしいわ、ずけずけ物を言うわ、犬も食わない相談を持ちかけるわ。

 内心そうごちながら、先程の新入りの様子を思い浮かべた。

 どう考えても、あの娘が入って何事も起こらないわけがない。

 どうしようもない客はいるものだし、最悪身内でトラブルが起こる可能性もある。

 まぁ、身内のトラブルは杞憂かもしれないが。

 分かっているなら断れば良かったのだが、人手不足の今選り好みはしていられない。

 それに、働きたいという意思を持った若者の気を挫くのは憚られた。


「…まぁ、うちなら大丈夫だろ。どいつもこいつも阿呆ばかりだからな」

「誰が阿呆ですって?」

 

 気がつくと、休憩室前まで来ていた。

 眦を吊り上げていたのは、フロアチーフと、その妹分たち。

 厄介な連中に捕まったと顔をしかめながらも、「ちょうど良かった」と声をかけた。


「今客少ないだろ。手の空いてる奴ら全員バックヤードに呼んでこい」


 そうして、恐らくは店長として初めて、従業員を集め話をすることになった。

 皆何事かと浮き足立っている。恐らくは閉店のお知らせか何かだと勘違いしているのだろう。


「安心しろ。店の売り上げは残念ながら好調だ」


 始めにそう断ると、明らかに空気が和らいだ。


「じゃあ、何なんですか」


 無駄にはらはらさせられて苛立ったチーフが問いかける。

 尤もな怒りだったが、彼女はもう少し見た目に見合った穏やかさを身につけた方がいい。


「…来週、フロアに新人が入る」


 一同の顔に「だから何だ」という文字がありありと浮かぶ。これまで、そんなことで緊急集会が開かれたことはない。

 しかし、店長は真剣だった。

 真剣に、まるで死人が出ると言わんばかりの気迫で続ける。


「…そいつは、物凄い美人だ」


 その瞬間、空気が止まった。

 何を言っているのかと、訝しむ視線が突き刺さる。

 しかしここで退くわけにはいかなかった。


「いいか、ちょっと可愛いとか綺麗だとか、そんなもんじゃない。人間かどうかさえ怪しい程の美人だ。だから、予め言っておく。心構えをしておけ。あと、男共、惚れるなとは言わない。だが、面倒事にはするな。以上だ」

「……え、それだけすか」


 思わず戸惑いの声を上げた男に頷く。

 覚悟しておけと言わんばかりに。

 面々、意味がわからないと首を傾げたまま、解散となった。

 

 そして本日、一同は心の底から店長に感謝した。

 予め知らせてもらっておいて本当に良かったと。

 予告なしにこの日を迎えていたら、心臓が止まっていたかもしれない。

 幸いチーフは世話好きであったし、皆どこかマイペースなところがあるので、初日は大きな事件もなく終わった。

 チーフは無月を、「真面目で危なっかしい子」と評した。

 人情派な彼女は、危なっかしい子を放っては置かないだろう。

 また、彼女を巡って争い合うようなこともなかった。

 よく考えてみれば、この店の男共は皆彼女持ちなのだった。

 恋は盲目状態だと、どんな美人にも目移りすることはないらしい。

 冗談めかしてそう言うと、彼らは照れたように笑った。野郎の笑顔なぞ欲しくはないと心底思った。

 


――――……



 店を出ると、辺りはもうほとんど暗くなりかけていた。

 真夏の宵であるから、まだ多少は明るいだろうと踏んでいたのだが、確かにあの娘を歩かせるには危険かもしれない。

 提出書類にあった地図を頼りに、早足で左へ進んだ。

 

 この辺りは決して人通りが少ないわけではない。

 近くに大きな駅があるため、今の時間帯なら部活帰りの学生や帰宅途中の会社員で賑わっている。

 だが、一歩路地を入ればそこは閑静な住宅街。

 治安は良いが、通りの賑わいが嘘のように静まり返っている。

 不審者情報などほとんど流れたことのない平和な地域。だが、あれほど目立つ娘が一人でふらふら歩いていれば、妙な気を起こす輩が現れても不思議はない。


 そのとき、彼の思考を読んだかのように、三つほど先の角から、人が揉み合うような妙な音が聞こえてきた。

 遅かったか、と内心舌打ちし、駆け出す。

 あの娘は叫び声の一つも上げないのかと苛立った。


「おい!」


 怒鳴りながら角を曲がり、電柱の向こうへ視線を凝らす。

 そして、その姿勢のまま、思考が固まるのを感じた。

 予想外の光景だった。

 明らかに怪しい黒づくめの男は地面に倒れ、無月はといえば、茫然と成り行きを見守っている。

 そして、彼女の前に立ちはだかり、切れた唇を手の甲で拭う男子高校生。

 一目で実直であることが分かるその少年は、とても喧嘩慣れしているようには見えないのに、倒れた相手を見下すその目付きは、百戦錬磨の武将を思わせた。

 何が起こったかなど火を見るより明らかだった。

 この少年は、そこに転がっている不届き者から、彼女を守ったのだろう。


 とりあえず、礼を言うべきだろうかと口を開きかけたところで、ぎょっとした。

 少年を見つめる彼女の瞳に熱が込もり、惚けるような火照りがその頬に浮かんだためである。

 しかし少年は、その潤んだ瞳に気がつかないようだ。

 それどころか、背後の彼女には目もくれず、眼前のファミレス店員に視線を固定してしまっている。


「貴方は、もしかして無月さんのお店の方ですか?」


 これは面倒な場面を見てしまったと、彼は無月の後を追ったことを、心の底から後悔した。



 

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