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家族に―前編―

 開け放した窓から、夜気とももに眠る草木の香りが吹き込んでくる。陽子は少し身震いした。そっと肩を抱く。すると、その感触が、否が応でも清宗を思い起こさせ、また頬が熱くなった。

 会を終え、逃げるように自室に戻ってより、彼女はずっとこの調子だった。

 こうして夜風に当たっているのに、思い出すのは、先ほどまでずっと腰に添えられていた、見た目よりずっと温かい彼の手のことばかり。いや、それだけではない。会の間中、ずっと向けられていた気遣わしげな笑顔、慈しむような声、それらが今もなお、陽子の頭の中をぼんやりと支配し、心音を高まらせる。

 彼の行為に他意はなかった。彼の、優しい言葉にも。そんなことは、勿論よく分かっていた。

 藤泉院家の磐石な未来を知らしめるために、彼は伴侶との睦まじさを見せつけねばならなかったのだ。

 彼は、優しい。

 そうすることで、新妻への風当たりが弱まることも知っていたのだろう。今後彼らは、少なくとも清宗の眼前では、陽子を藤泉院家の女主人として扱わねばならない。

 彼は、心を持ち合わせていないと言っていた。しかし、そんなはずはない。


「…彼は、私を守ってくれたわ」


 無意識にそんな乾いた声が漏れた。

 それは一瞬のうちに夜半の空気に掻き消えたが、壁際に控えていた薫は、そっと顔を上げた。


「…本当にお優しい方」


 ほとんど独り言のような囁きに、薫はただ静かに頷く。


 そう、彼はこの家で生きていくには優しすぎる。誰より非情であらねばならないこの家で、これまでどれほどの者たちを裁き、見殺しにしてきたのだろう。その度に、自身の心が少しずつ擦り切れていたことにも気づかずに。

 心がないのではない。彼は、ずっと心を殺して生きてきたのだ。この家のため、そして、数多の人の穏やかな日々のために。

 それが、この家に生まれた者の宿命だったのだろう。頂に立つ者として、背負わなければならない責務だったに違いない。

 しかし、それは、陽子の瞳にとても空しく映った。彼が心を捨てて守っているものと、彼との間には、どんな細い糸も繋がってはいないのだから。

 どれほどのものを賭して守っても、誰かが彼の存在に気づくことはない。

 そんな一方通行の関係は、薄ら寒く、見るに堪えないもののように感じられた。

 しかし、それは、自分の言えた義理ではない。

 自分もまた、彼に守られている者の一人なのだから。


 深く思い悩む陽子を見つめながら、薫もまた、静かに考えていた。

 陽子は、あの藤泉院清宗を優しいと言う。

 しかし薫には、とてもそうは思えなかった。

 確かに、彼が医師の制止を振り切り、陽子の元へと駆けて行ったときは、心底安堵を感じたものだった。少なくとも、彼女を妻として大切にしようとしているのだということが、分かったからだ。

 しかし、並々ならぬ苦労をさせることを知りながら、末席の家の娘を娶り、こうして新婦を独り寝させる男を、果たして優しい人物だと言えるだろうか。

 おおよそ、陽子を娶ったのも、何らかの思惑あってのことなのだろうが、とても血の通った人間のするべきこととは思えなかった。

 それだけではない。

 石膏のような肌に、黒真珠のような瞳。そこに人としての熱量は微塵も感じられず、目つきや雰囲気の中にも、およそ人間らしい感情を見出すことはできない。

 しかし、陽子が彼を「優しい」と評するならば、きっとそれは真実なのだ。

 彼女は、快活で明るく物怖じしない性格だが、どこか繊細で感受性の豊かなところがあった。

 彼女は、昔から、周囲の感情の機微や小さな言葉の棘にも、敏感に気がつくようだった。

 それは、間違いなく彼女の美点だ。しかしそれ以上に、それは薫の心配の種でもあった。

 気づかなければ気にもならないようなことを、彼女は思い悩んでしまうのだ。

 ちょうど今、このときのように。


「それなら、陽子があの方を支えてあげないとね」


 あえて明るく言い放った薫に、陽子は笑った。


「えぇ、私はあの方の妻なんだから」

「それだけじゃないんでしょう?」


 薫は意味深い視線を親友へと送る。その視線の意味を解した陽子は、さっと頬を染めた。

 してやったり、と薫は笑う。その顔は、仮にも令嬢の浮かべるべき表情ではなかった。


「あの方のことを慕っているんだって、顔に書いてあるわよ」


 その瞬間、陽子は両手で顔を覆った。その指と指の間から「もう……嘘でしょ…」と、羞恥の涙声が漏れ聞こえてくる。

 薫はからからと笑うと、蹲ってしまった陽子の背を叩いた。


「いいじゃない。自分の夫を愛して何が悪いのよ。大体、そんなに顔を赤くしてため息をつくくらいなら、『一緒に寝てください』って誘えばいいのに」

「か、薫!」


 もはや、陽子の顔は真っ赤だった。口元が少しだけ震えている。

 薫は、それでも追及をやめなかった。


「何よ、私、何もおかしいことは言っていないもの。だって、夫婦なのよ?それも、新婚で、陽子は彼のことが好きなんでしょう?何の問題もないじゃない。彼の子供がほしくないの?」


 子供。その言葉を聞いた瞬間、陽子の胸に、柔らかい風が吹いた。彼との間にできる、自分の子供。それは、なんて幸せな未来なのだろう。

 陽子は、まだ見ぬその子を思った。そして、そんな自分が信じられなかった。

 出会ったその日に恋をして、その次の日に彼との子供を望むなんて、そんなこと、あってはならない。この屋敷にあるまじき、とんだ軽薄な女だ。

 しかし、一番の親友が、それは何の問題もないことだと言っている。

 そして確かに、子を成すことは自身に課せられた一番の責務だった。


「薫、貴女私の心配をしてくれているんでしょう?」

「…そうよ、子供を産んでしまえば、周りも納得せざるを得ないわ」


 陽子は、目を閉じた。その瞼の奥に、まだ見ぬ愛しい我が子を思い浮かべて。


「でも、薫、私は、そんなこと、どうでも良くなってしまったみたい」


 その穏やかな表情に、薫は訝しげに眉を顰める。


「どうでも良くはないでしょう。もし男の子が産めなければ…」


 そこまで言って、薫ははっと言葉を切った。それから気まずげに顔を伏せる。


「それは、分かっているわ」


 それでも陽子は、一切の動揺を見せずに薫に微笑みかけた。


「でも、私は、それでもいいと思うの。きっと、清宗様も分かってくださるわ。男の子でも、女の子でも、私はその子を死ぬまで守り続ける」


 そう言うと、陽子は扉に手をかけた。


「薫、私、夜這いに行ってくるわ」


 そして、ぽかんと口を開けたまま固まる薫の肩をぽんぽんと叩き、陽子は廊下へ踏み出した。



――――……



 扉を開けた清宗は、一言、「何事か」と尋ねた。

 そんな清宗を、陽子はぐいぐいと部屋へ押し込む。「お、おい」と非難の声を上げながらも、十近く年の離れた娘を突き飛ばすこともできずに、清宗は成されるがまま、部屋の最奥のベッドに腰掛けた。

 それを見届けて、一つ満足げに頷くと、陽子は急いで扉を閉め、再び清宗の元へと駆け寄った。

 漆黒の瞳に見上げられる。「奇特な娘だ、どういうつもりだ」そう訝しがられているに違いなかった。

 目線を合わせるため、陽子は彼の前に膝立ちになった。今度は多少見下ろされる位置になってしまったが、許容範囲だろうと陽子は口を開いた。


「こんばんは、清宗様。怪我はどう?」


 読めない会話に若干眉を寄せながらも、清宗は頷く。


「問題ない。痛みもほとんどない」

「…それでは、同衾していただけませんか?」


 一瞬、清宗は、「暖房をつけていただけませんか」そう言ったのかと思った。しかし、考えれば考えるほど、その言葉は「同衾」に他ならず、正面の妻は静かにその答えを待っている。

 永遠とも感じられるほどの間、口を開くことができなかった。

 この少女は、確かに同衾と言った。そして、この状況で同衾と言えば、つまりはそういうこと。しかし、果たして彼女は、その言葉が暗に示すところの意味を、知っているのだろうか。いや、この歳ならば、そのくらいの教育は受けているはずだ。しかしそれにしてはやけにあっさりと言い放った。

 そんな考えが、頭の中をぐるぐると巡る。その思考の果てに、彼が導き出したのは、結局、たったの一言だった。


「眠れないのか?」


 それに対して、陽子は少しむっとした表情をする。


「いいえ、そういう意味じゃないわ。私、子供がほしいの」

「な……」


 何を、とも続けられなかった。目を剥いて、ただただ冷静な少女を見つめることしかできない。

 しかしそのとき、ある一点に思い至った。即ち、今日の立食会である。

 そういうことか、と納得し、清宗は幾分落ち着きを取り戻す。


「…其方の言いたいことは分かった。確かに、子を産めば皆も其方を世継ぎの母として認めるであろう。しかし」

「違うわ、そうじゃないの」


 再び訂正され、清宗はまた内心惑った。彼女の真意を探ろうと、その印象的な瞳を覗き込む。

 すると少女は、そっと清宗の手を取った。


「家族がほしいの…いいえ、貴方と、家族になりたいの」


 その瞬間、清宗の頭は真っ白になってしまった。彼女は、今、何と言った。

 家族になりたい。それも、出会って間も無い一回り歳の離れた特殊な男と。

 一体何故、と決して愚鈍ではない頭を働かせる。誰かに何かを吹き込まれたのか。例えば、あのふざけた時成や、親友である薫嬢から。それならば、まだ良い。しかし、もし、それ以外の人物からありもしないことを嘯かれたのだとしたら、その不安は取り除いてやらねばならない。


「それは、純粋な其方の意思なのか」


 この意思の強い、身持ちの堅そうな少女が、何の理由もなく出会って二日目の男を床へ誘うなど、考えられなかった。

 しかし、そんな清宗の戸惑いを知ってか知らずか、陽子はただ真摯に頷いた。


「私は、貴方と、本当の夫婦になりたい。そして、貴方との子供がほしい。私にとっては、初めての、血の繋がった家族になるの」


 

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