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金色の瞳

 テラスから、白く冷たい室内に夕日のぼんやりとした光が差し込む。淡い赤色に染まった部屋の中で、無月と日向は向かい合わせに座っていた。

 伊勢すら退室してしまったこの部屋は、ただただ広い屋敷の中で、しんと静まり返っている。

 無月は、紅茶をかき混ぜながら、その水面をじっと見つめた。


「今日は、驚いたわ」


 ぽつりと、無月は言葉を零した。


「今までお芝居のお仕事しか受けてこなかったのに」


 日向は、「あぁ」と視線を落とし、何かを誤魔化すかのように笑った。


「もうそろそろ、サービスを覚えた方が良いんじゃないかと思ったんだが」

「私のせいなの?」


 いつになく、厳しい声が出た。作り物のような精巧な瞳が、日向をひたと見つめる。

 日向は、一瞬言葉を失ってしまったかのように黙ったが、すぐに、「それは違う」と打ち消した。


「俺の欲だよ。もっと有名になりたい。ただそれだけ」


 無月は、ただ、「そう」と頷いた。

 日向が何を隠していても、彼が言いたくないことならば、強いて暴く必要はない。いや、それはただの言い訳だった。彼が隠しているものを覗き込もうとすると、足が竦んでしまうのだ。

 何を恐れているのだろう。日向に対する罪悪感だろうか。これまで全てを日向に背負わせてきた自分に対する失望。しかしそれならば、すぐにでも、日向の重荷を共に背負わなければならないのに。


「それはそうと、無月、透の誕生会のことは聞いてるか?」


 話題を変えようと、日向は押し黙ってしまった無月に問いかける。無月は、また踏み込む機会を逃してしまったと悔やむ反面、内心ほっとしている自分を認めないわけにはいかなかった。


「えぇ、再来月でしょう」

「一緒に行くだろ」

「もちろんよ」


 このような会ではいつも、無月のエスコートは日向が務めた。そのため今や二人の仲は暗黙の了解とされているが、しかし無月にはそんなつもりは微塵もなかった。日向と自分が共にいるのは、とても自然なことで、むしろ離れることにこそ、理由が必要なのだ。

 離れることと言えば、と無月は日向の撮影に思い至る。


「日向、ロンドンでの撮影はどうだったの?予定より帰ってくるのが少し早かったから…」


 何となく、声に荒寥とした響きが混じった。会えなかった半年間の哀切が混じっているのだろう。無月にとって、日向と会えない時間は、真っ白の世界に一人取り残されることと、ほとんど同義だった。

 いじらしさに耐えかね、日向は目線を手元の紅茶へ落とす。


「寂しかったか?」


 わざとにやりと笑ってみせると、不意をつかれた無月は、途端にむっとした顔をする。


「いいえ。私には密華がいたもの。日向こそ、実は一人で寂しかったんでしょう?」


 日向は、「ははっ」と乾いた笑いを漏らした。

「寂しいもんか。俺にとっては半分里帰りみたいなもんだ」


 紅茶を飲んでいた無月は、はっとすると、ちらりと日向を盗み見た。

 しかし日向はいつものように、飄々と寛いでいる。

 俳優である以上、日向が撮影で海外へ赴くことは、決して少なくない。ある種の傍若無人さを合わせ持つ彼ではあるが、仕事に対して文句を言うことは、一切なかった。だが、無月は知っていた。欧州へ赴くことが決まるといつも、日向は思い詰めた顔をしている。

 その表情は、何を表しているのだろう。遠い異国の母への、恨みだろうか。それとも、愛しさだろうか。


「無月?」


 はっと、無月は顔を上げた。じっと見つめていた紅茶が、手の中ですっかり冷めてしまっている。


「眉間に皺が寄ってたぞ」


 そう言うと、彼はすっと腕を伸ばして、無月の額を小突いた。

 とんっと、思いの外強く突かれ、無月は額を押さえる。


「痛いじゃない!」


 言うが早いか、すぐに反撃しようと身を乗り出した。しかし、無月が腕を出す前に、日向はその手首を掴んだ。

 バランスを崩し、正面の机に倒れ込みそうになる無月。それを、日向は、何でもないことのように受け止めた。

 ふわりと、彼の香りに包まれ、無月はさっと頬を染める。


「ひ、日向?どうしたの?…こんなの、全然日向らしくない」


 日向は、喉の奥で笑った。その瞳に、微かな苛立ちが瞬く。


「俺らしいって何だよ」


 その平坦な声に、無月は身を強張らせた。


「だって、日向、日向はいつも…」

「いつも飄々として、何ものにも執着しない」


 無月の言葉を引き受けて、日向は吐き棄てるように続ける。


「…そ、そうよ」


 日向は、無月の肩を掴むと、正面から向き直った。


「これが、そんな男の顔に見えるか」


 強い光を秘めた金色の目に吸い込まれ、二の句が継げず、無月はただ、呆然とする。

 こんな彼は見たことがない。

 欧州むこうで何かあったのだろうか。

 それとも、槙のことが、気掛かりなのだろうか。


「日向、私、槙とは別れたのよ」


 やっとのことでそう告げるも、日向は「あぁ、知ってる」と全く取り合わない。

 再び無月を抱きしめると、その首筋に頭を埋めた。

 こうしていると、幼い頃を思い出す。しかし、あの頃、涙を流し、縋っていたのは無月の方だった。辛いときも、悔しいときも、常に日向は側にいた。日向の春の陽のような香りは、無月にとって、母親の香りと同義なのかもしれない。


「…日向、私たちは、いつまでもずっと一緒よ」


 肩口からくぐもった声が出た。日向は、「あぁ」と呟くと、そのままそっと目を閉じた。

 日向の鼓動が、無月に伝わる。限りなく静かなときが、二人の間に流れた。

 こんなに穏やかな時間は、久しぶりだった。しかし無月は、どうしてか僅かなきまり悪さを感じた。これまで日向の側で、これほど落ち着かない思いをしたことがなかったからかもしれない。

 何でも良いから話題を、と考えを巡らせると、ちょうど先ほどあった出来事が浮かび上がってきた。一二もなく、それを話題に選ぶ。


「日向、槙とは別れたのだけれど、さっき、空港で、彼の妹さんに会ったのよ」


 途端に、日向は顔を上げた。


「空港で?」

「私を探していたらしいわ」


 日向の表情が、みるみる怪訝なものとなる。


「よりを戻せと言いに来たのか」

「…私と別れてから、家に帰らなくなってしまったのですって」

「無月は、どうしたい」


 潤んだ瞳が、ゆらゆらと揺れる。


「戻りたいのか」

「いいえ」


 彼女がゆるゆると首を振るたびに、夜空を映した川のような髪が、しゃらしゃらと流れた。


「戻れないわ」


 再び、日向は怪訝な顔をした。


「…槙と一葉さんのご両親は、既に亡くなっているの。二人は、この先も、二人で生きていかないといけないのよ」


 日向は、無月のこんな泣き出しそうな顔を見るのはいつ振りだろうか、とそんな場違いなことを考えていた。


「一葉さんに会うのは、今日が初めてだったの。でも、どうしてなのか分からないのだけれど、私、彼女を放っておけない」


 真珠のような肌に、一筋の涙が伝った。


「私、一葉さんの側で、彼女の力になりたいの」


 日向は、一瞬、頭が真っ白になってしまった。

 今、無月は何と言った。何故かつての恋人の妹など。気にかける必要性が、全く分からなかった。

 だが、日向はすぐに、淡く微笑んだ。無月の頭に、そっと手を乗せる。


「新しい友達ができたんだろ。よかったじゃないか」


 その言葉に、無月はゆっくり目を見開いた。


「難しく考える必要はない。友達として、彼女を支えてあげればいい」


 そして、日向はそっと無月を抱きしめた。無月から日向の表情を伺うことはできない。日向が今、どれほど冷静な顔をしているかなど。だから、無月は安心して、日向にその身を任せた。

 彼は、無月の体の力が抜けるのを感じると、その耳元にそっと囁く。


「無月、明日から数日、空いてるか」


 無月は、何を言うのだろうと思いながら、条件反射で頷いた。日向は、まるで、幼子のようだと苦笑しながら、それは自分のせいなのではないかという疑念に、自嘲した。


「事務所から纏めて休みを貰ったんだ。成宮の会の準備に追われる前に、一度、旅行に行こうと思って」


 無月は、さっと日向の顔を覗き込んだ。


「事務所が、そんなに長く休みをくれたの?」


 日向は、「仕事を詰めてきたからな」と笑う。すると無月は、大輪の百合が花開くように笑った。


「日向!」


 そう言って、幼い頃のように抱きつく無月を窘めながら、日向は共に笑わずにはいられなかった。


「明日の朝迎えに来る」


 日向は無月の唇を、指先でそっと撫でる。無月はまた言いようのないきまり悪さに、そっと目を伏せた。

 そうしている間も、日向は考える。

 深草ふかくさ一葉いちよう。この旅の間に、彼女について調べさせる必要がある、と。そしてもし、無月に害を為す存在であったとしたら、自らも心を殺さなければならない。

 これまで、ずっと、そうしてきたように。

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