槙と一葉―中編―
義理の母親の血縁者を探すというのは、決して容易なことではなかった。
祖父母の口を割らせるのに数ヶ月要し、それから高校生という身分であちこちを駆け回り、情報を集め回るのに数年必要だった。
気づけば高校などとっくに卒業し、大学生になっていた。
進学を理由に家を出ることはしなかった。
お互い薄氷の上を歩むように手を取り合い、形ばかりの家族を演じる。それがどれほど苦しくとも、妹を一人あの家に残していくわけにはいかない。
自惚れではなく真実、二人で互いの体温を感じていなければ生きていられなかった。
そうしてある雨の日、槙は確信した。
妹には唯一の肉親、従姉妹がいると。
祖父母に聞いた情報から、足して引いてまた足して、そうして同じところを、まるで踊らされているかのようにぐるぐると回り続けた数年間。それは、決して無駄ではなかった。
大きな声では言えないような方法も取った。
これ以上調べ続けるのは危険かもしれないと、そう感じたことも一度や二度ではない。
それでも、全てはたった一人の妹のために。
これで、彼女は正真正銘血の繋がった家族を得ることができる。
そうしたら自分は、この真綿で首を絞められるかのような世界から、そっと去ろう。
これ以上は、苦しすぎた。
この想いは、消してしまうには育ち過ぎ、貫くには正しさが足りない。
そして、多くの人を、殊に最も大切な彼女を傷つける、あってはならない想いだった。
「一葉、ちょっと出かけてくる」
靴をとんとんと履きながら、ちらりと様子を伺う。
一葉は廊下の奥の扉から顔を出し、「行ってらっしゃい」と手を振った。
他愛のないこのやり取りが、永遠に続けば良い。
彼女の従姉妹の存在なんて、忘れてしまって。
そんな身勝手な考えが至極真っ当に思えるほど、槙は疲弊していた。
「行ってきます」
だからこそ、もう、これ以上こんな虚しい家族ごっこを続けるわけにはいかない。
――――……
雨の中見つけた藤泉院無月という女性は、話に聞いていた以上に、現実離れした女性だった。
彼女が生身の人間であることが、まるで神の過ちであるかの如く思えた。
雨粒を挟んで見つめ合う。
たったそれだけでひどく背徳的なことをしているような気持ちになった。
黒く透明な瞳はどこまでも純真で汚れなく、それでいて空虚で、逸らしてしまいたいのに、できない。
槙はその中に一葉の持つ輝きを見つけた。
間違いなく、彼女は一葉の血縁だった。
何故すぐに事情を打ち明け、二人を会わせなかったのだろう。
一葉に危険が及ぶかもしれないから。
確かに、当初はそれだけだったはずだ。それが身勝手な猶予期間へと変わっていったのは、一体いつからだったのだろう。
様子と頃合いを見て、なるべく自然に二人を引き合せよう。そんな建前から、槙は無月を呼び出した。
大学の文化祭では何もかもを珍しがり、出し物のお化け屋敷で飛び上がり、屋台のイカ焼きで目を丸くする。
そんな彼女は一葉と似ているようでいて、やはり全く違っていた。それなのに、いつしかそんな彼女自身を、もっとずっと深く知りたいと、願ってしまったのである。
一度、県を跨いで郊外へ地場産業の展示会に出かけたことがあった。
何かにつけて怖いもの知らずな彼女だったが、この日ははしゃいでいたのか日頃に輪をかけて警戒心が緩んでいた。重ねて、柔らかい笑顔が周囲の遠慮をも溶かしてしまっていたのだろう。
少し目を離した隙に、彼女は見知らぬ男に手を引かれて何処かへ行こうとしていた。
慌てて何処へ行くのかと止めると、心底不思議そうに首を傾げ、こうのたまった。
「近くにこの野菜が採れた畑があるから見に行かないかって」
思わず苛立ちのままに彼女の手を取り、真逆の方向へと引っ張る。
彼女はつんのめりながらも大人しく従った。
「無月、あいつが危ない奴だとは思わなかったのか」
「考え過ぎだわ、槙」
無月の困惑を感じ、槙は更に頭に血が昇るのを感じた。
「考え過ぎじゃない!無月、頼むからもっと自分を大事にしてくれ!」
そう感情のままに叫んだ瞬間、槙は悟った。彼女はもう、自分にとって一人の大切な女性になっているのだと。
そしてそれが、一葉への裏切りに思えてならなかった。
目の前の彼女が可愛い、愛おしい。きっとこの想いは偽物などではない。この想いに従えば、一葉への気持ちはいつしかありふれた兄妹愛へと変わるのだろう。
しかし、本当にそれで良いのだろうか。それは、二人に対して不誠実なのではないだろうか。
「槙、もしかして私のこと好きなの?」
茶化すように笑う無月に、槙は迷いを隠し、「大切な人がいるから今は他のことが考えられない」と何気なく答えた。
そのとき無月の見せた表情に、一つ槙の鼓動が脈打った。
槙が無月への想いを自覚するのとほとんど同時に、一葉もまた、兄の心情の変化を敏感に感じ取っていた。
それを認めてしまうのは、まるで胸を裂かれるかの如く痛みを伴うものだった。
しかしそれ以上に、彼女はほっとしてしまったのである。これで私たちは、道を踏み外さなくて済む、と。
そんな身勝手な心に気づいた一葉は、自分が恥ずかしくてならなくなった。
そんなきまり悪さを誤魔化すかのように、彼女は、兄の交際を応援することにした。
その応援を聞かされた槙の内心は、黒いとぐろを巻いた蛇を清らかな湖面に沈めるが如く、ただならぬものだった。
だが、それで踏ん切りがついたのもまた確かだった。
愛した人から別の女性を勧められる。
これ以上の虚しさはきっとないだろう。
不毛な葛藤はもうやめなければ。
「…無月」
彼女に会いたい。
会って抱きしめて、その目に問いたい。
この想いは真実のものだろうと。
例え今、他に心に残る存在がいたとしても、それはいつしか時とともに風化して、最後には無月への愛しさだけが残るのだろう、と。
二人の交際は、まるで少年少女の戯れのように清らかで、静かに相手を求め合う様は、鶴の番のようだった。
無月が何かに狙われることも、危険にさらされることも一度や二度ではなかった。二人の間を裂かんとする者は数え切れぬほどだった。
それでも槙は、その想いを貫きたかった。決して彼女の手を離すものかと、必死にもがいた。
二人は、確かに幸せだった。
しかし、ある日突然、無月は槙の前で初めて、悲しみと苦しみの涙を流したのである。
「槙、私幸せなの。毎日、もっともっと貴方のことを好きになっていく。でも、好きになればなるほど、悲しくて虚しくなるの。貴方が本当に愛している人は、その笑顔を向けられるべき人は、私じゃないでしょう」
槙は、呆然と無月を見つめた。
いつからだろう。いつから彼女はそんな苦しみを抱いていたのだろう。
何故今、それは違うと心の底から断言できないのだろう。
彼女が悲しんでいるのに。この手は、その肩を抱き寄せることもできない。
「…もう、ここへは来ないで」
結局、彼女を守ることはできなかったのだ。それどころか、いたずらに弄び傷つけただけ。
無月を愛していた。
家のことも妹のことも関係なく、ただただ彼女自身が愛おしかった。
それでも、一つ思い通りにいかなかったことがある。
どれだけ彼女と時を重ねても、どれだけ遠くへ出かけても、一葉が彼の心から消えて無くなることはなかった。
何を見ていても、まるで反射のように一葉にも見せてやりたいと思ってしまう。
遠く離れれば離れるほど、家に残してきた彼女が気にかかる。
睦み合っているときでさえ、脳裏を過ることがあった。
「ごめん」
蚊の鳴くような声だった。
それが精一杯だった。槙は溢れ出そうになる涙を堪え俯くと、二人でたくさんのものを揃え、過ごした部屋を後にした。
この恋はきっと初めから間違っていたのだ。
他に想う人がいながら、別の想いを貫こうとするなんて。なんて不実で滑稽なのだろう。
優しい人だった。その優しさにつけ込んで甘えて、都合の良いように利用して。
「…ごめん、無月」
どれだけ後悔しても、もう二度と、彼女の笑顔を取り戻すことはできない。




