朝のひととき
午前三時半、少し過ぎ。
日向は、隣ですやすやと眠る無月の頭を優しく撫でた。絹糸よりも滑らかなその髪が、ひんやりとした感触を与える。
「…どうすれば、いいんだろうな」
彼の目に、浮かんでいたのは確かな苦悩の色。
「お前が、この世で一番好きなのは、多分俺なんだろう」
最低だ、と日向は自嘲する。
「俺は、その気持ちを利用しているだけなのに」
そして、彼はそっと目元を押さえてベッドを離れた。
手早く服を着、夏用の黒いコートを羽織ると、荷物を持ち、扉へと向かう。そして、僅かな音も立てることなく、扉を開いた。
「…おやすみ、無月」
そうして、いつものように去って行く。
いつだって、その言葉を無月が聞くことはなかった。
――――……
午前六時。
透き通るような白い肌に、柔らかな朝日が染み入るのを感じ、無月は目を覚ました。そのまま上半身を起こすと、濡れたような髪が肩から背へと流れていく。それから、サイドテーブルに置かれた時計に目をやり、カーテンの隙間から零れる朝日に目を細めた。
初夏のことなので、日はすっかり明けてしまっているが、時刻としては早すぎる。いつもの使用人達もあと一時間は確実に来ない。
いつもの無月なら、その体勢のまま、彼らがやって来るまで由無し事を巡らせていただろう。まるで、精巧な人形のように。
しかし、この日は違った。
無月は両手を組むと、それを頭上へと伸ばした。そして、息をつくと、ばさりとその手を下ろす。
それから、一糸纏わぬ姿で起き上がると、カーテンを開けることもせずに、部屋に取り付けられている浴場へと向かう。大理石の床に、ひたひたという音が響いた。
その姿は、まるで、一枚の絵画のようで、生きた人間の温かみなどというものは微塵も感じられらない。
やがて、無月の足音が止んだ。浴場の扉の横に備え付けられている棚から数枚タオルを取り出すと、浴室の扉を開ける。途端、中から湯気が漏れ出てきた。どうやら既に、伊勢が準備を終えていたようだ。
「…伊勢は、少し優秀すぎるわ」
そんな微かな声を残して、無月は扉の向こうへ消えた。
無月の浴室は、白を基調とした石張りの空間だった。
大の大人が十人は寝転んで浸かれるような、巨大な浴槽。毎晩、そして日向の訪問の翌朝には、伊勢によって湯が張られている。今日も既に張られた湯が、静かな浴内で並々と揺れていた。日によって、色や香りが違っているのだが、そんなことは無月にとってはどうでもよかった。
無月はいつものように一台のシャワーの前に立った。そして、金色に輝く蛇口を捻る。
その細かい湯を頭上からかぶりながら、無月は昨夜の日向を思い出す。
そして、さっと赤面した。日向の胸に包まれると、どうしようもなく安心する。まるで、全てのものから守られているかのような、安心感。
しかし、昨日は、日向をまともに見つめることができなかった。日向は、いつも通りに見えた。きっと、いつも通りだったはずだ。だが、月の光を浴びて金色に輝くあの瞳が、今でも無月を捉えて離さない。
無月は、ぎゅっと目を瞑って、顔まで洗ってしまうと、その思考ごと、全てを洗い流した。
白い花の浮いた湯槽へ近づき、そろそろと体を沈めていく。
すると、先程流したはずの考えが、またじわじわと押し寄せてきた。
日向が何故恋人の真似事をしたがるのか、無月には分からなかった。ただ、切なく自分を呼ぶ渇いた熱い声も、歪んだ表情も、優しい指先も、全て、普段の穏やかな日向からは想像しえないものだった。
そして、思い出されるのは槙のこと。揺れるこしのあるしっかりした焦げ茶色の髪。大きな熱い手の平。「好きだ」と囁く唇。
しかし、その言葉が偽りであったことに気づいてしまってからは、彼の想いが、無月の胸に届くことはなくなった。…偽りであったに違いないのだ。
ただ、「おはよう、無月」と朝日とともに輝く笑顔で言われるとき、無月はどうしても、無感情ではいられなかった。
そこまで思考が行き着いたところで、無月は湯から上がり、浴室を後にした。
いつの間にか、扉の前にはバスマットが敷かれており、先程タオルを取った棚にはバスタオルとガウンが用意されていた。簡単に体を拭き、髪の水滴を拭い、ガウンを羽織る。
そして、ベッド近くのドレッサーに腰掛けた。ずらりと並ぶ色とりどりの瓶の中から、淡い黄色のものを選び、数回振る。角度により、きらきらと瞬くところを見ると、繊細なラメが散りばめられているらしい。それを艶やかな髪に馴染ませる。ただでさえ眩い髪に、華やかな輝きが加えられた。
そのとき、控えめに扉がノックされた。無月は時計を確認する。午前七時。
いつもの使用人達が来たことを悟った無月は、申し訳程度に「入りなさい」と返した。
普段はほとんど無断に近い形で入室してくる彼らが無月の返答を待っているあたり、伊勢から無月が既に起きていることを聞かされているのだろう。
「失礼致します」
そう言って入って来た彼らは、更に無月の外出のことも聞かされていたようだ。
挨拶もそこそこに、一人がドライヤーを手に取ると、もう一人が「お召し物はどちらになさいますか?」と尋ねてきた。無月は、「こっちかしら」と返すと、もう一人に「荷づくりをお願い」と命じた。
二人は、「かしこまりました」と腰を折ると、音もなく散り散りになって行った。
ドライヤーをかけられながら、無月は簡単に化粧を施していく。本来ならばこれも彼らに任せるべきなのであろうが、どうしても顔を他人に触られるのには耐えられなかった。
ドライヤーをかけ終えた使用人が一歩下がったので、無月は立ち上がった。すると、用意した服を持って控えていた者が着付けを始めた。
その間、考えるのは、今日のこと。
一体、日向はどこへ連れて行ってくれるのだろう。
ふと、時計を見ると、時刻は八時を指していた。と同時に、無月の準備を進めていた二人が、頭を垂れながらすっと下がる。
「お待たせ致しました」
そうして、一人が手鏡を手渡し、もう一人が姿見を運んでくる。無月は、鏡の中の自分を見つめた。
その、あまりに代わり映えしない姿に、無月は困ったように笑う。
「…いいわ、下がりなさい」
「恐れ入ります」
そこに、先程荷づくりを申しつけられた者が戻ってきた。丁寧に一礼をすると、目を伏せ、淡々と言葉を紡ぐ。
「御荷物はエントランスに置かせていただきました」
「分かったわ」
無月は、鏡越しに彼らを一瞥すると、部屋の扉に向かった。その後に、三人も続く。
そして、いつものように、無月は部屋を後にした。