美しき日々
「伊勢さん!早く!」
秋の庭を歩きながら、十八歳になった陽子は付き人の名を呼んだ。
「陽子、伊勢さんはお歳なのよ」
その親友である薫は、心底楽しそうに笑いながら手招きをしている。それを腹立たしく思いながらも、伊勢はさりげなく主人の顔色を確認する。
「奥様、お腹のややに障ります。もう少し歩く速度を落とされてはいかがかと」
「でも、お医者様も、運動を勧められていたわ」
そう言うと、陽子は幸せそうに笑った。
しかし、その満面の笑みとは裏腹に、その面立ちはひどくやつれ、顔色もあまり良くはない。
病気をしているわけではない。それは、どう考えても心労によるものだった。
彼女がこの家に嫁ぎ来て、二年ほどになる。そして、結果として、彼女の立場はそれほど好転していなかった。
欲目抜きに見ても、彼女は本当によくやっている。常に堂々と振る舞い、自己を殺し、他者のために努め、そして、強い意志を以て、悪行を正す。
一部の者たちは、そんな彼女を、心の底から主だと認め始めている。しかし、それを面白くないと見做す者たちが圧倒的に多かった。
それでも伊勢は、彼女の泣いている姿を見たことがない。
半年ほど前、医師に、子を諦めろと諭されたときでさえ、彼女はただ悠然と微笑んだだけだった。
清宗がどちらを選ぶこともできず惑う隣で、彼女の意思は固まっていた。
「産むわ。それに、私も絶対に死なない」
彼女の実家の両親は、人目も憚らずに泣き喚いた。父親は、「あんたのせいで娘が」と清宗に殴りかかり、母親は、「実家に連れて帰る」と陽子の手を掴んだ。
しかし、清宗は、ただ静かに頭を下げ、陽子を背に庇った。
「陽子は、死なせません。子も、守ります。私が守ってみせます」
その隣で、陽子も頭を下げた。そこまで言われてしまえば、両親もそれ以上食い下がることはできなかったのだろう。元より孫が可愛くないはずがない。
今でも彼らはこの屋敷を訪れるが、あれ以来、子を諦めろと言うことはなくなった。
それは、彼女の体調が少しだけ好転したことも手伝っているのかもしれない。身重であることを理由に社交を絶ってから、彼女は以前より少しだけ顔色も良くなった。何より、子に対する強い想いが、彼女を日々強くしているように思えてならない。
伊勢が追いつくと、陽子と薫は小高い丘から夕日を眺めていた。何処からか紅葉の葉が舞い来て彼女の足元に落ちる。厨夫が夕食を作っているのだろう。何処からか良い香りが秋の冷たい風に乗って流れてきた。
始めて彼女と出会ったときのことを思い出す。この家の歴史を背負うにはあまりに幼く、繊細そうな少女だった。
そして、思っていたよりずっと、彼女はたちが悪かった。いくら訂正しようとも、彼女は「伊勢さん」と呼ぶことを止めず、何が面白いのか、当主といるときより他はほとんどずっと纏わり付いてくる。
始めのうちは、かなりむきになって改めさせようと、伊勢も奮闘していた。しかし、それが彼女の思惑なのだと気づいてからは、もう何を言おうとも無駄だと諦めた。
今や、陽子と薫は、伊勢にとって、娘のようなものだった。彼は妻も子供も持たなかったが、家族を夢見なかったわけではない。
子犬のようにじゃれつき、目を剥くような失敗を繰り返し、本気で拳骨を落としたくなるような悪戯をしでかす彼女たちは、本当に手がかかる。
しかし、世界で一番可愛らしいとも思っていた。
そんな娘たちのうち、一人がもうすぐ母となるのだ。まるで、孫を待ちわびるかのような心持ちだった。
「伊勢さん、この子が生まれたら、伊勢さんのことはお爺ちゃんって呼ばせたいわ」
まだ四十路にも満たない伊勢は、あからさまに顔を顰める。
「…せめておじさんと」
「伊勢おじさん!いいわね」
そう言うと、陽子はそっと腹に手を当てて、そこを愛おしげに見つめた。
薫もまた、そんな陽子の背に手を当て、寄り添うようにかがみこんだ。
夕日が、沈む。夜の気配を連れて。そんな山吹き色と紺色と朱色と透明な夜の空気が入り混じった世界で、二人の娘が身を寄せ合っている。
その情景は、伊勢にとって、何物にも代えがたい宝物だった。
――――……
「今日の散歩はいつもより長かったな」
陽子の体調に合わせた、消化に良い薄味の夕食を口に運びながら、清宗は正面に座る妻を見やる。やはり心なしか顔色も良く、食も進んでいるように見受けられる。
「最近はすごく調子が良いの」
その言葉が強がりではないことは、明らかだった。
どっと安堵感が押し寄せ、清宗の表情は自然と穏やかなものになる。
随分色々な表情を見せてくれるようになったものだと、陽子は内心喜んだ。それを言ってしまえば、すぐにまた不機嫌そうな顔に戻ってしまうため、口に出してはいけないのだ。
背後で薫と伊勢がからかうように見守っていることには気づいていたが、そんなことは気にならなかった。
そのとき、女中が静かに伺いを立て扉を開いた。
「失礼致します。春乃宮時成様とお連れの方がお見えです」
清宗は怪訝な顔をする。陽子を始めとして、部屋中の者がぽかんと口を開けた。
「連れとは?」
「申し訳ございません。そこまでは。異国の女性でございました」
そこで清宗は心得たとばかりに頷き「ここへ通せ」と命じる。
後の者は事情を飲み込めないまま、かつて時成がこれほど礼儀正しく入室したことがあっただろうかと顔を見合わせた。何より、女性を伴って訪ねてきたことに驚くばかりだ。時成はどんな女性とも親しくしたが、そのうちの誰とも決して深くは付き合わなかった。ましてこの家に女性を伴って来たことなど一度もない。
暫くすると、再び、家族用の小さな食堂の扉が開いた。
「やぁ、皆、元気だったかい?」
約二週間ぶりに藤泉院家を訪れた時成は、まず初めに陽子の顔色を確認し、ほっとしたように破顔した。
「うん、陽子ちゃんも元気そうだね。良かった。実は君に紹介したい女性がいるんだ」
心なしか普段より落ち着いた声だった。
そんな彼を、清宗はじろりと睨む。
「まずは、私に紹介するのが筋だろう」
表情ほど厳しくはない声音に、時成は苦笑する。
「そうだね。決心がついたのは、確かに清宗のおかげだから。ジュリア、入っておいで」
そうして、時成に背を押され、一人の女性が入室して来た。
象牙のような肌に、淡い空色の瞳、波打つ金糸の髪、そして、その細い体にそぐわない、しっかりと膨らんだ腹部。陽子と薫は、はっと息を飲んだ。
すると、その蕾のような唇から、晴れやかで優しげな声が零された。
「初めまして。ジュリエッタ・デュボアと申します。ジュリアとお呼びください」
ほとんど訛りのない、流暢な日本語だった。この場において返答すべき清宗が、陽子へ目配せしたため、彼女は急いで立ち上がる。
「は、初めまして。藤泉院陽子と申します」
「…ヨーコ?」
頭の中で漢字に変換できないのか、ジュリアは少し困ったように笑った。
「あ、ええと、太陽とか、陽気とか、そういった意味で…」
時成が彼女の耳元で異国の言葉を囁く。すると途端に、その表情が満開の百合のように華やいだ。
「…すごくいい名前」
自然と零れ出た感想が恥ずかしかったのか、ジュリアは、誤魔化すようにはにかんだ。
その瞬間、二人の間に星が散った。
「ありがとう、ジュリア」
彼女は、きっと自分にとってかけがえのない友になる。陽子は、確かにそう予感した。
そして、背後に控える薫もまた、同じように感じていた。二人の世界に三人目が入ってくるのは少し寂しい気もしたが、そんなことが気にならないほど、ジュリアは無垢だった。彼女はどこか陽子と似たところがあると、薫は内心、それだけを危ぶんだ。
彼女の背をさり気なく支えながら、時成は微笑む。
誰にでも愛想が良く、いつもにこやかな男ではあったが、その実、仇なす者には抜き身で切り掛かっていきそうな鋭さを、彼は常に備えていた。
しかし今、そんな鋭さはすっかり霧消し、心からの労りと慈愛が隣に佇む少女に注がれている。こんな表情ができるのか、と誰もが驚いたが、誰より清宗の受けた衝撃はひとしおだった。
「彼女は、僕の大切な人なんだ。お腹にはもう、子供もいる。この子が生まれるまでには、きっと間に合わない。でも、僕は必ず、彼女を妻に迎える。彼女も、お腹の子も、何があっても守り抜く」
そう言った時成の瞳から、ぱたぱたと涙が落ちた。それは恐らく、物心がついてから初めて見せる涙だった。
清宗は立ち上がり、おずおずとその背を叩く。そして、「案じることはない。自分も力になる」と囁いた。
時成は、ゆるく首を振ると、躊躇いながら清宗の肩に頭を乗せた。
「僕に、家族ができるなんて、本当に、夢みたいだ」
――――……
藤泉院家の長子が誕生したのは、真冬の月が冴え渡る年の暮れのことだった。
あらゆる事態を想定し、万全の環境と人員を整えて臨んだ出産だったが、その子は驚くほど穏やかに産まれた。
母子ともに健康であることを知らされた清宗は、思わずその場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。これほどの安堵と感謝と喜びを、彼は知らなかった。
身重の身でありながら、隣で祈っていたジュリアは神に感謝し、時成は強く清宗の肩を揺すった。
「清宗!無事なんだ!二人とも!泣いている場合じゃないだろう!」
その言葉に背中を押されたように、清宗は、「まだ御不浄が」と制止する女中を振り切り、強い産声の漏れ聞こえる部屋へと駆けた。
その寝台で、陽子はぐったりと横たわっていたが、清宗の姿を認めると、力強く微笑んだ。
「言ったでしょ?大丈夫だって。赤ちゃんも、すごく元気なの。女の子よ。そろそろ産湯から戻るはず…」
そう、言い終わらないうちに、清宗はその汗ばんだ体を抱きしめた。
「……陽子」
かけたい言葉は、山のようにあった。それなのに、今、両腕に温かい妻の体温を感じながら、絞り出すことのできる言葉は、たったこれだけだった。
彼女を生かすためなら、何だってしただろう。自らの命すら惜しくはないと、願い続けてきた。彼女を助けてくれと、どれほどの思いで祈り続けてきたことか。
妻が、生きている。これ以上望むべきものなど、ありはしなかった。
そのとき、静かに扉が開いた。そして、目元を赤くした薫が、その腕に真白の衣に包まれた赤子を抱いて戻ってきた。
「清宗様、陽子は少し寝かせておいた方がいいとのことですわ。その間、この子の世話は、清宗様にお任せ致します」
大人の親指の先ほどしかない手を、ふよふよと彷徨わせながら、見えているのかどうかも怪しい目で、じっと清宗を見つめている。あまりにも小さく、弱々しい存在だった。
薫の腕から受け取れば、不思議なほどに柔らかく温かい。
この瞬間、清宗の胸に万感の思いが溢れた。
愛しい愛娘。何と小さく、か弱く、愛らしいことか。愛しい、愛しい。縋るように腕を伸ばすこの子が、愛くるしくて仕方がない。
妻によく似たその綺麗な目に、この世の美しいもの全てを見せてあげたい。
早く、その声で、朗らかな笑い声を立ててほしい。そしてなるべく早く、父と呼んでほしい。
何より、世界で一番幸せな人生を、歩んでほしい。
「清宗様に似て良かったわね」
そう言ってからかう薫に、陽子はいつものように頬を膨らませる。そして、自らの腕には、その妻とのたった一人の愛娘が、健やかに寝息を立てようとしている。ここは、天国なのかもしれない。
「…いや、陽子に、とても良く似ている」
無意識に溢れた呟きに、陽子は心底幸せそうに笑った。




