成宮邸会―回廊―
ずんずんと先を歩く蜜華は、背後の日向を振り返ることもなく長い廊下を進んでいく。
ふかふかとした絨毯は足元の感覚を鈍らせ歩きにくいことこの上ない。
成宮家の廊下とはいえ、あの調子で歩いていけば、いつか躓いて転んでしまうだろう。
「蜜華、そんなに急ぐことはないだろう。開場まであと三十分以上ある」
聞こえていないはずはない。
それなのに返事はなく、速度が緩まることもなかった。
「おい蜜華、その靴でそんな風に歩くと危ないだろう」
知らず、先ほどより語気が強くなるが、それでも蜜華は振り向くどころか、背後を気にするそぶり一つ見せなかった。
日向はため息をつきながらも、距離を詰めるように数歩近づいた。
「良い加減にしろよ、蜜華、今日は無月のためなんだろ」
無月。その名を聞いてようやく蜜華は肩を揺らし、振り向いた。
「まだ籍も入れていないのに馴れ馴れしく呼ばないでくださいますか」
刺々しい物言いに、日向もむっとしたが、何より振り向いた彼女の装いに目を引かれた。
日頃は淡い色や華やかな装いを好む彼女だったが、今日は紺色のドレスを身に纏っていた。
宝石も真珠のみ。髪も綺麗に後ろで纏められているだけだった。
目に鮮やかな可憐さはない。
しかし、その姿には凛としたしなやかさがあった。
思わず賞賛が口を突いて出そうになり、慌てて押し留める。
ただでさえ不機嫌そうな彼女の機嫌を、これ以上損ねてどうするのか。
内心を悟られぬよう注意を払いながら、言葉を返した。
「今までだってその呼び方だっただろ。連絡もつかなけりゃ消息まで断ちやがって」
「…話すことなんて何もありませんもの」
丸い透明な瞳は宝石のように冷たく日向を捉える。
日向はその視線にたじろいだ。
軽蔑でも、疎んじているわけでも、蔑みでも、嘲りでもない。あの視線は何だろう。
何故あれほど感情表現豊かな彼女が、一切の表情を消してしまったのだろう。
「……成宮嬢」
日向は息を吸い込んだ。
彼女から何かを奪いたかったわけではなかった。
笑顔もしかめ面も強い意思も。
彼女を彼女足らしめる要素が一つでも自分のせいで失われるなんて、耐えられなかった。
「…俺が、俺が悪かった。あんたが無月を想っていることを知っていながら、俺はそれを身勝手に終わらせようとした」
蜜華は先程と寸分違わぬ表情で、一度大きくため息をついた。
「それは別にもう良いのですわ。私だって、無月様とどうこうなろうなんて望んでおりませんでしたもの」
強がりにしてはあまりに落ち着いた静かな告白だった。
事実なのだろう。
想い人と結ばれることを望まない恋。そんな矛盾が存在するのだろうかと怪しんだが、何ということはない、人間の感情は常に一直線な訳ではないのだから。
「耐えて身を引くのではありませんわ。私はただ、無月様の近くで、その幸せをこれからもずっと見ていたいだけ。それが私の本当の望みなのです」
何て強くて危なっかしい少女なのだろうかと思った。
その言葉には一片の嘘もなく、真から無月を想っているのだということが伝わってくる。
そこまで想っている相手をこんな風に手放してしまえる彼女が、途端に心配になった。
そんな日向の内心を察したのか、蜜華はゆるゆると首を振った。そうではないのだと。決して無理をしているわけではないのだと。
「恩返しの為でも自己犠牲でもなく、私の純粋な望みですわ。あんなに優しい方が不幸になる世界なんて、認めたくありませんもの。私はハッピーエンドをこの目で見届けたいのですわ」
ハッピーエンド。
なるほど、それはとてもいい考えだった。
日向は胸を撫で下ろした。
蜜華の言葉が真実のものであるということがようやく分かったのだ。
何故なら、それは自分の考えている望みと、全く同じものだったから。
「ハッピーエンドってこの先もずっと無月の傍にい続けるつもりか?」
「あら、日向様だってそのおつもりなのでしょう?だから私は貴方を選んだのですわ」
ずばりと言い当てられ、日向は黙った。
この娘は、千里眼でも持っているのだろうか。
蜜華はくすくすと笑った。
「選んだと言うが、今こうして嫌がっている真っ最中だろう」
意趣返しに言い返すが、その言葉に存外傷ついているのは自分自身だった。
蜜華もどこか決まり悪そうに視線をそらす。
「それは…私のわがままですわ」
要領を得ない答えに、日向は眉を寄せる。
蜜華は小さくため息をつくと、先程より幾分控えめに話し始めた。
「幼い頃から両親を見て育ちましたから、私もいずれはあんな風にと願っていたところがあったのです。勿論、私たちの世界では、夫婦が寄り添い合えるなんて、奇跡のようなことだと分かってはいたのですが……あまりに急に自分の未来が決してしまって、少しだけ、戸惑ってしまったのですわ。でも、こうしてお話ししているうちに、覚悟は決まりましたから、もう大丈夫ですわ。ご安心ください」
こうして説明されても、日向には何のことだかさっぱり分からなかった。
確かめるように、一言一言ゆっくりと問いかける。
「俺との結婚は理想から遠かったということか?」
蜜華は誤魔化すように微笑んだが、それは何より雄弁な肯定だった。
「言ってくれ、蜜華。俺が気に入らないのなら、そう、言ってくれ。今ならまだ、間に合うから」
日向の言葉に、蜜華は目を丸くした。
「日向様が気に入らないなんて、私一言も申し上げておりませんわ」
今度は日向が刮目した。そして訝しむ。
何故この会話はここまで噛み合わないのだろう。
「俺の立場が危ういものだからじゃないのか」
「違いますわ」
「この変な髪の色と目の色か?」
蜜華は眉根を寄せると、首を振った。
「じゃあ何だ。性格か?経歴か?」
蜜華はつかつかと距離を詰めると、仁王立ちし、はっきりと怒鳴った。
「違いますわ!!大体、貴方様が気に入らないのではないと先程から申し上げているではありませんか!」
あまりの気迫と理解のできない言葉に、日向はぽかんと口を開ける。
恐らくこれまで誰にも晒したことのない無防備な表情だった。
「貴方様と結婚すれば、私はきっと自分が惨めになりますもの。それが嫌なのですわ。いつかは私に振り向いてくれるのではないかと期待しては失望して、嫉妬して。それでも表面上は仲睦まじい夫婦を演じなければならないなんて。それが少し悲しかっただけですわ」
日向はぽかんとしたまま、何を言っているのかと首を傾げた。
「振り向くも何も、妻以外の奴を見ることはないだろ。表面上は睦まじいなんて、俺だって御免だ」
蜜華はどういうことかと頭を巡らせる。察しは悪くないはずなのに、今は全く状況が理解できなかった。
「無月様を想ってらっしゃるのでしょう?」
日向はようやく得心がいった。
一葉のお叱りの言葉を思い出し、苦笑する。
おめでたい高校生の思考だと侮っていたが、何ということもない。分かっていなかったのはやはり自分の方だったのだ。
「無月とはそういう関係じゃない。信頼すべき幼馴染であり、頼れる友で、そして娘のように大切に想っている。この気持ちが恋に変わることは絶対にない」
嘘だと。そんなのは都合のいいデタラメだと、そう言ってしまえなかったのは、彼の心がまるで手に取るように分かってしまったからなのだろう。
蜜華が無月を想う気持ちと、日向が無月を想う気持ちは、とてもよく似ていた。
蜜華の心には根底に淡い恋心があったが、それはかつての残照のようなものだった。始まりはきっと恋だった。しかし日を経るごとにその恋心にたくさんの感情が付随して、いつしかそれは純粋な恋心ではなくなってしまった。
今抱いている感情はきっと、尊敬や感謝、憧れ、信頼、友愛、そういったものがきらきらと集まって生まれたものだ。
もはやこれは恋とは呼べないだろう。
大切な人であることに変わりはない。しかし気づかぬうちに、感情は静かに形を変えていたようだ。
それも、かけがえのない確かな形に。
恋心が退化したのではない。恋が育って、たくさんの綺麗な感情に育まれて、この美しい心は生まれたのだ。
「確かに、俺はすぐにでも身を固めなければならない。そのためにあんたを利用してる自覚はある。だが、俺はあんたが成宮の令嬢だから声を掛けたわけじゃない」
それは何となく蜜華にも分かっていた。
彼は切れ者だ。とてつもなく良く切れる。
例え後ろ盾が無かろうと、どうとでもなるだろう。
まして今母親であるジュリアは時成の元へ戻ったのだ。もはや成宮程度の後援など不要だろう。
それでも、これほど厄介で面倒な女に結婚を乞う理由。
それは理性という枠の中では到底説明のつかない何か。
「この先をずっと共に生きていくなら。そう考えたとき、浮かぶのはあんたの顔だけだった。あんたがいいと思ったんだ」
それが何故か、そんなことは分からない。
まともに話したこともない、笑顔一つ向けられたことさえないのに。
実際日向は蜜華には嫌われているのだと思っていたし、そんな彼女に苦手意識さえ持っていた。
それなのに何故だろう。
結婚するなら彼女が良いと、どうしても願ってしまうのだ。
だからこそ、望みなど小指の先程もないのに、身の程知らずにも結婚を申し込んでしまった。
駄目で元々。そんな気持ちで。
振られたらその方がすっきりと諦めがつくだろう。
そう思っていたのに、いざ拒絶されるとどこかに望みはないかと探してしまう。
みっともなく足掻こうとしてしまう。
「結婚してくれ、蜜華。あんたが俺を愛せなくても、俺があんたを幸せにしてみせるから」
蜜華は眉を顰めた。
この男は厄介だ。想像していたよりずっと、感情的で直感的。理知の塊だと思っていたのに、そんな日頃の姿は見る影もない。
軽薄で卑怯な男だと思っていた。
その容姿と頭の良さを使って、あちこちを渡り歩いて皆に取り入り、誰のものにもならず、決定的な何かを避け、誰も気づかぬうちにその地を去ってしまう。
そんな男が今、何の根拠もない幸せを約束しようというのだから、挨拶に困るとはこのことだ。
これもまた、彼の計略の一部なのかもしれない。
こうして成宮の娘を籠絡し、手駒にでもしようとしているのかもしれない。
だが、蜜華は知ってしまっていた。
彼はとても常識的で、面倒見が良く、そして人の痛みを我が事のように受け止める類の人間だった。
無月がいつも困ったように、「日向は悪い人ではないのよ」と言っていたことを思い出す。
そう、悪い人ではない。
それどころか、良い奴なのだ。
こんなこと、一生気付きたくなかった。
蜜華は大仰にため息をついた。
「……浮気は、絶対に、許しませんからね」
固唾を飲んで様子を見守っていた日向は、その瞬間、花開くように笑った。
「するもんか」
蜜華は差し込む強い夏の日差しに、眩しげに目を細めた。




