槙と一葉―前編―
「ただいまー」
そう扉をくぐった瞬間に、懐かしい我が家の匂いに包まれた。
同時に、あの日々が脳裏に蘇る。兄の帰らない、たった一人、がらんとしたこの家で過ごしたあの日々。
しかし今日は、一葉が言葉を発するや否や、奥からバタバタと足音が聞こえてきた。
そして、やや乱暴に廊下の扉が開かれる。
「おかえり!一葉!」
おたまを片手に、エプロンを付けた槙は、慌てていたのだろう。廊下に点々と水が滴っていた。
そんな兄を呆れたように見ながらも、一葉は嬉しさを隠しきれずに笑った。
「ただいま、槙」
両親を亡くしたあの夏の日以来、二人は互いにたった一人の家族になった。互いを失えば天涯孤独。それが、良くも悪くも一葉の足を竦ませたのだった。
想像するだけで、真っ暗な闇に一人取り残されるかのような絶望を感じた。
だから、自身が抱いていた確かな恋心に蓋をした。
両親がいれば、相談することもできただろう。しかし、もはや彼女はその苦しい想いを一人抱え込むより他なかった。
友人に相談することもできただろうが、彼女にとって兄への想いは禁忌以外の何物でもなかった。そんな恐ろしい想いを、誰かに伝えることなどできるわけがない。
しかし、槙は、一葉の心に気づいていた。
何が変わったわけでもない。
ただ、彼女の心に重い鉛が沈んでいること、罪悪感を抱いていること、そして何より、それが自分のせいであることを、的確に感じ取っていたのである。
どうしてやることもできない。
彼女のことを思うなら、見て見ぬ振りをする他なかった。
しかし、道ならぬ想いに苦しむ彼女を、一人放っておくことなどできなかった。
自分もまた巧妙に隠れた同罪者だというのに。
一葉がその想いを自覚するずっと前、二人が出会ったその日から、槙は一葉に対し、若葉のような淡い恋心を抱いていた。とはいえ当時は子供。執着も欲もない、単純な可愛らしい好意であった。
そして恐らく、両親はその気持ちに気づいていた。
だからこそ、あれほど好き合っていた二人は、正式に籍を入れることをしなかったのだろう。
事に一葉の母、咲は、殊更槙を気にかけていた。
遠い遠い記憶の中、いつも冷たい目をしていた実の母親以上に、継母である彼女は、新たな愛息子をしっかりと見つめていた。
「槙くん、こっちにおいで」
そう言って、いつも遠巻きに彼女を見つめる槙を膝に抱いた。そして、大層大切そうにその頭を撫でる。
当時、槙はそれが不思議で仕方がなかった。
この女性は、何故自分の名前を呼ぶのだろう。腕に抱いてくれるのだろう。
冷たい一瞥ではない眼差しを、向けてくれるのだろう。
槙は、実の母親から暴力を受けていたわけでも、暴言を吐かれていたわけでもない。
ただ、大人になった今にして思えば、それは決して正常な環境ではなかった。
母と交わした会話が一言たりとも思い出せない。正面から見た顔が全く分からない。
過剰な関心が虐待であるならば、無関心もまた虐待であった。
槙の母親は、典型的なネグレクトだった。
両親がどういう経緯で別れたのかは分からない。
しかし、ある日突然父と二人暮らしをすることになった。
「お母さんを恨んでいるか?」
父は時折そう言って、まるで取り返しのつかないことをしてしまったかのような顔をした。
母は何も悪いことなどしていないのに、何故そんなことを聞くのだろう。
当時の槙には、分からないことばかりだった。
そしていつしか、そんな父にも心通わせる女性ができた。
いつも悲しげな表情を見せていた父が、その女性の前では、生き生きと話をするようになった。
元々誰にでも優しかったが、その女性に対してだけ見せる特別な優しさができた。
次第に、笑顔が増えていった。
幼い槙にも分かった。
父にはこの女性が必要なのだと。
共に住み始めるその日、槙がいつものように父親の後ろに立っていると、彼女はそっと屈んで目の前に赤ん坊に毛が生えたくらいの少女を差し出した。
「一葉っていうの。この子をお願いね」
お願い。お願いとは何だろう。
戸惑いながら、すやすやと眠るその子をじっと見つめた。
そっとその小さな手に触れてみる。すると、その子は静かに目を開いた。
じっとお互いに見つめ会う。
長い長い沈黙だった。それなのに、槙はその黒いきらきらとした瞳から、一瞬たりとも目を逸らすことができなかった。
ついに、ふにゃりとその子がしまりのない笑顔を見せる。
その日から、槙はこの小さな少女に縛られたまま、どこにも行けなくなってしまった。
――――……
この不毛な想いは、どこに向かうのだろう。
そんな風に思い始めたのは、両親を亡くし暫くした頃だった。
死後の煩雑な手続きを進めていく中で、両親が事実婚だったことを知り、あれだけ必死に隠し続けてきた妹への思慕が、実は筒抜けだったことに、どうしようもなく泣きたくなった。
普通の家族になれなかった申し訳なさ。後悔。
そして、それでもこの恋心を殺さずにいてくれた両親の愛情を思うとやりきれなかった。
もっと一緒の時間を過ごせば良かった。いつだって手を伸ばしてくれていたその手に、触れてみれば良かった。
一度だけでも、「母さん」と呼んでみたかった。
そのときになって、槙はあまりの恋しさに、初めて声を上げて泣いた。
「槙?」
学校帰りの一葉が、泣き崩れる兄に駆け寄る。
葬儀から今日に至るまで、このしっかり者の兄がこれほど取り乱すことはなかった。
スクールバッグを投げ捨て、蹲る体を抱きしめる。
槙は幼子のようにその手に縋った。
「……一葉」
「うん」
「…俺たちは、家族になれなかった」
「そんなことない!私たちは」
「俺たちは、兄妹だ」
「そう!母親は違っても、私たちは血の繋がった兄妹なんだから」
「…俺はそれが、苦しくて仕方がない」
遠くの方で、一葉の「え」と漏らした声がする。ぼんやりとした視界に、彼女の色をなくした表情が映った。
「…ずっと、ずっと、苦しかった」
何故、そんな傷ついた表情をするのだろう。
彼女は何に傷ついているのだろう。
自分は今、一体どんな表情をしているのだろう。
「……好きなんだ、一葉」
その瞬間、二人の間で何かが弾けた。
一葉はその表情を驚愕に変え、抱きしめていた腕が無意識のうちに降ろされる。
槙は、その腕を追うことができなかった。
初めて会ったときと同じ、長い長い沈黙が、再び訪れる。
しかしもう恐らく、あの頃には戻れない。
「……私たちは、たった一人の家族なの」
滝のように涙を流す彼女を見て、それが、彼女の下した結論なのだということを悟った。
「…分かった。一葉、悪かった」
そう言うと、槙は立ち上がり、玄関を出た。
泣きじゃくる彼女にかけるべき言葉が、今は何も出てこない。
十年以上もの間育ち続けてきた想いが砕け、体中に刺さったかのようだった。
彼女がそれを望むなら、自分は兄としてできる限りのことをするだけだ。しかしもう、元の形には戻れない。この体中の痛みが消えるまで、家族というあるべき姿には。
それならば、妹に、新しい家族を見つけなければならない。
どこにいるのか、そもそも存在しているのかさえ定かではない、咲さんの血縁者を探すのだ。
そうすれば、妹はもう、天涯孤独ではなくなる。
こんな張りぼての兄とではなく、その人たちと、幸せに暮らすことができるかもしれない。
きっとそれが、兄として、最後にできる唯一のこと。




