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芽生え


「それでは今日はここまでにします。レポートは来週の授業後に回収しますので、忘れずに持ってきてください」


 眼鏡をかけた穏やかそうな男がそう告げると同時に、生徒たちは次々と席を立つ。

 無月も取ったノートを纏めてしまうと、さっと立ち上がった。

 すると、先程まで授業をしていた男と目が合う。

 男はどぎまぎと視線を彷徨わせると、意を決したように近づいてきた。


「あ、あの、藤泉院さん」

「はい」

「わ、分かりにくかったところは、ありませんか?」

「大丈夫です」

「そ、そうですか……良かったです。三年生のこの時期から他学部に編入となると、やはり大変だと思います。何かあれば、すぐに言ってくださいね」


 真っ赤になって俯く男に、無月は曖昧に笑った。


「はい、お心遣いありがとうございます」


 校舎を出ると辺りを見回す。するといつものように、そこには颯馬が待っていた。


「颯馬さん」


 声をかけると、顔を上げ少しだけ手を振ってくれる。

 それを見ると無月は何故か安心する。何故なのか、それはまだ分からないのだけれど。

 

「帰りますか」


 無月が教師の道を志してから、颯馬は病院へ向かう道すがら、こうして大学に寄るようになった。

 初めは無月が颯馬の高校に押しかけていたのだが、無月が五度目のナンパに遭った時点で颯馬が根を上げた。


「何故迎えに来るんですか」

「一緒に帰りたいのだもの」

「病室で待っていてください」

「…嫌よ」


 こうして折衷案として、颯馬が迎えに来るようになったのである。


「今日で一月になりますか」

「そうね、もうそんなに経つのね」

「授業は追いつけそうですか」

「勿論追いつくわ」

「頼もしいですね」

「颯馬さんは?」

「俺は、今日進路相談がありました」


 その日あったこと、思うところをぽつりぽつりと伝え合う。そんな夕日色の爽やかな風がよく似合う帰り道だった。


「一葉さんと同じ二年生よね。もうそんな時期なのね」

「そうですね」

「どう答えたの?」

「……」

「颯馬さん?」


 ふいに立ち止まった颯馬に、無月も立ち止まり振り返る。なだらかに続く坂道の下から、颯馬は静かに無月を見つめていた。


「教師、と」

「え?」

「俺は、教師になりたい、と答えました」


 涼しい風が無月の背を押す。後ろ髪がはためき、肩に、胸にかかる。


「…颯馬さんは『先生』を恨んでいるのかと思っていたわ」


 何を尋ねるでもなく、無月はただそう不思議そうに呟いた。


「……恨んでいます。まともな奴は一人もいないと思っています。いえ、思って、いました」


 飾り気のない率直な物言い。彼は自分の心を冷静に分析して、その上で、一番分かりやすい形で無月に伝えようとしていた。


「でも、貴女が、貴女みたいな人が教師だったら、きっと俺は救われていた。そして、貴女は教師になると言う。恐らく俺みたいな奴を救うために。それなら俺は、ただ恨み通して終わるのではなく、俺自身の手で変えていきたい。俺の過去はもう変えられない。変えたいとも思わない。それでもこれから先の未来、こんな思いをする奴が、一人でも少なくなればいい。誰もが、平等に学び、楽しむことができればいいと思う」


 無月はじっと颯馬を見つめた。

 そう、彼の言う通りだった。彼の境遇を目の当たりにして、無月は衝動的に思ってしまったのだ。

 彼を救わなければ、と。

 どうしようもない憤りを感じてしまったのだ。

 彼を救える立場にいながら、何もしないどころか、嫌がらせに加担する教師に。

 無月が教師になりたいと思ったのは、こんな単純な理由からだった。あまりに幼い理由だった。

 それでもこの情熱は本物だった。

 学ぶにつれてその情熱は冷静な理解と合わさり、確かな覚悟として無月の核に根を下ろし始めていた。

 そして彼の瞳の中には既に、この覚悟がきらきらと瞬いていたのである。


「――それじゃあ、私たちは、ライバルね」

「はい、頑張ります。胸を張って隣に立てるように」


 これほど嬉しいことはなかった。

 強くしなやかで優しい、けれどいつも悲しいもやを胸に抱えていた彼が、悲しい過去も全て受け入れ、未来に羽ばたこうとしているのだから。


「あと一週間で一葉さんも蜜華も退院するでしょう?そうしたら、私一人で暮らしてみようと思うの」


 再び歩み始めた二人の影が、アスファルトに伸びる。塀の下をオレンジ色の猫がゆっくりと歩いていた。


「一度に頑張りすぎではないですか?」

「蜜華には反対されそうだわ」

「蜜華さんはきっとしないと思いますよ」


 そのとき隣を歩いていた猫が、にゃあと小さく鳴いた。そして塀の上に飛び上がり、すぐに見えなくなった。

 颯馬がその声に気を取られている間に、無月の携帯が震えた。

 何気なく確認すると、そこには「日向」の文字が。

 大抵の用は電話でさっと済ませる彼がメッセージを残すなんて珍しいこともあるものだと開く。

 そこにはただ二行。


――話がある。

  明日、もし空いていたら空港で会おう。


 飾り気のない懐かしい彼の声が頭の中で再生される。

 思わずふっと笑みが溢れた。


「どうしたんですか?」

「いえ、何でもないの。ただ」


 「ただ?」と聞き返す颯馬を背に、無月は目の前の坂道を軽い足取りで駆け登った。

 その背中は嬉しげで、楽しげで、少しだけ寂しげだった。

 そして彼女は坂のてっぺんから、街中に沈んでいく夕日をまっすぐに見つめ、微笑む。


「ただ、成人式の日取りが決まったみたい」


 落ち着いた声に何かを察したのか、後から追いついた颯馬は、何一つ追求しようとはしなかった。


「随分遅れた成人式ですね」

「――えぇ、随分、遠回りしてしまったわ」


 私達は。ねぇ、日向。

 無月は目を閉じると、もう一度強く微笑んだ。



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