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風の中でも

「まさか今夜も彼女を一人で眠らせるつもりかい?」


 時成の不躾な問いに、清宗は顔を顰める。


「薫嬢とゆっくり過ごしたいだろう」

「言い訳だね」


 時成は組んでいた脚を解き、さっと立ち上がった。


「分かっているだろう。早く子を為さなければ、それだけ彼女は苦しい立場に立たされるんだよ」

「……」

「あんな年下の可愛い奥さん、僕なら閨を離れないね」

「それなら、お前もさっさと妻を娶れば良い」

「僕の愛は、皆のものだからね」

「茶化すな」


 清宗の声には、かつてないほど真剣な響きがあった。時成は、ちらりと彼の表情を読む。そこには、断固とした意思があった。


「何故妻を娶らない。一人に絞れぬのなら妾でも囲えば良い。独り身のままでは、周囲も黙っていまい。現に年々、風当たりが強くなっているだろう。私も、国和も、お前を悪戯にからかっているわけではない」


 時成の口元から、笑いが消えた。代わりに、自嘲げな表情がうっすらと浮かぶ。


「…分かっているよ。しかし、僕には、愛する人をあの家に迎え入れる勇気がない」


 驚くほど静かな声。清宗は、潜在的に、その続きを聞くのを恐れた。この男のこんな声を聞くのは、これが初めてだった。


「外からの攻撃なら、何があっても守りきると誓える。例え、相手を殺すことになっても、僕は躊躇わない。だが――」


 仄暗い炎が、その瞳の中で揺らめく。


「血の繋がった親族が、彼女を脅かしたとき、僕は、彼らを殺せるだろうか」


 清宗は、視線を落とした。燭台に照らされた自身の手がやけに白く見え、ようやく、スーツが皺になるほどきつく握りしめていたことを悟った。

 両手を膝から離し、立ち上がる。そして、正面から時成を見据えた。


「知るか」


 一言。いつもと何ら変わらぬ調子で、清宗は言う。

 時成はぽかんとしたまま、ただ無表情の男に視線を合わせることしかできない。


「お前が上手くやればいいだけの話だろう。どちらかを取れぬなら、両方取ればいい。家族を殺せぬと言うなら、島流しにでもすれば良い。だが、私は、彼女のために人を殺すつもりはない」


 彼女は、自分のために他人が犠牲となることを是とするだろうか。時成は小さな小屋で一人忙しく働く、異国の少女を思った。

 きっと、彼女は他者の不幸を自分のことのように悲しんでしまう。それが自分のためだというなら尚更だ。

 それならば、自分は、家族を切り捨てることはできない。彼女のために、家族を守らねばならない。


「…君の言う通りだ」


 まだ、力が足りない。一族を従え、藤泉院家と並び、頂点に君臨するための力が。

 それにきっと、時期も満たない。彼女は満足に日本語を話すことができない。そもそも、時成は自身の素性を明かしていなかった。彼女は、祖国を離れ、この国で、「春乃宮時成」と共に生きてくれるだろうか。


「いつかは妻を娶るつもりだった。…その女性にはこれ以上ないほどの敬意を払って優しく接するつもりだったよ。だが、こんな残酷なことはない。僕の心は、きっとそこにはないのだから」


 そんなどっちつかずの未来が許されるはずがないのだ。

 それが彼女のためだと自身に言い聞かせてきた。しかし、心のどこかでは、気づいていたのだ。

 彼女に決定的な言葉を告げられないのは、彼女を日本へ連れて来なかったのは、彼女の拒絶を恐れていたからだ。

 彼女は、この心に初めて灯った、儚い蝋燭だった。もし消えてしまえば、また一人、暗闇に取り残されてしまう。

 そんな恐れを、五年以上もの間、一人抱え続けてきたことに時成は笑った。

 恐れる必要はなかったのだ。この頭と権力、全てを使い、盤石な地を築けばいい。持てる力を行使して自身もまた、決して揺らがない強さを得よう。


「今はまだ、そのときじゃない。でも、清宗、僕は他の誰でもなく、彼女を妻に迎えるよ」


 普段見せている軽薄な微笑みではなく、まるで幼い頃のような純粋な笑みを向けられ、清宗は顔を顰めた。


「…滅多に悩まぬ者の悩みほど煩わしいものはない」



――――……



「伊勢さん、どう?」


 若草色のドレスの端を摘み、陽子はくるりと回った。今日はこれから、藤泉院家主催の立食会だった。明るく振舞ってはいるものの、彼女の指先が僅かに震えていることに、伊勢は気づいていた。しかし、指摘したところで、彼女は武者震いだと言い張るだろう。


「よくお似合いです、奥様。しかし、恐れながら、私に敬称をつけて呼ばれるのは」

「伊勢さん大変!!」


 昨日に引き続きドアが壊れるほどの勢いで入室した薫に、陽子はそろそろ注意をせねばと口を開きかける。しかしそれは、薫の涙声に遮られた。


「清宗様が階段から落ちてしまったの!」


 青ざめる伊勢の手を、陽子はさっと掴む。


「薫!どの階段なの」

「こ、こっちよ」


 そして三人は、広大な屋敷を馳けた。


 結果として、清宗の怪我は大事には至らなかった。

 三人が駆けつけると、ちょうど清宗は時成の胸ぐらを掴んでいるところだった。


「全く清宗は鈍臭いね」

「貴様のせいだろう!」


 そのやりとりで、おおよその概要を掴んだ三人は、無意識に嘆息する。

 清宗の怒鳴り声に安堵する日が来ようとは、と伊勢は窓から遠くを見つめた。


「清宗様、お怪我は?」


 陽子が近づくと、二人ははっと顔を上げる。そのとき、清宗の額に脂汗が浮かんでいるのを、陽子はしっかりと捉えた。


「大事ない」

「…伊勢さん、清宗様の手当てをお願い。お医者様をお呼びした方がいいかもしれないわ」


 その切迫した声に、伊勢は、敬称をつけて呼ぶのは、と再び訂正する気にはなれなかった。

 主人に肩を貸し、そのまま別室へと連れて行く。

 二人が遠ざかるのを見送り、それから陽子は気まず気に頬を掻く時成に恨みがましい目を向けた。


「時成さん、悪ふざけがすぎるわ。特に今日は大切な日なのに」

「そんな、僕はただ、あの男から逃げていただけなんだ、陽子ちゃん。信じてくれ!」

「清宗様をからかったんでしょう?」

「それはあいつが意気地なしだからさ!」


 その必死な様子に、陽子は目を怒らせなければと努めながらも、とうとうくすりと笑ってしまった。


「まぁ、今回は運が悪かったのね。さぁ、時成さんもその右手を手当てしないと。清宗様を支えてくださったんでしょう?」


 時成は、静かに目を見開いて、さりげなく背に隠した右手を下ろした。


「何で分かったんだい?」

「何でって、痛そうな顔をしているし、右手を動かそうとしないんだもの」


 そう言って、陽子は時成の背を押した。


「ぼんやりしている暇はないわ。手当ては早い方がいいの。薫、伊勢さんに、怪我人がもう一人とお伝えして、できれば氷囊と塗り薬を貰って来て」

「分かったわ。レントゲンはいいの?」

「…それは、会が終わってからにしてほしいな」


 飄々と時成は笑った。


「恐らく今日の会、清宗は出席できないだろうから。僕が陽子ちゃんをエスコートするよ」


 それから、「ごめんね」と呟いた。


「そのためにいらない反感まで買ってしまうかもしれない。他に君を連れて歩けるのは、かろうじて国和くらいのものだけれど、彼には奥さんがいるから、余計に外聞が悪い。…こんなことになるとは思わなかったんだ」


 その暗い表情から、今自分がどれほどの窮地に立たされているかを悟った陽子は、それでもぐっと両手を握りしめて笑った。


「――時成が悪いんじゃないわ。これはきっと、最初の試練なのよ」



――――……



 時成の立ち回りは完璧だった。

 あくまで友人の妻として陽子を、周囲へ丁寧に紹介し、常に適切な距離を保った。

 そして、陽子もまた、夫が列席できないことを詫び、妻としての決意を静かに述べた。中には、彼女がまだ十六歳の少女であることを忘れ、その言葉に聞き入る者もいた。

 しかし、大多数の人々は、彼女に不満と侮蔑と疑惑の目を向けた。

 覚悟は、していたつもりだった。自分のような何の後ろ盾もない存在が頂に立つということ。それは、周囲の反感を甘んじて受けるということと同義だった。

 しかし、こんな目を、陽子は知らなかった。もっと、直接的な嫌がらせをされるものだとばかり思っていた。

 視線に対し、咎め立てすることはできない。不可能ではないだろうが、悪くすれば自身の立場を危うくするだけだ。それならば、一体どうやって彼らに対抗すれば良いのだろう。

 悔しかった。大口を叩いておきながら、何もできない自分が。足が竦みそうになる、幼い自分が。

 そのとき、周囲に動揺の波が走った。

 時成とともに、陽子はさっと振り返る。

 するとそこには、松葉杖をついた清宗の姿があった。

 状況を察するより先に、陽子は彼の元へと駆け寄り、その体を支える。


「清宗様、どうして――右足と肋骨が折れていると伊勢さんが…」


 周囲に聞こえない程の声で囁くと、清宗は陽子の腰に手を回した。

 二人きりのときでさえ、これほど密着したことはない。そもそも、彼に触れられるのは、式を除けばほとんどこれが初めてだった。

 耳まで真っ赤に染まった陽子に、清宗は囁き返す。


「大事ないと言っただろう」


 そして、なす術なく立ち尽くす彼女を、さらに強く引き寄せると、そのつむじに唇を寄せた。

 しんと静まり返る会場。

 ひしめき合う全ての人々が、彼の一挙手一投足に息を呑み、中にはあんぐりと口を開けている者すらいる。

 清宗は彼らに目を据えると厳かに口を開いた。


「皆、昨日の婚礼式は、遠路はるばる大儀であった。また、本日主催の身でありながら遅れ参じたこと、甚だ恐縮である。私が不在の間、代理を務められた春乃宮殿と我が妻に、重ねて感謝したい」


 もはや何も言葉を発することのできない陽子の腰に添えていた手を、肩に移し、更に身を寄せさせる。

 その壊物に触れるかのような動作に、女性は勿論、男性までもがぼんやりと見惚れた。


「紹介が遅れた。妻の陽子だ。とある会で見えてより長らく想い続けてきた。ようやく妻として迎え入れることができ、こうして皆の前で紹介できること、心より嬉しく思う。思いもよらぬ急な承継と相なったが、妻と共に励んで行くところ、憂うべき未来などありはしない」


 その低く、静謐な宣言は、まるで日照りの雨のように人々の心に染み込み、新たなる主の誕生を知らしめた。


「皆、変わらぬ忠誠を期待する」


 広間に集った人々は、是非もなく腰を折り、それが波紋のように広がっていく。

 そんな異様な光景を、陽子は恐れにも似た気持ちで見つめていた。


 

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