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氷解―中編―


 二人が部屋を出ると、そこには入院しているはずの蜜華と、無月がいた。

 初めて無月を目にした藤子は勿論のこと、透までもが、驚きに目を見開き、二人の少女を凝視する。

 すると、無月が一歩、前に出た。


「どうしたの。幽霊でも見たかのような顔をしているわ」

「どうして無月さんがここに…?」


 うわ言のように呟いた透を、無月はじっと見つめた。


「今日、貴方が彼女の罪を問いに行くと聞いて、便乗してしまおうと思ったの」


 途端に、透の顔が絶望に染まった。

 眼前の麗人は、咎人の罪を問いに来たのか。そうなってしまっては、この命を以ってしても、彼女を守ることはできない。どれだけ泣き叫ぼうと、藤泉院家の意向は、絶対なのだから。

 言葉を失った透から視線を外し、無月は藤子に向き直った。


「貴女が、山内藤子さんね」


 名を呼ばれ、藤子は頭を下げた。


「はい、藤泉院無月様」


 その場にいた全員の予想に反して、彼女の声には怯えも恐れも、滲んではいなかった。

 纏う雰囲気さえ、静かに落ち着いている。


「透には、真実をすべて話したの?」

「はい」

「それで、彼は貴女の罪をどうすると?」


 藤子が口を開く前に、透がその前に立ちはだかった。


「無月さん、彼女は罪なんて…」


 しかし、そんな透を、藤子は静かに抑えた。


「透様、私には確かに罪があるのです。ですから、これは私が申し上げなければなりません」


 その目は、かつての優しさを湛えたまま、奥底に揺らがぬ決意を備えていた。


「無月様、私は、罪を犯しました。確かに、私は今回のことを清和に指示した覚えはありません。しかし、彼が、私に並々ならぬ感情を向けていたことには、気づいていたのです。気づいていながら、その感情を軽視し、見て見ぬ振りを続けた結果、このような事件を招いてしまいました」


 無月は、静かに頷く。

 それに促され、藤子は更に口を開いた。


「無月様は勿論、蜜華様、日向様、透様、それに、何より無月様のご友人である深草一葉様と槙様には、重く、深い傷を負わせてしまいました。本当に、申し訳ございません。一歩間違えれば取り返しのつかない事態に至っていたかと思うと……何とお詫びすれば良いのか、言葉もございません」


 そこで、僅かに藤子の声が揺れた。

 最悪の事態を想定し、恐れずにはいられなかったに違いない。


「償いきれない程の罪です。どんなことをしてでも贖わなければなりません。ですから、どうかお言い渡しください」

「藤子さん…!」


 限界だとばかりに、透が声を荒げた。

 しかし、尚も藤子はそんな透を制した。


「ただ、一つだけ」

「何かしら?」


 無月は、いつもと変わらぬ調子で首をかしげた。


「もし、この先生きていくことをお許しくださるのであれば、どうか、お願い致します。透様のお側で生きていくことを、お許しください」


 その声は、僅かに涙に濡れていた。

 思いの丈が、その短い言葉に、全て、込められていた。

 あまりに真摯な瞳に、無月は、とうとう耐えきれぬとばかりに、口元を緩ませ、そして、そのまま笑い始めた。


「無月様、あまり意地悪をするものではありませんわ」


 見かねた蜜華が口を挟む。

 すると、無月は笑いながら、「そうね、悪いことをしてしまったわ」と頷いた。


「藤子さん、私は、貴女の罪を問うつもりはないわ。ただ、この先貴女が私たちと共に、この世界で生きてくれるのか、透を隣で支えてくれるのか、それだけを尋ねに来たのよ」

「どういうことですか…?」


 あまりに予想外な言葉に、先程まであれほど堂々としていた藤子が見るからに動揺していた。

 隣にいる透も、同じように驚いている。


「今、私には目標があるの」

「目標……」

「そう。この世界では、前代未聞の目標よ。そのために、私たちの世界は揺れて、そのまま激動の時代が来てしまうかもしれない」


 藤子は、先ほどまで困惑していたのが、嘘であったかのように真剣に聞き入っている。

 その目標が何であれ、起こるべき事態は、あらかた想像することができた。つまりこの先、既存の価値観を覆す何かが起こり、それに各家が反発し、社交界が荒れると言いたいのだろう。


「でも、私はこの目標を捨てるつもりはないわ。どちらにしても、あの家は、あの世界は、このままではいけないと思うの」

「…目標を捨てるなんて、とんでもありません」

 

 反射的に、藤子はそう口にした。

 真剣な瞳の中に、確かに、若い夢見る力を見たからだ。

 彼女は、誰もが見て見ぬ振りをしている現実を、ありのままに受け入れて、そして、それを何とかしようと、一人立ち上がろうとしている。

 ずっと先の未来を見据え、暗闇の中に一歩を踏み出そうとしている。

 若さ故の愚かさだと笑う者もいるだろう。

 余計なことをと憤る者もいるだろう。

 しかし、そんな者達のために、一歩を恐れる必要はない。

 夢を持つということは、それだけで、得難い宝物なのだから。


「…私には、その世界の間違いも、変えていくべきところも、正直なところ、まだ分かりません」


 藤子は、慎重に言葉を選びながら、しっかりと無月を見つめた。


「それでも、透様がいつも消耗して帰って来られていたのは知っています。私は、皆様が生きるその場所が……これからは、私も我が子を抱いて生きていくその場所が、心やすい場所であってほしいと、願っているのです」


 透は、そっと視線を落とした。

 彼女の前では常に気をつけていたつもりだったのだが、やはり悟られていたのだ。

 分かっていながら、彼女は気づかぬふりをして、日々他愛のない話に付き合ってくれていたのか。


「何の力もない私に何ができるのか、とお思いになるかもしれません。ですが、私も覚悟を決めております。これからは、私もできる限りのお力添えをさせていただきます」


 まるで、夢物語だ、と透は思った。

 あのどうしようもない世界を、本当にどうにかできるのだろうか。

 それでも、静かに決意を語る無月と藤子を見ていると、何故か何とかなりそうな気がしてくる。

 変えていくことが、できる気がする。

 否、変えなければならないと、力が湧いてくる。

 とうとう、透も静かに微笑んだ。


「――私も、無月さんの意向に従います。その夢のような未来に、私も、賭けてみたくなりました」

「…ということは、無月様のご意向は、成宮家の総意ということになるわね」

 

 それまで黙っていた蜜華が、いたずらに笑い、透と藤子の手を引いた。


「あっちで光が待ってるわ。お兄様、早く行って差し上げて」


 その瞬間、透の肩が強張ったが、蜜華は構うことなく二人を引っ張り、そのまま次の間へと押し込んだ。


「……蜜華、少し性急というか、強引だったのではない?」


 心配気に閉まった扉を見つめる無月に、蜜華は首を振った。


「無月様が思っていらっしゃる以上に、お兄様は臆病なのですわ。我が子に合わせる顔がないなんて言って、また拗れてしまう前に、勢いに任せてしまうに限ります」


 そう言って、蜜華は腕を組んで、扉の向こうの兄を睨んだ。

 本当に、兄の臆病さには辟易するほどだ。そのくせ、恐れも悲しみも隠そうとするのだから、なおたちが悪い。


「私はもう、大切な人の悲しい顔は見たくないのですわ。勿論無月様、貴女様の悲し気なお顔も、もう、結構ですわ」


 いつになく強気な蜜華の言葉に、無月様は一瞬目を見開き、それから、心底嬉しそうに笑った。


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