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無月と薫


「私との約束なんて、もうすっかり忘れられているものと思っていたわ」


 どこか責めるような物言いなのに、相手にそうと感じさせない雰囲気は、長年の経験と試行錯誤を思わせる。


「急に入院したと思ったら帰ってこないなんて言うんだもの。きちんと食べているの?」


 再婚相手の連れ子を疎ましく思いながらも、最低限の礼儀と体面の為に、ささやかな反抗にさえ付き合う継母。

 薫の擬態は完璧過ぎた。

 こんなの自分でなくても気づかないだろうと、無月は苦笑した。

 

「何を笑っているの?まぁいいわ。せっかく無月さんから連絡してくださったのだもの。ゆっくり選びましょう」


 そう言うと、薫は無人の店内を足音一つ立てずに進んで行った。

 眩いほどの室内灯。

 色とりどりのドレス。

 空気と同化している店員。

 以前は気詰まりで仕方がなかったその場所を、今はどこか遠くから見ているような気がした。


「無月さんこちらはどう?この鮮やかな赤は無月さんの御髪に映えると思うわ」


 わざと継子の勘に触るような声色、言葉選び。

 気づいてしまえばどこまでも痛々しく、まともに見ていることさえできないほどだった。


「薫さん」

「何?」


 少女のような無邪気さを装った微笑み。

 腹に一物あるに違いないと無月を警戒させ続けたもの。

 それはきっと、彼女の本心を、心をぎりぎりのところで守り続けた鎧だったに違いない。

 無月は一度大きく息を吸うと、もう一度呼びかけた。


「薫さん」


 何かの気配を感じたのか、薫は先程のような気軽な返答ができないようだった。

 それでも強いて微笑みを保ち、「どうしたの?」と首をかしげる。その一瞬の迷いに見た表情に、彼女の仮面の下がちらついたような気がした。


「もう、やめてください」


 薫は持っていたドレスを置き、また心配げな仮面を被り「本当に、どうしたの?」と近づいてくる。

 以前の無月なら逃げ出しただろう。

 しかし今、彼女は一歩も退かなかった。

 近づいてきた薫の両手を取ると、一歩距離を詰める。

 ぎょっとしたのは薫の方だった。

 先程までの淑女の微笑みが見る影もない。

 見開かれた目。固まった背。呼吸さえ忘れた体。

 彼女は近くで見ても美しかったが、目の下に痣のような影があることに、無月は今日初めて気がついた。


「薫さん、私…!」


 そのただならぬ様子に全てを悟った薫は、咄嗟に両手を振り払った。


「違う!違うわ無月さん!」


 そして無月の両肩を掴み、幼子に言い聞かせるように告げる。


「誰に何を吹き込まれたか知らないけど、それは真実ではないわ。貴女を慰める為に皆が嘘をついてるのよ」


 彼女のこんな必死な相貌を見るのは初めてだった。

 血気迫るその様子は、余計に無月の胸を締め付けた。

 親友の子を無事に育て上げる。その為だけに生き続けた人。その人の生きがいを今、自分は奪おうとしている。

 それは、誤りなのではないだろうか。

 このまま何でもないと引き下がるのが、正解なのではないか。

 一瞬、そんな迷いが浮かび、そしてそれは、あの日の言葉の響きに、霧散した。


――言いたいことがあるなら、言えばいいだろ。やりたいことがあるならやればいい。どうして全部やる前から諦めるんだよ。言わないと伝わらないし、やらないと一生できないままだ。やってみればいいだろ。


 そう、言わなければ伝わらない。

 やってみなければ、何も始まらない。

 彼が呼び起こしてくれたこの心を忘れてはいけない。

 進んでいく覚悟をしたのだから。


「……嘘をついているのは薫さんだわ」

 

 呆気にとられている薫に、無月は真っ直ぐ言い放った。


「私のために、優しさも孤独も全て殺して、嘘をつき続けてくれたのは、薫さんの方よ」


 もっと他に言い方があったはずだった。

 深い感謝と謝罪を示す言葉が。

 しかし、今無月の心にあるのは、感謝だけではなかった。

 やりきれない後悔と、苛立ち。

 何故嘘をついていたのか分かっていても、頭では必要なことだったのだと理解していても、どうしても思ってしまう。

 どうして本当のことを教えてくれなかったのか。

 知っていれば、恩人を傷つけるような態度を取ることもなかった。

 これまで重ねてきた冷ややかな視線は、言葉は、もう取り戻せない。


「どうして、自分を傷つけるような道を選ぶの…!そんな風に守られて、私が喜ぶとでも思ったの!」


 剥き出しの感情が溢れ出る感覚に、手足が震えた。

 溢れ出るままに発される声は、耳を焼くようだ。

 子供のように眉を下げ、大粒の涙を流す無月は、女神などではなかった。

 まだ幼い頃、日向が置いて行ったのだと泣いた表情、そのままだった。

 薫の頬を、一筋の涙が流れ落ちた。

 すぐに帰ってくるわよ。

 そう言って抱き上げると、柔らかく温かく、小さな手が首元にまとわりついてくる。

 人一倍寂しがり屋な子だった。

 それなのに自立心だけは旺盛で、全て自分でやりたがっては駄々をこねていた。

 あの小さな子が、いつの間にか、あの頃の自分よりずっと大きく、優しく育っている。

 どんな人たちに囲まれてきたのだろう。

 どんなものを見て、何を感じて、今日この日まで歩いてきたのだろう。

 あの日の自分の選択が、この子を茨の道へ導くことは知っていた。

 それでも生きてほしかった。

 決して幸せにはなれない運命の中で、なお生き続けてほしかった。

 年を重ねる毎に、罪悪感は増していった。

 心がどんどん深いところへ沈んでいく。

 それを、まだそんな感情が残っていたのかと自嘲した。泣き出しそうな鏡の中の自分から目を逸らし続けてきた。

 疲弊していく誰より優しい当主。

 物言いたげな執事。

 去って行った友。

 全てに目を背け、ただ自分の為だけに、あの子を飼い殺してきたのだ。

 そのはずだった。

 それなのに、今自分の目の前に立つ無月は、決して不幸には見えない。


「無月さん、貴女、誰のことも恨んでいないの?」


 薫は、祈りにも似た気持ちで尋ねた。

 

「…恨めなかったわ。恨んでいると言いながら、誰のことも心底憎めなかった」

 

 無月はそれが、ずっと不思議だった。

 ずっと悔しかった。

 どんな仕打ちを受けても相手を恨むことのできない自分が。

 どうして、憎むことができないのだろう。この心は既に意味を失くしてしまったのだろうか。

 そんな風に考えたことも一度や二度ではなかった。

 しかし今の無月には、その理由がはっきりと分かる。

 両親の隠された愛情、周囲の者達の気遣いが、満ちていたから。幼馴染の覚悟、友の真心に守られていたから。

 

「薫さん、私は、不幸なんかじゃないわ」


 薫の眼前に、青い青い空が広がった。

 こんな奇跡があるのか。

 不運と孤独、死の影さえ乗り越えて、こんな風に微笑む日が来るなんて。


「だからね、薫さん、だからこそ、私はあの家を出るわ。私のこの心を生かしたい場所があるの」


 そのとき脳裏に蘇ったのは、泣きたいほどに懐かしい友の姿だった。


――見て、薫!


 遠く連なる山々を指差して、振り返る。

 薄くなった雨雲の間から日が差して、彼女の背を照らした。

 湿った土の匂い。若草のひんやりとした雫。

 眩しくて目を細めた薫は、それでも彼女の指の先へ視線を移した。


――見渡す限り雨粒できらきらしてるわ。雨上がりって綺麗ね。


 透明な水に洗い流された世界。

 まるで生まれ変わったかのような生き生きとした景色を、彼女は愛していた。

 何故今になって、その笑顔が蘇ったのだろう。

 彼女を亡くしたその日から、姿形はおろか、面影さえ思い描けなくなってしまったというのに。

 夢にさえ現れてはくれなかったのに。

 もう二度と思い出せないのだと思っていた。

 思い出せなくなるのと同時に、まるで痛覚が麻痺するかのように悲しみが薄らいでいった。

 それが今、まるで昨日のことのように、全てを懐かしむことができる。

 ほんの少しの寂しさを伴って。


――あの子がこんなに大きくなって。綺麗になったわね。


 そんな風に言葉を交わし合うことは、もはやできないけれど、まぶたの裏側の彼女は、今でも楽しそうに笑っている。


「ありがとう…やっと許すことができる」


 あの日の自分も、過ちだと思っていた日々も、全てを認めることができる。


「お父様のことも?」


 視線を向けると、無月は悪戯にはにかんでいた。

 薫は静かに目を閉じ、心から呟く。


「…えぇ、今、とても話しがしたいわ」


 過ぎてしまった時間は、もう戻せないけれど、あの日見た空のように、この先の道のりはきっときらきらと輝くのだろう。

 たくさん話しをしたい。

 愛しい過去のことも、待ちきれない未来のことも。

 娘の巣立ちを、共に世界で一番喜びたい。


「…おかあさま」


 薫は息を飲む。

 

「これから少しずつ、そう呼んでも良い?」


 頼り無く曖昧に笑う無月を、薫は力いっぱい抱きしめた。




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