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歩き出すこと


「それでどうなったんですか?」


 興味津々といわんばかりに目を輝かせた夏希が、身を乗り出した。

 佐月、一葉、槙、颯馬も、じっと無月の次の言葉を待っている。

 一方、その一部始終を目の当たりにした面々は、皆一様に苦い顔をした。

 日向の「あれは酷かった」という呟きに、蜜華も頷く。

 透と藤子も苦笑していた。

 光だけが、出されたパンを無邪気に頬張っている。


「そもそも、無月が教師を目指していることは、あの場で言う予定じゃなかったんだ」

「そうですわ。万が一無月様の危険が増えてしまったら」


 こうして婚約した身となっても、蜜華の、無月御身第一主義は変わらないのかと、一葉は内心くすりと笑った。

 隣の日向の顔が、不機嫌そうに歪んだので尚更可笑しい。

 日向が尻に敷かれる未来を、一葉は確かに垣間見た気がした。


「でも、遅かれ早かれ言わなければならないことでしょう?」


 無月は佐月の淹れた紅茶を口にすると、小さくちぎったパンを口に入れた。


「それから、何だったかしら?詳しく説明してほしいと言われたから、動機や理由をなるべく詳しく説明したわ」


 あまりに呆気なく言うものだから、日向も蜜華も毒気を抜かれてしまった。

 そう、言葉にすれば確かにその通りなのだ。

 しかし、会場は皆の想像しているものの十倍は騒然としていたに違いない。

 当然だ。

 藤泉院家の長子が、家を継がないと宣言したのだから。それも、こんな前例のない理由で。

 思えば彼らもまた気の毒だった。

 心構えをする間もなく、激動を受け入れる決意を固めねばならなかったのだから。


「でも、反対する人は誰もいなかったんですよね」


 不思議そうに一葉は首をかしげる。

 それは蜜華や日向にとっても不可解なことだった。

 どれほどあの場が荒れるだろうかと危ぶんだものだが、結局誰一人無月の方針に不満を抱いた者はいなかった。

 それは、亡き陽子への贖いか、それとも、藤泉院家に楯突くことへの恐れか。

 いずれにせよ皆の同意の元に、無月はようやく家を出ることになったのである。


「多少強引だったかもしれないけれど、まぁ、でもとりあえず」


 生き生きとした笑顔で、無月は結論を下した。


「これで全部解決、でしょう?」


 確かに、過去の禍根は拭い去られたのだろう。

 少なくとも、新たな過ちの芽は摘まれたのだと信じたい。

 しかし、きっとこの先も、様々な問題が行く手を阻むことだろう。

 楽観的になり過ぎるのは良くないと、日向はため息をついた。

 その様子に、槙と佐月が吹き出し、一葉と夏希は顔を見合わせ微笑む。

 過保護なのは相変わらずのようだ。

 だが、皆無月を信じていた。

 この先何が起ころうと、確実に一つひとつの問題と向き合い、乗り越えていくのだろうと。


「それじゃあ、私はそろそろ行くわ」


 がたりと席を立った無月に、それまで無反応だった颯馬がようやく声を上げる。


「どこへ行くんですか?」


 それに無月は呆気なく答えた。


「アルバイト。今日が初出勤なの」

「は?」


 颯馬だけでなく、日向や透に至るまでが、ぽかんと口を開けている。

 その隙に、無月はさっさと堀家の裏口から出て行ってしまった。


「…誰か、知っていた奴はいるか」


 日向のいつになく低い声に、一葉と蜜華は気まずげに視線を合わせた。



――――……



「いらっしゃいませ、何名様でいらっしゃいますか?」


 店内の端の端に陣取り、日向は忙しく歩き回る無月を睨みつけた。


「…よりにもよって、ファミレスとは」


 何故止めなかったのかという非難の視線を受けて、蜜華は慌てて弁解する。


「私も反対しましたわ。でも、キッチンの裏方の方だから大丈夫だと仰って…」

「どこが裏方だ。完全にフロアじゃないか」


 日向の心配は正しく的中し、店内の視線は常に無月に注がれている。

 注目されることに慣れてしまっている本人は、歯牙にも掛けていないが、あれ程目立って何も起こらないはずがない。


「日向さん、もう婚約者のいる身なんですから、無月さん心配病は治さないといけないんじゃないですか?」


 メロンソーダを啜りながら一葉は呆れ眼だ。

 夏希も「そうそう」と頷く。


「蜜華さんだっていい気はしませんよね?」


 急に指名され、蜜華は返答に詰まる。

 それを日向が、ひらひらと手を振って否定した。


「それはない。こいつも罹患者だ…いてっ」


 足元で不穏な音が聞こえたが、皆聞かなかったことにした。

 あの可憐な蜜華嬢が、婚約者を足蹴にするなんて、あるはずがない。


「まぁ心配なのは分かるけどね。何とかなるんじゃないかい?」


 佐月が苦笑しながら宥めると、槙もおずおずと頷く。


「そうですよ。日向さんの心配はそりゃ尤もですけど、どの道ずっと人目を避けて生活するわけにはいかないんですから」


 それには反論のしようがなかった。

 その通りだった。

 教師になるのなら、もっと多くの不特定多数の人間と接していくことになる。

 遅かれ早かれ、衆目の中で生きる道を模索しなければならないのだ。

 だが、それと無月の安全確保はまた別の問題だった。


「…とりあえず、藤泉院家の護衛とは別に、日替わりで見張りを付ける」


 そんなものが付いているのかと夏希は店内を見回したが、分からなかった。


「いつも見張られているなんて、窮屈でしょうね」


 何気なく発された夏希の呟きに、日向の表情が一瞬だけ曇る。

 それに気づいたのか、単なる偶然か、「それでも」と一葉が口を開いた。


「少なくとも今は、それが必要なのだということは分かります」


 今このとき、無月の立場は非常に危ういものだった。

 家を出たとはいえ、つい数ヶ月前まで、藤泉院家の長子として、華やかな世界の頂点に身を置いていた人。

 姿形だけで見る者を魅了してしまう人。

 それが今、鎧の一つも身につけぬ状態で野に放たれたのだ。

 疑心暗鬼になってはいけないが、用心しておくに越したことはない。


「まぁ、俺たちが何かするまでもなく、本人が一番気をつけてるだろうがな」

「それだって限度がありますよ。周りの方が気に掛けてくれるような人だといいんですけど」


 珍しく思案げな颯馬の発言だったが、それには皆同意せざるを得なかった。


「…あの容姿の無月さんをフロアに立たせてる時点で、お察しかもしれない」


 夏希が大仰にため息をつくと、一同の表情も曇った。

 確かに見栄えはしている。店内の浮き足立った雰囲気からもそれは明らかだった。

 しかし、一店員がトラブルに巻き込まれる可能性を、周囲は考えなかったのだろうか。

 少なくとも彼女を配属したであろう店長には、期待できそうにない。


「…私たち、相当過保護になってますわね」


 蜜華の苦笑に、日向も自嘲したが、それが過ぎた心配だとはどうしても思えなかった。



――――……



「お疲れ様でした」


 午後八時。

 無月が更衣室を出て、そう挨拶すると、バックヤードで忙しく立ち働いていた人々が一斉に振り向いた。

 だが皆その姿に呆然とするばかりで、何気なく交わされるべき挨拶が返ることはない。

 この反応にも、もう慣れてしまった。

 大学でもコンビニでもどこでだって、無月に投げかけられる視線は大抵この種のものだった。

 少なくとも、初めのうちは。

 無月は大学でのある出来事を思い出し、自然と口元が綻ぶのを感じた。

 数日ほど前のことだ。

 とある講義の試験があった。その開始十分ほど前。


(きちんと勉強もした。昨晩はゆっくり休んだ。大丈夫)


 そう自身に言い聞かせていると、突然、「あの!」と意を決したかのように隣の女生徒が声を上げた。

 教室中に響いた声に、前列の人々も驚いたように振り返る。

 想定していた以上に大きな声が出たのだろう。彼女は真っ赤になりながら、「すみません」と会釈した。

 ショートカットで眼鏡をかけた彼女には見覚えがあった。

 講義で一緒になることが多く、この講義ではいつも隣に座っていたのだ。ちょうど今このときのように。


「はい」


 思わず無月もかしこまる。

 何を言われるのだろうと、どきどきした。

 しかし彼女の言葉は、そんな無月の心配を一言目で裏切るものだった。


「…ひ、筆記用具を、貸して、いただけません、か」


 何でも、知り合いのいない講義の試験で、筆箱を忘れてきてしまい、途方に暮れていたらしい。


「勿論よ」


 無月は急いで筆箱を開けると、筆記具を数本と、消しゴム、ペンを手渡した。

 

「この講義落とすと大変だものね」


 彼女は一瞬息を飲んだが、明らかにほっとしたのが分かった。


「そうなんです。どうしようかと思いました。本当助かります」

「気にしないで。それに、同級生なのだから、もっと気軽に話してくださると嬉しいわ」


 無月の申し出に、彼女はまた目を丸くしたが、言葉に裏がないことが分かると、おずおずと頷いた。


「りょ、了解」


 それから試験後に、せっかくだからと二人で学食へ行った。

 昼食時で混み合う中、並んで食事をしながら、試験の出来を確認し合う。

 それから、来期に取る講義を相談し合い、趣味の話へ移っていった。

 二人とも本を読むのが好きだということが分かった。

 これまで、一度も言葉を交わさなかったことが、不思議なほどだった。


「人類の言葉が通じると思ってなかったっていうか…」


 彼女がつい口を滑らせた言葉に、無月は笑ってしまった。


「私を何だと思っていたの」

「何だろ、女神?でも喋ってみたら話しやすくてびっくり。ねぇ、次のこれ取るなら一緒に受けない?」


 無月は勢い込んで頷いた。

 きっと、悲観することはないのだ。

 きっかけさえあれば、見えない壁なんてこんなに簡単に消えてしまうのだから。



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