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成宮邸会―開場―


「本日は、遠路遥々お集まりいただき、ありがとうございます」


 成宮家当主、成宮国和の柔和な笑みに、堂内に集まった人々の頬も、心なしか緩む。


「息子もこれで二十六になりました。まだまだ未熟なところもあるのでしょうが、私の目にはとても心強く映っております。予定通り、来年までには引き継ぎを済ませ、私は第一線を退くつもりです」


 これは以前より言われていることだった。

 あまりに早い家督交代には賛否両論あったが、第一線を退くというだけで、暫くは息子の補佐をしていくと公言していることもあってか、大きな問題にはならなかった。

 何より、皆次期当主の透が憎めなかった。

 明らかな疲労の色を背負いながら、いつも穏やかで文句の一つも言わず、始終和やかに話を進めていく透は、いつしか異性だけでなく、同性からの支持も厚くなっていたのだ。

 ただ一つだけ、皆が知らなかった事実があるとするならば、透の疲労は仕事によるものではなかった。

 どうしようもない恋煩いが、まさかそんな誤解を生んでいようとはつゆ知らず、透はただ一つの作業に没頭するかのように、仕事に邁進してきたのである。


「それでは、今一度紹介しましょう。息子の透です」


 国和に促され、透は思わず眼前に広がる人波に視線を走らせた。

 この一歩を踏み出せば、もう戻れない。

 愚かしくもぬるま湯のような、日常へは。

 しかし、それが何だというのか。

 そんな日常になど、何の価値もない。

 彼女のいない未来なんて、何の意味もないのだから。

 透は、眩いシャンデリアの灯りの元へ一歩踏み出した。


「父より紹介に預かりました、成宮透です。本日二十六になりました。父の背中は依然として遠いものではありますが、目指す先の有る私はとても恵まれていると感じています。また、こうして恙無く邁進することができたのは、偏に皆様のご支援の賜物です」


 さあ、ここからが本番だ。

 熱い視線を送る令嬢方と、何とか取り入らんと画策しているその父親たち。

 それを尻目に、透は今とても清々しい気持ちだった。


「それではここで、私の大切な友人を紹介します。藤泉院無月さんです」


 瞬間、堂内にどよめきが起こる。

 足元のおぼつかない令嬢。刮目したまま微動だにしない人々。皆状況を把握する余裕すらなく、一様に透の隣に目を凝らす。

 無月がこの会に出席していることに驚いているわけではない。

 透が彼女を、「友人」と呼び、この場で紹介せんとしていることに慄いているのだ。


「…藤泉院令嬢は春乃宮の御子息に嫁がれるのではなかったのか」


 一人の紳士がごく小さな声で呟く。

 それはあまりの驚きに自然に漏れた独り言だったが、何より的確に堂内の人々の心情を表していた。

 確かに、もし藤泉院無月が春乃宮家に嫁がないのならば、その嫁ぎ先はもはや成宮家しか残されていない。

 しかし、誰もが無月は日向に嫁ぐものと信じて疑っていなかった。

 あれほど仲睦まじい様子を各所で見せていたというのに、一体何が起こったというのか。

 そんな皆の混乱を一笑に付し、無月は艶やかに礼をした。

 漆黒のドレス。傷一つない黒髪。輝かんばかりの白い肌。彼女は変わらず全てを備えた月の女神だった。

 そう、彼女は間違いなく、藤泉院無月なのだ。それなのに、と人々は訝しむ。どこかまるで別人のような印象を覚えてしまう。

 何故なのだろう。

 それは、無月の外見の美しさにのみ囚われている者には、到底気づけない変化だった。

 生き生きとした表情。血色の良くなった肌。

 そして未来を信じる瞳。

 その姿は、遠き日の陽子に重なった。


 聴衆は思わず息を飲む。

 かつて自らが虐げ蔑み、死へ追いやった娘。考えまいと封じ込めてきたその罪の意識が、今まざまざと蘇ってきたのである。

 どんな無礼を働かれようと変わらず礼を尽くし、心無い視線に微笑みを返し続けた少女。

 影に日向に当主を支え、自らもまた、より良い未来を夢見て歩き続けた少女。

 彼女の他界が報じられたとき、人々の脳裏には皆例外なく一様に、同じ言葉が浮かんでいた。


――取り返しのつかないことを、してしまった。


 不思議なものだった。

 あれほど蔑み冷遇し続けた対象であるのに。

 彼女の消えた世界は、まるで太陽を失くした常世のようだった。

 それでも人々は、自らの過ちを認めたくはなかった。

 あの娘は、我々に取り入ろうと媚びていただけだ。

 幾度となく内心そう言い聞かせ、不自然に明るく振る舞った。

 その結果、社交界は彼女の生前よりずっと華美に、騒々しささえ感じるほどの賑わいを見せた。

 あの娘の死を悲しむことはない。

 あの娘は我々の頂点に相応しい者ではなかった。

 そんな強がりが、聞こえてくるかのようだった。

 だからこそ、彼女の娘、藤泉院無月が初めて夜会に出席する際、皆はまるで心の臓を揺さぶられでもしているかのように落ち着かなかった。

 それは、ほんの僅かな不安と、計り知れないほどの期待。

 母親を死へ追いやった我々を、彼女は恨み、罰するだろうか。

 そんな身勝手な憂慮。そして。

 彼女はどんな子なのだろう。あの母親に、少しでも、似たところはあるのだろうか。

 そんな身勝手な期待。

 結果として、人々はこれまた身勝手に絶望することになった。

 女神のような姿の娘は、居並ぶ眼前の群衆に、何の関心も払わなかったのである。

 それだけではない。

 無月の瞳は過去も現在も未来でさえ映してはいなかった。

 全てを諦めた抜け殻のような少女。

 その儚い透明さは、浮世離れした容姿と相まって、周囲を片端から妖しく魅力していった。

 彼女はこの地上に長くは留まれないだろう。

 そんな予感を見る者に抱かせながら。


 それが今、どうしたことか。

 危うげな印象は霞と消え、張り詰めた弦のようだった瞳には、隠し切れないユーモアの種が光っている。

 無月は「皆様、お久しぶりです」と笑顔を見せた。

 それは、満たされた心がそのまま溢れ出たかのような、穏やかな表情だった。

 

「暫く入院生活を送っていたので、こんな素敵なドレスに袖を通すのも随分久しぶりです。そんなことも相まって、私は今日この日を、とても楽しみにしていました」


 人々は初めて、無月の内面に触れた気がした。

 穏やかで、聡明で、それでいて茶目っ気たっぷりに話す彼女は、一人の人間としてとても魅力的に映った。


「私が今日この場に呼ばれたのは、そんな入院生活の中で透に惹かれたから、と言いたいところなのだけれど」


 そこで人々は小さく息を飲んだ。

 無月はまた悪戯っぽく眉を下げて笑う。


「残念ながら、そうではありません。今日はただ、彼の友人として、皆様にいくつかお知らせがあるのです。どれも良いお知らせなので、その点はどうか御心配なく」


 やはり違ったのか、と安堵とも戸惑いともつかない溜息が会場に溢れる。

 一方透は、彼女はこんな風に冗談を言うのかと、本人さえ気づかぬうちに微笑んだ。


「まず一つ目、ずっと皆様が気にされている、透の婚約者についてです。皆様ご存知の通り、これまで彼に浮いた話は皆無でした。察しの良い方はもうその理由に思い至っているのかもしれませんが、今日はあえて全てをお話ししようと思います。彼には、心に決めた女性がいました」


 それから無月は、二人の出会い、別離、空白の時、そして再会に至るまでを、淡々と説明した。

 ただ事実をあるがままに。

 一切の感情を抜き去って。

 その為に、事実の残酷さ、悲しみ、孤独の深さだけが一層際立った。

 二人が、そして幼いひかるが耐え忍んだ孤独な年月が、人々の眼前にまざまざと浮かび上がってきた。


「この世界では、そんな別れはありふれたものなのかもしれません。でも、愛する人と共に生きたいと祈ることは、過ぎた願いなのでしょうか。許されないことなのでしょうか」


 無月は人知れず、遠き日の母を想っていた。

 ひたすらに夫と娘を愛し続けた、そんな母を。

 それは、聴衆にも何とは無しに伝わっていた。

 そう、陽子は清宗を愛していた。それだけだった。

 何を望んだわけでもない。地位も名誉も何もかも、彼女は望みはしなかった。

 ただ彼の隣で生きたい。

 彼女の望みは、それだけだった。

 そしてそのことに、人々はようやく気がついたのである。


 透の隣に、藤子が進み出た。その手はしっかりと光の手を引いている。

 濃茶の簡素なドレスに身を包んだ彼女を見て、誰もが、例の透の恋人であることを悟った。


「皆様、お初にお目にかかります。山内藤子と申します」


 決して美人でもなければ、気の強そうな女性でもなかった。

 それなのに、彼女は臆することなくそこに立っていた。その不思議な魅力に、透を想う令嬢たちでさえ、固唾を飲んで彼女を見守った。


「まず始めに、皆様に謝らなければなりません。私はこの長い年月、卑怯にも身を隠し、事実を隠して暮らして参りました」


 結果として人々を欺き、混乱させ、透を想う女性に真っ向から向き合うこともしなかった。

 どんな理由があろうと、そんな風に逃げ続けた自分を、藤子はまだ許せていなかったのだ。


「私の六年間は、先程無月さんがお話しくださった通りです。苦しくとも私は幸せでした。愛する息子と日々を共にし、遠くから透様のお姿を拝見して。こんな風に一生を終えるのも、悪くはないのかもしれないと思っていました」


 その一言に、皆はぞっとした。

 一つの家に囚われたまま、自由に外出もできない中、それでも愛する子を腕に抱き、想い人を遠目に見ることができるなら、それで幸せだと。

 異常に慣れた世界の人々にさえ、それは許容し難い価値観だった。

 でも、と藤子は続ける。

 いつの間にか、皆が藤子の独白に聞き入った。


「でも、そんなのは所詮ただの強がりでした。声を聞きたい、触れたい。名前を、呼んでほしい。消そう消そうと思っても、そんな愚かな願いが消えることはありませんでした」


 藤子の声が僅かに震える。

 静まり返った会場内から、微かな啜り泣きが聞こえてきた。

 透は心配気に母親を見つめる光の頭を撫でた。

 そして、泣き出しそうな表情で頷いた。


「私も同じです。夢でも構わない、一目その姿を見たいと、願い続けました。それが叶わないことだと知っていても、それでも、一瞬たりとも忘れることなんてできませんでした」


 生涯まみえることはないと知っている者に焦がれ、求め続け、醒めない夢の中で生き続ける。

 それは何という地獄なのだろう。

 今更ながら、兄の選ぼうとしていた道に、蜜華は歯を食いしばった。


「私は、彼女なしでは生きられません。お願いです、どうか」


 そのとき、藤子の指先がそっと、透の指先に触れた。

 はっとする。

 視線を隣へ移すと、藤子は静かに微笑んでいた。


「私に、言わせてください」


 囁くように優しくそう言われた。

 熱くなりかけていた喉の奥が、すっと落ち着く。

 透は一度息をつくと、同じ微笑みを浮かべて頷いた。


「どうか、私たちに、同じ道を歩ませてください」


 二人の触れ合っていた指先が、固く結ばれる。

 紳士でさえ、涙に飲まれかけていた場内に、ぱらぱらと拍手が起こった。

 それは瞬く間に広がっていき、すぐに会場は温かくも激しい拍手の音で満たされた。

 誰もが、信じたかった。

 ひたすらにひたむきな、彼らの愛を。

 二人は深く深く礼をする。

 鳥は一翼では生きられない。そのことに、誰もが気づいた瞬間だった。

 二人が頭を上げても、拍手の雨が止むことはとうとうなかった。


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