氷解―後編―
一日だって、息子の存在を忘れたことはなかった。
四月になり桜を見れば、幼稚園に通うことさえできない子を想い、悲しみが込み上げ、十二月になれば、愛しいあの子の元にサンタは来るのだろうかと、居た堪れない気持ちになる。
それは、一月も、二月も、三月も、同じことだった。
日々の小さなことが、どうしようもなく気にかかり、すぐに自分に案じる資格はないのだと打ち消す。
しかし、いくら打ち消したところで、見たこともない息子の幻影は、四季にあった。
両親に息子が無事に産まれたことを聞いたその日から、誕生日には、ささやかなケーキを用意し、小さな蝋燭を灯し続けてきた。
再来月には、五歳になるはずだ。
今年もまた、五本の蝋燭を買う予定だったのだ。
それなのに、こんなことがあるだろうか。
目の前に、幻のようだったその子が、座っているだなんて。
茶色い巻き毛に、同じく茶色い真ん丸な瞳を、更に丸くしてこちらを見つめている。
その姿に自分に似たところはあまりない。それなのに、一目で、この子は自分の息子なのだと分かった。胸が熱くなり、仕様がなかった。
言葉を発したいのに、喉の奥がつかえて、音が出てこない。
皿のように目を見開いたこの子は、今、何を考えているのだろう。
「光、ほら、立って、ご挨拶は?」
母親の言葉に、光は戸惑ったように立ち上がり、それから、伺うように藤子を見た。
「でも、お母様、お父様には絶対話しかけちゃいけないって……見つかりそうになったら隠れなさいって言ってたのに…お父様にご迷惑がかかるんじゃないの…?」
透は、何と言えばいいのか、分からなかった。
触れることも、言葉を交わすことも、視界に映ることさえ許されない。そんな父親を、この子はずっと見守っていてくれたのだ。
こうして会えたところで、どうして会ってくれなかったのかと責めるより先に、迷惑になりはしないかと案じてしまう。
それが、たまらなく愛おしく、悲しかった。
どうすれば、この子を安心させてあげることができるだろう。
どうすれば、この胸に積もり重なった愛情が伝わるのだろう。
「――光」
目の前の我が子に向かい、その名前を呼ぶことができる。
それが、これほど幸せなことだったとは。
一音一音が、まるで宝物のようだった。
「お父様も、ずっと、光のことが、大好きだったんだ」
じっと正面から見つめる視線が、とても眩しい。
「今日から、私も、光と、お母様と、一緒に暮らしていいですか?」
光は、母親の方を見た。これまでもずっとそうして、これは言ってもいいことなのか、確かめてきたのだろう。
藤子が頷くと、光は花開くようにはにかみ、元気よく頷いた。
「うん!いいよ!」
本当に分かっているのだろうかと疑いたくなるほどに、晴れ晴れとした返事だった。
いや、もしかしたら分かってはいないのかもしれない。しっかりしているようで、まだ、五歳なのだ。
「……お母様と、光と、私と、三人で、暮らしていきたいと思っているんです。この先、ずっと。光は、それでもいいんですか?」
光は、少し首をかしげると、はっとしたように藤子を見た。
「僕は、そうしたいと思ったんだけど、お母様は、それでもいい?」
藤子はゆっくりとしゃがむと、ふわふわとしたその髪を撫でた。
「光、お母様には、気を遣わなくていいって、いつも言っているでしょう。あなたの思うようにお返事しなさい」
今まで見たことのない藤子の顔に、透は内心どきりとした。
強く、優しく、温かい。それは、まごうことなき母の微笑みだった。
やはり、全て杞憂だったのだ。
彼女は決して弱くなどない。
慣れない環境のもと、口さがない者も多い中、彼女はたった一人で母親になり、息子をここまで育て上げてくれた。
並大抵の苦労ではなかったに違いない。
しかし、こんなにも真っ直ぐに育った息子を見れば、彼女がどれほどの愛情をもって、息子を育んできたか、否が応でも分かった。
「――お父様」
ぶれることのない透明な瞳に射抜かれ、透は息を飲んだ。この子に父と呼ばれるだけで、こんなにも、胸が満たされる。
「僕も、お父様と一緒に、暮らしたいです」
その声に、微かに涙が混じり始める。それを必死で押し留めようとする息子に、喉の奥に込み上げてくるものを感じた。
「……どうしてですか…今まで、会いに行かなかった私に、迎えに行けなかった私に、怒ってはいないのですか。どうして、私を父と呼んでくれるのですか」
透は、力の抜けた膝をその場につき、光を覗き込んだ。
そして光もまた、小さな頬を大粒の涙で濡らしていた。
「だって、僕のお父様は、お父様だけだから。怒ってなんて、いません。お父様はずっと、僕たちを守ってくれていたんだって、僕は、ちゃんと知ってます。お母様が、いつも言っていました。お会いしてみれば分かる、お父様は、まるで王子様みたいな方だって」
藤子は、わずかに染まった頬を、涙を拭う振りをして隠した。
「ずっと、会えなかったけど、僕は、お父様が大好きです。だから、ずっと、一緒に暮らしたいです」
もう、限界だった。
持てる限りの言葉を使って、何とか目の前の哀れな男を慰めんとするこの子が、どれほど愛おしいか。
この溢れ出さんばかりの感情を、この子に、見せることができたなら。
透は、その小さな小さな手をつかみ、力いっぱい抱きしめた。
どこか爽やかな甘い香りのするその子は、腕におさめると、見た目以上に小さく、温かく、柔らかかった。
こんな力で抱きしめては怪我をさせてしまうかもしれないと思いながらも、透は力を緩めることができなかった。
そして光もまた、父の白いシャツを、強く握りしめていた。
「長い間、寂しい思いをさせてしまって、すみませんでした」
そう、いくら謝っても詮の無いことを口にすると、光は腕の中で精一杯首を振った。
「男の子なので、平気です」
透は涙を流しながら笑うと、その頭を抱き込んだ。
「…私は、寂しかったです」
すると、光は涙に濡れた顔をくしゃくしゃにして、縋り付いた。
「やっぱり、僕も、寂しかったです…お父様ぁ…」
初めて触れる父に優しく頭を撫でられ、光は、泣き疲れた頭でこれは夢なのかもしれないと思った。
事実、これまで何度も見続けた夢そのものだったから。
しかし、優しく笑いながら父ごと抱きしめてくれる母の匂いは、やはりいつもと変わらぬもので、どうしても夢とは思えない。
ただただ、目が覚めたときに父が消えていないことを願いながら、光は重たくなった瞼を閉じた。
その先一週間もの間、透が仕事を全て休み、片時も離れず二人の側にいようとは、そのときの光には、想像することさえ、できなかったのだ。




