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日向と蜜華の糸


「急に呼び出したりして、一体どういう了見ですの?」


 余所行きの青いドレスに身を包んだ蜜華は、不満を隠そうともせずに、眼前に座る日向を睨んだ。

 ここまで嫌われているのかと、日向は刮目する。

 無月絡みの用向きならば、嫌な顔一つ見せずに駆けつけるというのに、そうではないと分かるや否や不機嫌さを隠そうともしないとは。

 これまでの慇懃無礼さが嘘のようだ。


 平原の只中に立つこの店には、日中の爽やかな風が吹き込んでいる。しかし、二人の間には正しく暗雲が立ち込めていた。

 飲み物にさえ手をつけていない蜜華は、要件を聞き次第すぐに立ち去るつもりなのだろう。左手は未だハンドバッグを持ったままだ。

 この分では軽食で時間を稼ぐこともできない。

 日向は珍しく何かを言い澱み、一度水を煽った。

 それからまた蜜華に向き直るが、どこか気まずそうに視線を合わせようとはしない。

 飄々とした彼が、こんな態度を見せるなんて、一体どんな爆弾を投下しようとしているのか。

 蜜華の眉間の皺がいっそう深くなった。


「用がないのなら帰りますわ。私も暇ではございませんの」


 そう言いながらも席を立たないのは、あくまで相手が春乃宮家の者故なのだろう。

 礼を尽くすことはないが、無礼を働くつもりもない。

 日向個人への関心のなさが如実に表れていた。

 このまま黙っていては、言いづらくなっていくばかりだ。

 そう悟った日向は、意を決して口を開いた。


「…都合も考えず、急に呼び出して、すまなかった。俺が話したかったのは…」


 遅かれ早かれ言わなければならないのだ。

 早く言ってしまえ。

 そう自身を叱咤するも、雄弁なはずの舌が全く回らない。

 蜜華は大きくため息をつくと、ようやくハンドバッグを置いて、座り直した。


「そんなに気負われなくても、おおよその察しはついておりますわ」


 蜜華の声はどこまでも冷静で、そこには期待も失望も何も浮かんではいない。

 彼女のこれまでの人生を察するに余りある声色だった。

 そんな相手に持ちかけんとしているひどく身勝手な頼みに、自分のことながら辟易した。

 何と残酷な頼みであることか。

 分かっているのに、それでもなお、退くことができない。


「……俺と、結婚してほしい」


 その言葉は、あまりにも呆気なく響いた。

 こうして呼び出すまで、この頼みがこれほど心苦しいものになるとは思ってもみなかった。

 成宮蜜華は、いつも気高く背筋を伸ばした、損得勘定に忠実な、令嬢の中の令嬢であると思っていたから。

 例え無月を想っていたとしても、自家にとって、そして自身にとって、最も利のある相手と婚姻関係を結ぶ。そこに躊躇いも、まして悲しみなどあるはずがない。そう、本気で信じていたのだ。

 春乃宮家の者と縁戚関係となる。

 それは成宮家にとって、望むべくもない話なのだから。

 令嬢にとってもこれ以上の縁談はない。

 だからこそ、こうしてまるで取り引きをするかのように呼びかけたのだ。

 この世界で、共に戦ってほしい、と。

 愛は無くとも、信頼を築くことはできるだろうと。

 それが愚かな、独りよがりの願いであることに、露ほども気付かずに。


「…無月様の為ですか?」


 凪いだ声に顔を上げると、先程と寸分違わぬ表情の蜜華がそこにいた。


「日向様が独り身でいる限り、無月様の婚約者は永遠に日向様。だから、他の者と結婚することで、無月様を自由にして差し上げたい。違いますか?」


 日向は言い返す言葉を持たなかった。


「それなら、私以上の適任はいませんわね。無月様を除いて最も力ある家の長女。危うい日向様のお立場を補強する後ろ盾には十分でしょう。何より知らぬ仲ではございませんもの。顔見知り程度でも、顔も知らぬ相手よりはましというものでしょう。…謹んでお受け致しますわ」


 日向はただまじまじと蜜華を見つめた。

 これほど的確に分析されているとは。

 僅かなずれもなく思惑を把握されている。

 彼女を、甘やかされて育った令嬢とどこかで侮っていた自分を恥じた。

 彼女は全てを理解した上で、何も知らぬ、分からぬ振りをして生きてきたのだ。

 その瞬間、言いようのない後悔に襲われた。

 いたたまれなかった。

 どんな外道も行なってきた自分にも、まだこんな感情が残っていたのかと驚くほどに。


「…すまない、何でもない。聞かなかったことにしてくれ。帰りの車の手配を…」


 そう挙げかけた手を、目を丸くした蜜華が制した。


「何故ですの…!お受け致しますと申し上げたではありませんか!」

「…怒っているだろう」

「怒ってなんていませんわ!」

「怒っているじゃないか」

「違いますわ!」


 そうではないのだ。

 違うのに。

 心の内にたくさんの言葉が舞い上がっては消えていく。

 そのどれもが口から外には出てくれない。

 蜜華の目から、ぽろぽろと涙が落ちた。


「そんな泣きそうな顔をして、結婚してほしいだなんて…」


 日向は絶句した。

 自分は、一体どんな顔をしていたのか。

 眼前の彼女への罪悪感に押し潰されんとしていた表情なんて、分かるはずもない。


「勘違いなさらないでください。貴方を想ってお受けするわけではありませんわ。私だって無月様の為に……無月様にとって、そうなるのが一番都合が良いと思ったからこそ、お受けしたのです。日向様のお心が無月様にあるように、私の心も無月様のものなのですから」


 そのときようやく、日向は彼女が誤解をしていることに気がついた。

 だが、それを正す間も無く、蜜華は凛と背を伸ばしたまま席を立つ。

 

「それでは、御機嫌よう、日向様。お父様には私から話を通しておきますわ」



――――……



「それでおめおめと逃げ帰ってきたわけですか」


 一葉の辛辣な一言が、畳敷きの部屋に響いた。

 日向は苦虫を噛み潰したような顔で俯くも、それが事実である以上、反論の余地はなかった。


「…うるせぇ。兄貴はいつ戻るんだ」

「突然押しかけてきたくせに、随分な言いようですね!」


 あれから、一人になる気にも、適当な相手と過ごす気にもなれず、いつの間にか深草家に車を寄せていた。

 呼び鈴を鳴らしてから、自分は何をやっているんだと冷静になったが、もはや後の祭り。

 買い物に出ている兄不在の今、こうして妹に散々詰られている。


「何で無月さんとはそういう関係じゃないって否定してこなかったんですか。完全に誤解されてるじゃないですか」

「いや、そこはそれ程重要じゃないだろ」


 蜜華が怒ったのは、彼女の想いが無月に向いていることを知っていながら、他の人間との結婚を提案した為に他ならない。

 しかし一葉は、信じられないとばかりに語気を荒くした。


「本気で言ってるんですか、この鈍感!」

「鈍感だと!稀代の策士に向かって」

「自分で言わないでください。いくら策士だって女心の一つも分からないんじゃ仕様がないですね」

「誰に向かって女心を説くつもりだ」

「だってそうじゃないですか!他の女性を愛してる人にプロポーズされるなんて、虚しいだけですよ!」

 

 日向ははっとした。


――そんな泣きそうな顔をして、結婚してほしいだなんて…


 いや、そんなはずはない。

 彼女は春乃宮日向になんて、微塵も興味を抱いていないのだから。

 その内心なんて心底どうでも良いはずだ。

 愛のない結婚を虚しいと一刀両断できるような世界に生きてきたわけでもない。

 政略結婚は、生き残る為に必要不可欠なもの。決して虚しいものではない。


「…そういう自分はまだ家族ごっこを続けているのか?」


 言ってしまってから、後悔した。

 こんなのは、ただの幼い八つ当たりだ。

 それもひどくたちの悪い。

 すぐに謝らなければ。

 しかし一葉は、てんでこたえた風もなく、それどころか、清々しく、どこか誇らしげに笑った。


「いいえ、もう、卒業しました」


 詳しく聞かなくとも、彼らの関係がどのように変化したかなど、火を見るより明らかだった。

 日向の口元が緩む。

 そうか、この優しい二人は、もうこれ以上苦しい想いに悩まずに済むのか。


「……良かった」


 ため息のように溢れた声に、一葉は息を飲み、気まずげに目を逸らした。

 耳元が僅かに赤く染まっている。


「やめてくださいよ。調子が狂うじゃないですか」

「それは悪かった」


 にかりと笑った日向は、ここぞとばかりに揶揄ってやろうと口を開く。

 しかしそのとき、玄関から駆け足が聞こえてきた。


「日向さん、来るなら来るって言ってくださいよ!一葉、悪いけど買ってきた冷凍のものしまっておいて」


 構えていた一葉はこれ幸いと席を立つ。


「はーい!では日向さん、私はこれで。蜜華さんをこれ以上泣かせたら許しませんよ!」


 日向が反駁する前に、一葉は台所へと入って行った。

 入れ替わりに槙が、「お待たせしました」と顔を覗かせる。

 仕返しの機会を失った日向は、この男から事の顛末を根掘り葉掘り聞き出してやろうと決意した。




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