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佐月のパン

 佐月の営むパン屋は、商店街の外れに佇んでいた。

 颯馬が夕日に照らされた小さな扉を押すと、ぎぎぎと音が鳴り、中からふわりと美味しそうな香りが流れ出てくる。

 店内にはほとんど商品が残っておらず、レジも無人になっているが、奥の方から水道の音や人の動く気配が確かに伝わってきた。


「佐月さん」


 颯馬がそう呼びかけると、ばたばたと足音が聞こえ、「お!?」と佐月が顔を覗かせた。


「表から来たのか?てっきり裏から入ってくるものだとばかり思っていたんだが」

「表が開いてたので」

「本当か!」


 佐月は扉を確認すると、「あー、閉め忘れてたか。危ねぇ、レジの金盗られるところだった」と笑った。


「笑いごとじゃないですよ。夏希に言いつけますよ」

「それは勘弁してくれ」


 ははは、と笑うと、颯馬の隣でどきまぎしている無月に視線を向けた。


「いらっしゃい、無月さん。ほんっと、今日もびっくりするほど綺麗だな。包帯はもう外して大丈夫なんですか?」

「息をするように口説かないでください」


 そういうと、颯馬は店の奥に我が物顔で入って行った。荷物を置きに行ったらしい。


「おい、誤解を招くようなこと言うなよ。無月さんに警戒されたらどうするんだ」

「されたらいいんですよ」


 にべもなく返され、佐月は肩を落とした。


 公式な場で交わされる、様々な思惑の入り混じった讃美の言葉なら、無月もさらりとかわすことができる。しかし、こんな、何の他意もない賞賛に、どう返せばいいのだろうか。

 無月の困惑に気づいたのか、佐月は「本当に違いますからね」と先ほどより幾分穏やかに、おどけて笑った。


「さぁ、手狭な所ですけど、どうぞどうぞ」


 そうして、何のためらいもなく無月の手を引く。

 促されるままにレジの横を通り抜け、そこを左手に折れる。しばらく進むと、右手に部屋があった。

 麻色の暖簾をくぐり中に入る。

 すると、部屋の中では既に颯馬が茶を淹れていた。


「本当に勝手知ったるだな」


 そう言って苦笑すると、佐月は流しの横の棚からトレイを取り出した。

 そこには、たくさんのパンが綺麗に並べられている。


「…こんなにたくさん」


 無意識に溢れた呟きに、佐月は「たくさん食べてください」と笑った。

 そのまま勧められた椅子に座り、颯馬の淹れてくれた茶を飲む。

 部屋はこじんまりとしていたが、とても温かく、何故か懐かしい香りがした。

 花柄のテーブルクロスは少しだけ日に焼けてくたびれていて、冷蔵庫の上に乗った電子レンジは、所々に傷や汚れが見える。

 戸棚には白いレースが掛けられているが、中に急須や茶筒が入っているのが分かった。

 流しの正面にある窓から夕日が射し込み、そんな部屋全体をぼんやりと柔らかく照らし出している。


 無月は、今自身の暮らしている部屋を思った。あの、大理石をくり抜いて作り出したかのような、だだっ広い部屋を。

 白く、冷たく、清廉なあの部屋を。

 染み一つないあの部屋は、確かに清潔で美しい。整っていて、欠けているものも、足りないものも、恐らく何一つない。

 しかしそれでも、不思議なことに、この部屋の方が、余程満たされているように感じられたのだ。


 そしてそれは、佐月の作ったパンにも言えることだった。

 日頃食べているものは、間違いなく上質の小麦を使用した屈指の職人によるものなのに、今、この部屋で食べる少し冷めたパンは、これまで食べたどんなパンより美味しかった。


「…美味しい」


 無意識に溢れた呟きに、佐月は心底嬉しそうに笑う。


「当然です」


 胸を張る佐月を、颯馬が小突いた。

 その親しげな様子が、大人びた颯馬を、年齢相応に見せる。落ち着いているけれど、彼はまだ高校生なのだ。

 途端に、先ほどの出来事を思い出す。

 あのことを、佐月は知っているのだろうか。

 それとも、颯馬は隠しているのだろうか。

 無月が思案したその一瞬を、佐月は見逃さなかった。


「どうしました?」


 まさか指摘されるとは思っていなかった無月は、明らかに動揺した。

 何か言わなければと思うのに、咄嗟に言葉が出てこない。

 颯馬が隠しているのなら、余計なことは言わない方が良いに決まっている。

 否、本当にそうだろうか。良識ある大人として、そして、友人の友人として、助けになれることがあるのなら、手を取るきっかけを作るべきなのではないだろうか。

 自身が良識ある大人だとは、とても、思えなかったけれど。


「あの……」


 言いづらそうな無月の様子に、颯馬は何かを察したのか、突然目の色を変えた。


「無月さん、余計なことを言わないでください!迷惑です!」


 そのあまりの剣幕に、無月は勿論のこと、佐月までもが息を飲んだ。

 当然のことながら、無月はこれまで、こんなふうに怒鳴られたことなど、なかった。燃え滾る熱量を宿した目で、真正面から睨みつけられたことも、ない。

 これほど真っ直ぐに遠慮のない感情をぶつけられたことなど、なかったのだ。

 知らず、瞳の奥から涙が溢れてきた。

 驚いたのか、悲しかったのか、それは無月にさえ分からなかった。

 泣くのはいつ以来だろう、と冷静な自分がぼんやりと考えている一方で、それでも涙は止まらない。

 突然泣き出した無月に、颯馬は目を見開き固まっていた。

 何か言葉をかけなくては。

 そう思うのに、何故か無月の涙を見ると、まとまりかけていた言葉が霧散してしまう。


「……っくそ」


 結局、そのまま鞄を引っ掴んで、去ってしまった。

 一拍遅れて廊下の向こうから、裏口の閉まる音が響いた。

 呆然と成り行きを見守っていた佐月だったが、その音にはっとしたのか、急いで箪笥からハンカチを取り出し、無月に持たせた。


「無月さん、大丈夫ですか?」


 何度も頷く無月に、佐月は困ったように頭をかく。


「すみません、俺もびっくりしてしまって。颯馬のことは、それこそあいつが赤ん坊の頃から知ってるんですけどね、あんなに自分の気持ちを爆発させてるところを見るのは初めてで」

「……私が、悪いことをしてしまったのね」

「ちが…そうじゃないんですよ、多分」


 俯く無月の頭を、佐月は慣れた手つきで何度か撫でた。


「颯馬の事情は、俺も夏希も一葉ちゃんも、皆知ってるんです」


 無月は、思わず顔を上げた。

 知っている?そんなはずがない。それならば、何故彼はあれほどその話題を嫌がったのか。何より、何故誰も彼を助けないのか。

 無月の疑問は、全てその表情にありありと表れていて、思わず佐月は苦笑した。


「俺たちには、颯馬も割と気軽に話してくれるんですよ。ただ、手出しはさせてくれないんですよね」


 なるほど、身内には話しているのか。

 それを聞いて、無月はほっとするような、少し寂しいような、妙な心地がした。

 しかし、そんなことは、今はどうでも良かった。

 

「手出しはさせてくれないって…でも、多少無理にでも周りの大人が先生にかけ合えば…」

「その先生もグルになってあの子を虐げているのに?」

「それなら、そんな学校なら、やめてしまった方が…」

「どこへ行っても、変わらないんですよ。学校を変えても、あの子の姉さんたちは変わらないんです。すぐ噂になって、また同じことの繰り返しだ」

 

 どこか遠くを見つめて、佐月は笑いながらため息をついた。


「俺たちだって、手を尽くしたつもりです。それでも、何も変わらなかった。とうとう、颯馬は一言、『もうやめて』と言ったんです。それが、あの子の出した結論だった。だから俺たちは、ただあの子を見守っているんです。あの子の家族も同じですよ」


 無月は、固く目を閉じた。

 彼が「もうやめて」と言ったのは、きっと、それで事態が悪化すると思ったからではない。

 自分のために誰かが悩み苦しむ姿を、それ以上見たくはなかったのだろう。

 たった二日間の付き合いだけれど、何かを語り合ったわけではないのだけれど、彼のことなら、まるで旧知の仲のように分かる気がした。

 正直で、多少無口で、冷めていて、それでもどこか熱くて、誰より努力家な少年。

 何故そんな彼自身を、正当に評価してもらえないのだろう。

 彼をそんなふうに扱う人たちを、無月は恐らく生まれて初めて「許せない」と思った。

 それは、あの家や世界に向けた感情とはまた違う、炎のような怒りだった。


「…それなら、私が、その学校の人たちを何とかするわ」


 絞り出すような声音に、佐月は目を見開く。

 しかしすぐに、困ったように眉を下げた。


「…それは、無月さんの持ってる力を使ってってことですよね」


 無言で肯定する無月に、佐月はゆるゆると首を振った。


「…いけませんよ、無月さん。それは、いけません」

「…どうして?」


 予想外の答えに、無月の声は掠れた。


「こう言っては、語弊もあるかもしれませんが、颯馬と同じように苦しんでいる子は、世の中に、数え切れないほどいるんですよ。あなたはその力で、その全ての子を救うつもりなんですか?」


 話の見えない無月は、首を傾げた。

 全ての人を救うつもりはない。

 ただ、あの少年を救いたいのだ。

 そう、無月が答える前に、佐月はまた言葉を継いだ。


「もし、その力であの子だけを救おうとしているなら、貴女は救う人間を選り好みする傲慢な神様になってしまう。俺が一葉ちゃんや槙から聞いた話を正しく理解できているなら、貴女の振るう力は、神様が人間に罰を与えたり褒美を授けたりする力に限りなく近い」

「…どういうこと?」

「貴女は、その力を、私的なことに使うべきではないということです」


 いつもおどけたように話す佐月が、今はいつになく真剣な目をして、訴えていた。

 その冷静さにつられて、無月の頭も冷えていく。

 そして、ようやく、その力を行使することの危うさに気がついた。


「…そうね、貴方の言う通りだわ。でも、それなら、私に、一体何ができるの」


 望めば、何でも手にすることができた。望まぬものはすぐに眼前から消えた。それは、至極当たり前のことだった。


「あの家の力がなければ、私には何の力もないの」


 涙声の無月に、佐月は強いて明るく笑った。

 何の力もない。そんなはずはない。出会って間もない少年の不幸を嘆き、力になりたいと涙を流すこの女性が、無力であるはずがない。

 その強くしなやかな心に、まだ気づいていないだけだ。


「一緒に、考えますよ。俺だけじゃない。夏希も俺たちの両親も。パンもほとんど食べてないじゃないですか。夕飯、食べて行ってください。腹が減ってると良い考えなんて全く浮かびませんからね」


 彼がそう言うが早いか、裏口から「ただいまー」という、気の抜けた声が聞こえてきた。




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