無月と清宗
漆黒のドレスに身を包んだ無月は、流れるように振り返った。
背に纏まる長い髪が、まるで水のように揺れる。
胸元に輝く首飾り。銀色のティアラ。
誰が見ても非の打ち所のない美しい姿。
しかし、それを眺める薫の表情は晴れなかった。
「無月さん、本気なの?本当に、清宗様とお話しされるつもり?」
できることなら止めたいと、言外に訴えていた。
しかし無月はそれに気づいていながら、なお止まるつもりはなかった。
「えぇ、今から行って来るわ」
「…せめて別の日にしたらどう?今日は透さんのお誕生日会に集中して…」
「今日が過ぎれば父はまた、私を避けて会えなくなるわ」
図星を突かれ、薫は黙る。
清宗は、日向に真実を伝えたあの日から、ほとんど家に寄り付かなくなった。
真実を知った無月との対面を避けているとしか思えないほどに。
否、避けているのだろう。
少なくとも薫はそう考えていた。
合わせる顔がない。その気持ちは痛いほどに分かる。薫とて、日向に真実が伝わったと知っていたならば、意地でも無月に会うことはなかったに違いない。
許されたい。そんな風に思ってしまう自分自身が許せない。脆い決意も覚悟も白日の下に晒され、それでもなお、幼かったあの頃のように言葉を交わし合えることが、どうしようもなく嬉しい。
そんな自分をまだ、薫は受け入れ切れていない。
血の繋がらない自分でさえこうなのだ。
実の父親である彼の内心は如何許りのものなのか。
時の止まった彼の表情から読み取ることはできないけれど、想像するだけで苦しいほどの感情が流れ込んでくるようだった。
居場所を教えた自分を、恨むだろうか。
否、彼は恨まないだろう。
彼は、誰を恨むこともできない。
彼女を亡くしたときでさえ、あの世界を見捨てられなかったのだから。
その優しさが、心を犠牲にして成り立つものだと、彼は気づいているのだろうか。
――――……
無月が扉を開け放つと、清宗は華奢な椅子に腰掛け、窓の外を見渡していた。
「……ここは、お母様の部屋だったのね」
清宗は振り向かず、言葉を発することもない。
それが何よりの肯定だった。
この部屋を見つけたとき、もしかしたらと思っていたのだ。
細い机、小さめな椅子、可愛らしい洋燈、背の低い衣装箪笥、気持ちの良い花柄の寝台、どこか優しい香り。
時間軸から隔絶されているかのようなその部屋は、この屋敷で唯一居心地が良いと感じた空間だった。
「ここは、何なの?」
背後に控える伊勢に尋ねる。
彼は珍しく逡巡し、言葉を選ぶようにこう答えた。
「…稀に、薫様がご使用になられる部屋でございます」
興醒めだと思った。
居心地が良いなんて、一瞬でも思ってしまった自分の感覚を呪いたい程に。
それ以来、この部屋には一歩も立ち入らなかった。
あのときの違和感を信じていたなら。ほんの少しの勇気と行動力があったなら。
きっとこんなことにはならなかった。
これまでの怠惰の代償が、今目の前に。
傷付け続けた肉親との対面。
こんなに恐ろしいなんて。
これまで取ってきた態度、吐いてきた言葉。
取り返せるなら一つ残らず取り返したい。
知らなかったこととはいえ、ひどく醜いことばかりしてきた。
理解する努力もせずに、全てを否定し続けてきたのだ。
悲しみに耐え、憎しみを享受し、それでもなお残された全てを守ろうと立ち続けた父に、自分が今掛けられる言葉なんて。
「……陽子はよく、こうしてここから外の様子を眺めていた」
こんな声だっただろうか。
父の声はこんなに歳を重ねて掠れていただろうか。
「無月と日向君が走り回っているのを眺めては、嬉しそうに笑って、手を振って」
清宗は僅かに目を細めた。
それは悲しみか、思慕か、追憶か。無月には分からなかった。
「思えば、あの思い出があったからこそ、私は今日まで生きることができたのだ。それなのに」
無月は恐る恐る足を進め、その隣に立った。
母と同じ景色を見ているのだと思うと、不思議な感覚を覚えた。
「私は我が子から、その思い出までも奪ってしまった」
無月は目を閉じた。
今父と目を合わせるのが、とても怖い。
父の後悔に触れるのが、その眼に映る優しさを目の当たりにするのが、母への愛を感じるのが。
「……すまなかった」
何より、たった一人残された娘に、捧げられた愛情に気づくことが。
「…謝らないで、お願い」
そんな愛に応える術を、資格を、自分はまだ、持ち合わせてはいないのだ。
「私にはもう、貴方の子でいる資格なんてないの…」
清宗の目が、見開かれた。
「何を、言うのだ」
誰が見ても分かるその表情は、驚愕だった。
そしてその瞳の奥に灯った炎は、確かな決意と固い意志を示すものだった。
「お前が、私たちの子でなかったときなど、一瞬たりとも無い」
どんなに離れて暮らしていても。
我が子の記憶から消えることがあろうとも。
「どんなに可愛いかったか」
物陰に隠れ、祖父母と遊ぶ愛娘を盗み見るとき。
会場で、遥か遠くの席に、その姿を認めたとき。
小さなその手で、食事をする姿を垣間見たとき。
どれほど声をかけたかったか。
どれほど腕に抱きたかったか。
父であると、名乗りたかったか。
悲しみも寂しさも確かにあった。
けれど、無月が楽しげに駆け回る姿を見るだけで、全てが救われていたのだ。
思わず頬が綻ぶことさえ、あったのだ。
「気に病むことなど何もない。ここまで元気に育ってくれた。それだけで良い。それだけが、私のただ一つの願いだった」
無月の頬を、優しい涙が濡らした。
もはや悔しさも、恐れも、何もなかった。
感じていたはずの罪悪感も全て、父の言葉が洗い流してくれたかのようだった。
「…良かった」
全てを失う前に気づくことができて。
共に過ごす時が残されていて。
こんな深い愛情を、返していくことができるだろうか。
貴方の娘で良かったと、そう伝える為に、これから何をしていこう。
まだ見当もつかないけれど、焦る気持ちはなかった。
少しずつ、少しずつ埋めていけば良い。
共にいられなかった年月も、亡き人を想う心も、互いを理解する時間も。
「これから、たくさん、話を聞かせてほしいの。私の知らないお母様の話を」
清宗の瞳が戸惑いに揺れた。
その話題は長らく禁句だったのだ。
薫と二人、どちらが言い出した訳でもない。しかし双方ともに、陽子の思い出を語ることはなかった。
思い出せば、辛くなるから。今ここに彼女がいないという事実を直視できなかった。
彼女を思い出になど、できなかったのだ。
「…陽子の、話か」
「えぇ」
無月は迷いなく頷いたが、そこに気遣うような間があったことに、清宗は気づいていた。
知らぬ間にこんなにも強く、優しく育っていたのか。
清宗は口の端で笑った。
「陽子は、とにかく見つけることが上手かった」
目の前に四季の風景が広がっていく。どの場面にも、彼女の笑顔が輝いていた。
「雨の日には雨宿りをしているいたちを見つけ、凍てつくような日には渡り鳥を見上げ、暖炉の暖かさが嬉しいと言っていた」
うだるような日には、こんな日にしかできないと水鉄砲を探し出し、手違いで屋根裏に閉じ込められた日には、塞がれていた天窓を見つけ出し、共に星を数えた。
そうだった。
彼女はいつもそうして、笑っていたのだ。
清宗は、ため息をつくように微笑んだ。
「ようやく、休ませてやることができる」
思い出の中の彼女に、どうか安息を。
死者として生き長らえさせるには、彼女の世界は美しすぎる。
「これから、たくさん話をしよう。無月の知らない彼女のことは、全て話そう」
きっと彼女も天の最も綺麗なところから、共に笑っているに違いない。
そのとき突然、何の断りもなしに、勢いよく扉が開いた。
けたたましい音に、清宗は呆然とし、無月は咄嗟に蝶番を案じる。
動きの取れない二人の耳に聞こえてきたのは、拍子抜けするほどに気楽な声だった。
「やぁ、楽しそうな話をしているね!僕も混ぜてくれたまえ!」
清宗は縫い付けられたかのように一歩もその場を動けなかった。言葉さえ発することができない。
これは夢だ。
何度も見続けた夢が白昼夢となり現れたのだ。
「親父、許可なく入室するなって伊勢のじいさんも言ってただろ」
そう言いつつ後に続く日向、そして、遠慮がちに扉をくぐるジュリア。
とても現実とは思えない者たちの中で、唯一現実だと認められる日向に、清宗は視線を合わせた。
「…どういうことだ」
日向は悪戯小僧もかくやと言わんばかりに笑った。
「ようやく一泡吹かせてやれたか、おっさん」
意味を理解する前に、目の前の二人が幻などではないことがはっきりと伝わってきた。
「……伊勢、伊勢はいるか!薫を、早く薫を呼べ!」
こんなことがあるだろうか。
もう二度とあの頃は戻らないのだと思っていた。
友と語り合うことも、皆で食卓を囲むことも、もう二度とないのだと。
「清宗様、どうしたの!?」
かつてない程の声に呼ばれた薫は、淑女の仮面など完全に忘れて扉を跳ね開けた。
予想だにしていなかった室内の状況に、薫は暫し沈黙する。
しかしこの状況を把握するのもまた早かった。
「何で貴方がここにいるのよ、時成」
「久しぶりの再会の第一声がそれかい?相変わらず切れがいいね。もう少し優しくしてもらえると嬉しいんだけど」
「奥さんにしてもらいなさい」
そう言うと、薫は真っ直ぐにジュリアの元へ歩み寄り、その手を取った。
「ジュリア、もう大丈夫なの?」
かつての友の面影が眼前の薫と重なる。
空色の瞳に涙が滲んだ。
「えぇ、もう、大丈夫」
薫は一度大きく頷くと、力強く抱きしめた。
「戻ってきてくれて、ありがとう。時成はあんな奴だけど、心配してたのよ。清宗様も、私も」
清宗はしてやったりと笑っている日向に、一本取られたと笑い返した。
それから、久方ぶりに対面する友と視線を合わせる。
「貴様待たせよって、この道楽当主め」
時成はくしゃりと嬉しそうに笑った。
「感謝する、我が友よ」
無月はそんな彼らを遠めに眺めながら、時成からの賛辞を話半分に聞き流し、考えていた。
あの扉は恐らくあと一年と保つまいと。
無月は知らなかった。
この扉がかつて、彼らの日々を密やかに見守っていたのだということも。
あの日から数十年、ひっそりと、ここでまた彼らの時が動き始めるのを、待ち続けていたのだということも。




