春紫苑
空が、どこまでも、どこまでも広がっている。
淡く美しい空だ。
眼下には萌黄色の草原が広がり、見たことのない紫色の小花が揺れていた。
風が、吹き渡る。
感じたことのない爽やかな風だった。
髪の間を抜けていく。服をはためかせる。
その草原を抜けて丘を登った所に、夢にまで見た母の家があるらしい。
日向は静かに足を進めた。
不思議と心は落ち着いていた。
足取りは重くもなく軽くもない。
幼い頃は、母を恨んだ。
あの家に幼い自分をたった一人置き去りにした母を。
優しい瞳も、綺麗な声も、柔らかな手も、大好きだった。
だからこそ、そんな母に捨てられた事実があまりに悲しかった。その悲しみを憎しみに転化して、自分を守っていたのだ。
そして恐らく、幼い頃、無月の祖父母から、繰り返し聞かされた話が、思い込みを加速させていたのだろう。
藤泉院家の清宗は妻を手酷く扱い、その末死なせてしまった。今はその忘れ形見である無月のことも憎く思っているはずだ。
そして君の母上は、その清宗を大層恐れて、この国を去って行ったのだ、と。
疑いようもなかった。
庶子である自分が藤泉院家の当主と対等な会話を交わす機会など、皆無であった。
何より、それを裏付けるかのように、日向の父は何かを恐れ自室に閉じこもっているのだから。
何と、愚かだったのだろう。
自分がもっと早くに気づいていれば、無月があれほど傷つくことはなかった。あの家で日々を陰鬱に過ごす必要など、なかったのだ。
全てを知っているつもりでいた。
元より頭の回転も、記憶力も悪くはなかった。
情報網も張り巡らせていたつもりであったし、知っておくべき情報は、全て握っていると、そう確信していた。
そして、強大な敵と戦っているつもりでいたのだ。
倒すべき敵など、どこにもいなかったのに。
柔らかな土を踏み、さわさわと細い草の揺れる音に耳を澄ませているうちに、丘の中腹に至った。
見上げれば、頂に小さな小屋がぽつりと佇んでいる。何と寂しげなのだろう。
美しい草原の只中に、白い塗料の剥がれた小屋は、とても退廃的に見えた。
――――……
母が住んでいるという村は、鉄道さえ通っていない、国境に限りなく近い田舎であった。
空港から降り立ち、まずは比較的大きな街まで列車で移動し、それから、どう動けば良いか、暫し考えなければならないほどに。
結局、その街の観光事務局にいた親切な男が、乗用車とも言い難い厳つい車で送ってくれることになった。
言葉が通じたことが幸いしたのだろう。少しでも自分の中に、母の面影を残していたくて、二十一年間、ずっと続けてきた勉強が、ここで功を奏したというわけだった。
ガタガタと通常ではありえない揺れ方をする車の中で、現地の男に合わせてよく分からない歌を歌いながら、日向はただ、「帰りはどうするかな」とぼんやり考えていた。
村に着くと、男はまた陽気に引き返して行った。
別れ際の熱烈な抱擁で痛めた背中をさすりながら、鍛え方が甘かったようだとため息を吐く。
それから、村の中心地を目指した。
村とはいえ、そこは非常に小綺麗な所だった。道は真っ白な石畳みであったし、家々はそれぞれに淡い色を持ち、視界を美しく彩る。中心には小さな公園さえあった。一目で豊かな共同体なのだということが分かった。
「すみません」
そう、母の国の言葉で、道行く女に声を掛ける。
女ははっとし、すぐにうっとりとした顔で日向を見つめた。
「どうかしたの?」
「この村に、ジュリエッタ=デュボアという女性はいませんか?」
途端に、女の眉間に皺が寄った。
「何?貴方みたいな若い男もあの女の虜なわけ?」
「どういう意味だ」
予想もしない言いがかりに、日向の声にも棘が混じる。
すると騒ぎを聞きつけた住民達が集まってきた。
男達は仕事に出ているのだろう。皆女子供ばかりであった。
「どういう意味も何も、あの男たらしを探してるんでしょ?ばかばかしい。あんな女。一度この村を離れたくせに、都合良く戻ってきて。少し顔がいいからって」
更に言い募る女を睨みつける。
あまりの形相に、女は尻すぼみに黙った。
しかしあろうことか、周囲に集まった女達までもが、その女に同調し始めたのである。
「私たちは何も間違ってないよ。私の旦那もあの女に寝取られたのさ」
耳を塞ぎたいほどの雑音に、日向は、大きく一つため息を吐いた。
そして、小太りで気の強そうな女に、ただ一言問うた。
「彼女は、今、どこにいる」
喧々とした広場全てが、その声音で凍りついた。
――――……
「そうか…そう、だったのか」
一人歩きながら、呟く。
母は自分を捨ててただ一人心安く暮らしていたわけではなかった。
もはや味方など一人もいない祖国で、十年以上もの年月をどのように送ってきたのだろうか。
小屋が近づくにつれ、鼓動が速くなる。
母が、すぐそこにいるのだ。
幼い頃から、いつか迎えに来てくれるに違いないと信じていた母。
迎えになど来れるはずもない。この地は、彼女の息子が暮らすにはあまりにも酷だ。
扉を叩く。
立て付けが悪いのか、必要以上にがたがたと大きな音が立った。
それでも、母は出て来ない。
何か呼びかけたいのに、何と呼べば良いのかも分からない。
「母さん」
幼い頃のように、そう呼んでも良いのだろうか。
そのとき、背後でどさり、と音がした。
振り返ると、ボロボロのブリキバケツが転がっていて、地面には大きな染みが出来ている。
そこから、すらりと伸びる両足に、腰より更に下で揺れる長い長い金糸の髪、震える口に、優しげな眉、そして、何度も何度も夢に見た、空色の瞳。
「………日向」
聞き落してしまいそうなほどの、小さな声だった。
それでも、懐かしい母の声を聞き違えるはずがなかった。
「…日向…無事で良かった……」
帰れと言われるだろうか。迷惑そうな顔をされたら、どうすれば良いのか。
そんな不安で占められていた心が、嘘のように軽くなる。
二十歳を超えた男が、幼子のように抱き締められ、頭を撫でられ、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、日向はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
瞳から熱いものが込み上げ、喉が引きつる。
「…日向…ごめんね……ごめんなさい…」
謝らないでほしいのに、ただ首を振るだけで精一杯だった。
積もり重なった恨み辛みは、白い羽のように舞い上がり、透明な愛しさ、恋しさが降り注ぐ。
「母さん…」
もう二度と会うことはないのだろうと、心のどこかで諦めていた。
そんなことはどうでもいい。自分を捨てた者のことなど。ずっとそう思っていたのに。
そんなはずがなかった。
母を忘れられるはずなどなかったのだ。
強がり、自分自身に嘘をつき続け、無意識に自分の心を守ってきたに違いない。
無関心でいれば、傷付くこともない。
被害者でいれば、心はずっと楽な気がした。
そうすることで、ずるずると心が擦り切れてきたことにも気づかずに。
もっと早く、素直になれば良かった。
もっと早く、母を探し出していれば。
「母さん、帰ろう。家に帰ろう。父さんも、待ってる」
ずっと、夢の中で言い続けてきた言葉だった。
頭の中で、幾度となく見続けた夢が再生され、これが夢か現か分からなくなる。
「…母さん、付いてきてくれ。まだ一人で父さんに会う勇気が出ない。俺じゃだめだ。母さんじゃないと、だめなんだ」
打ちひしがれ光を失い、老いた父に向き合う勇気が、どうしても出ない。そんな父は見たくなかった。
心のどこかで、父が悲嘆の淵にいるのは自分のせいだと、思っているからかもしれない。
「そう、そうね…」
ジュリアは腕の中の息子をさらに強く抱きしめた。
「日向、たった一人で、全てを守ってくれていたのね」
愛する人と息子を残し、この地に逃げ帰ってからの生活は、それほど辛いものではなかった。
ただ、ぼんやりと朝日を浴び、ささやかな食を摂り、夜風に吹かれ浅い眠りにつく。その繰り返し。
自分が本当に生きているのかさえ分からなかった。
それでも命を捨てられなかったのは、この世に未練があったから。
苦難を承知で妻に迎えるとさえ言ってくれた、あの懐かしい人。
そして、彼との間に授かった、宝物のような息子。
幸せだった。
彼となら、永遠さえ生きられる気がした。
だからこそ、彼には、幸せになってほしかった。
誰もに認められる結婚をして、沢山の親族の中で、あの太陽のような笑顔で、笑っていてほしかった。
自分では、駄目だった。
家柄も、教養も、見た目さえ、彼には相応しくない。周囲の反発は当然だった。自分のために、彼が神経をすり減らしていくことに、あれ以上耐えられなかった。
そうして、とうとう逃げ出してしまったのだ。
彼の娶るであろう女性が、日向を慈しんでくれることを信じて。
体温の低い、息子の手を取る。
そして、紫の花の咲き乱れる草原に、一歩踏み出した。
元より、持ち出さなくてはならない荷物などありはしない。
必要なのは、この身一つだけだ。
行かなくては。
助け出さなくては。
深い暗闇に取り残された彼の人の元まで、ただ、まっすぐに走っていこう。
その手を取るとき、彼は、何と言うだろうか。
驚くだろうか。
詰るだろうか。
いや、彼はそんな人ではない。
心配になるほどに、優しい人だ。
願わくば、ただ一言、「おかえり」と言ってほしい。
そうしたら、懺悔も謝罪の言葉も、全て飲み込もう。
そして、一番の笑顔で言うのだ。
「ただいま」と。




