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槙と一葉―後編―


「槙、私家を出ることにしたから」


 夕食の席でテレビを眺めながら、一葉はまるで明日の予定を話すかの如くそう告げた。


「…は?」


 槙の取り落としたスプーンがシチュー皿に落ち、カシャンと大きな音が響く。

 テレビでは、話題の芸人が騒いでいる。

 しかし、全ての音がどこか遠くに聞こえた。


「だから、一人暮らしするって言ってるの!ご馳走様!」


 そう言うと、皿を台所へと運んでいく。

 その間槙は微動だにせず、空いた椅子を茫然と見つめていた。



――――……



「槙が何て言ったと思います?『は?』って。それから何も言わないんですよ。大学は県外に行くからって言っても『何でそんなこと急に』って。何だか罪悪感が湧いてくるじゃないですか」

「まぁ、驚くのも無理はないわよ。私も驚いたもの。今だにちょっと反対だわ」

「無月さんまでそんなこと言い出さないでくださいよ」


 目の前の茶をすすると、一葉は不貞腐れ顔で無月を見た。


「無月さんはご両親に反対されなかったんですか?」

「私は黙って家を出たから分からないわ」

「家出じゃないですか!」


 そんなことだろうと思いました、と一葉は大仰にため息をつく。


「もう勢いのまま仲直りしてしまったらいいじゃないですか」

「そうね、一葉さんが槙と仲直りしたら考えるわ」


 少しだけ意地悪そうにころころと笑う無月を、一葉は睨みつける。

 煤けた小さな和室。それが今の無月の城だった。

 部屋の端に付いているシンクは錆び、コンロも一口。ユニットバスは小さく、襖は日に焼けて黄色くなっている。

 しかし、無月はとても幸せそうに見えた。


「一葉さんは一葉さんのやりたいことをするべきだと思うわ。槙への当てつけに行きたくもない大学を選ぶなんて、勿体無いわよ」


 静かに諭され、一葉も少し冷静になる。

 確かにそれは一理あった。


「まぁ、それはそうなんですけど…でも、それだけじゃなくて、私たちは一緒にいるべきじゃないんです」


 突然歯切れの悪くなった一葉の湯呑みに、無月は静かに茶を足す。

 そして何気ない風を装って「どうして?」と尋ねた。

 どうして。

 あまりに簡単に聞いてくるものだから、毒気を抜かれてしまったのか。

 考えることさえ恐ろしいと思っていた事柄が、つるつると口から零れ出た。


「私は槙のことが好きで、槙も私のことが好きだって…言うんです」


 無月は優しく目を閉じ、「知っているわ」と頷いた。

 一葉は一瞬言葉を失い、はっとしたように首を振る。


「いえ、そういう、兄妹の好きじゃなくて……」


 無月はそれでももう一度、静かに「知っているわ」と繰り返した。

 その様子に一葉は更に動揺した。


「…それなら、どうして、そんなに落ち着いているんですか」


 対する無月は、一度大きく頷き、明るい声で「いいじゃない」と微笑んだ。

 それが同情や慰めから出た言葉でないことは、誰の目にも明らかだった。

 だからこそ、一葉は惑った。


「いいじゃないって…私たちは兄妹なんですよ」


 兄妹なのに、家族として愛することができない。

 抱いてはいけない感情が、抑えても抑えてもどんどん大きく育ってしまう。

 これまでの人生、それがどれほど後ろめたかったことか。

 何も知らない友達、良くしてくれる人たち皆を裏切っているかのように感じていた。

 その苦しみを、眼前の彼女は、まるで魔法のように消してしまう。


「誰かのことを好きになれるって、それだけで、奇跡みたいに素敵なことよ」


 それが答えだった。

 きっと、それが全てだったのだ。

 どうにもならない想いを憐れむのではなく、大切な心として認めたかった。

 この想いは、汚いものでも可哀想なものでもない。

 ただただ彼の幸せを願うこの想いを、恥じたくはなかったのだ。


「本当に、そう思いますか?」

「思うわ」

「私が、無月さんの従姉妹だからではなく?」


 無月は少しだけ目を見開いて、それから愉快そうに笑った。


「違うわ」


 そう請け負う無月は、やはり嘘をついているようには見えない。

 この様子では、無月も既に自分たちの血の繋がりを知っていたようだ。

 それが少し面白くなくて、一葉はむくれた。


「ひどいです。私ばかり悩んだり必死になったりして」

 

 無月はころころと笑った。

 しっかり者で、たくましくて、真面目な彼女が見せる年相応な表情が、どうしようもなく嬉しかったのだ。


「一葉さん、その顔、いつもの感じよりずっといいわ」


 その瞬間、一葉の頬に朱が差した。

 怒ったような照れたような、少しだけ泣きそうな顔をした彼女は、「もういいです!」と立ち上がると、鞄を掴んだ。

 それでも無月はその様子をにこにこと見つめ、「またいらっしゃい」と手を振っている。

 どこまでいっても憎めない人だと、半ば諦めるようにため息をついた一葉だった。

 その頬が緩んでいたことには、本人さえ気づいていない。


「あ、最後に一つ、言い忘れていたわ」


 お使いを頼む程度の気安さで呼び止めた。

 どうせ颯馬か佐月か夏希か槙に伝言だろう。

 そう思いながらむっすりと振り返る一葉は、やはり律儀で難儀な性質だった。


「…何ですか」


 せめてもの抵抗で不機嫌そうな声を出すも、無月は相変わらずの微笑みのままこう告げた。


「一葉さんと槙、血は繋がってないのよ」


 時が止まったかのようだった。

 彼女は冗談でこんなことを言う人ではない。

 しかし、冗談でなければ何だというのだろう。


「……意味がよく、分からない、です」


 声が震えるのは何故なのだろう。

 不安と苛立ちと恐れと、それから、それから。

 受け入れられない。受け入れたくない。

 もしそれが真実なら、自分たちはこれから、どうなってしまうのだろう。

 今まで当たり前にあった土台が、虚構だったのだとしたら、私たちのこれまでは、何だったのだろう。

 その土台が消え去ったとき、自分と家族を、槙を繋ぐものは何もない。

 変わりたくない。何も、変えたくない。

 嗚咽が込み上げてきたそのとき、ふいに体が温かなものに包まれた。


「一葉さん、大丈夫よ」


 その表情はやはりどこまでも明るくて、背を撫でる手からは確かな希望が伝わってきた。


「心配しているようなことにはならないわ」


 本当に、そうだろうか。

 大丈夫、なのだろうか。

 この先もずっと、彼と共に居られるのだろうか。

 そこまで考えたとき、一葉ははっとした。

 居られるのだろうかなんて、何と弱気なのだろう。

 そんなのはあまりに自分らしくない。

 守りたいものは、この手で守るのだ。

 信じたい未来があるなら、そこへ向かって歩いて行けばいいのだ。


「…無月さん」

「何?」

「…取り乱しました」


 無月の腕から離れ、一葉は恥ずかしげに俯いた。


「あら、もっと頼ってくれて良かったのに」


 ふふふと笑うと無月はもう一度ぎゅっと一葉を抱きしめた。


「何するんですか」

「一葉さんは本当に強いわね」

「何なんですか、もう」


 困ったように眉を下げながらも、一葉はそっと無月の裾を握った。

 思えばこんな風に一葉から触れられるのは、初めてのことだった。


「……無月さん、急には難しいかもしれないですが、私無月さんのこと、ちゃんと従姉妹だと思っていていいですか」


 無月は息を飲んだ。

 先程までの微笑みも消えてしまう。

 その言葉は、無月の隠していた迷いをそのまま鏡に映していた。


「…もし、そうしてもらえるなら……そうしていいなら」


 伝えたいことは山のようにある。

 出会った時の不思議な感覚。

 事実を知ったときの計り知れない喜び、愛しさ。

 涙声に霞んだ言葉の先は、とても続かなかったけれど、一葉にはきちんと届いていた。

 

「…いいに決まってるじゃないですか。変なところで弱気にならないでください」


 そう言って肩口に顔を埋める一葉は、日頃の姿とはとても結びつかない。

 それで良いと思う。

 いつも堂々と背筋を伸ばしている彼女だって、家族にくらい、年相応に甘えてほしい。


「…それじゃあ、槙と話しをしてきます」


  決まり悪そうにそう言って部屋を後にしようとする一葉。

 それを無月は再び、「あ、そういえば」と呼び止めた。

 二度も出鼻を挫かれ、一葉は今度こそ文句を言ってやろうと口を開きかける。

 しかし無月が言葉を繋ぐ方が早かった。


「それには及ばないと思うわ。さっき槙に『これ以上隠しておくつもりなら私から話してしまうわよ』って電話したの。『すぐに行くから待っててくれ』って言ってたけれど、待ちきれなかったわ。もうすぐそこまで来てるんじゃないかしら」


 この人は。

 一葉は生まれて初めてこめかみを押さえた。

 無邪気を装った計算尽くとはきっとこういう人のことを言うのだろう。

 心の準備をする間も無く、直接対決をしなければならない。

 しかしそれもまた、望むところだと思えた。


「当たって砕けたら恨みますからね」


 そう言い残し、一葉はマンションの階段を駆け下りた。

 どこか遠くから、蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 もうそんな季節になるのかと無月は流し台に寄りかかりながら、窓の外を見つめた。


「…お幸せにね」


 さようなら、槙。

 誰に何と言われても、きっとあれが私の初恋。

 悲しくも切なくもない。

 ただただ美しい思い出だけが蘇るこんな終わりもあるだなんて、知らなかった。

 無月は目を閉じ、静かに歌を歌った。



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