蜜華と藤子―後編―
「――それでは、成宮家御息女、成宮蜜華様より、皆様にご挨拶申し上げます」
蜜華は、深く一礼をすると、にこりと微笑んだ。本日の主役として述べるべき言葉が、つらつらと流れ出る。
これが、今日自分に課せられた役割だと、蜜華はきちんと理解していた。それこそ物心ついた頃から、それを苦に思ったこともない。しかし、今このとき蜜華の頭を占めていたのは、別邸で待っているであろう藤子と光だけであった。
正装した蜜華に、心からの賛辞を送った藤子。
淡い黄色のふわふわとしたドレスは、まるで光の粉を纏っているかのようにきらきらと輝き、蜂蜜色の滑らかな髪は、生花に彩られている。
藤子にとって、彼女はまさに、一国の王女だった。
「蜜華さん、綺麗です。本当に、絵本の中のお姫様みたいです」
蜜華の頬がさっと赤らむ。その言葉選びは、とても洗練されているとは言い難かったが、素朴であるが故に、蜜華の心にすっと入り込んだ。
光も、母の興奮を感じたのか、蜜華の足元できゃっきゃとはしゃいでいる。
蜜華は、ふんっと笑うと「知ってるわよ」と、不敵に返した。強いて不機嫌そうにしたのだが、藤子は気を悪くした風もなく、「そうですよね」と嬉しそうに笑った。
今、蜜華の眼前には、豪奢に飾られた本邸のホールと、競い合うように着飾った人々が、波のように広がっている。蜜華は、この世界を現実として受け入れながらも、藤子とともに過ごすあの穏やかな時間に、心惹かれずにはいられなかった。
隣には、温和に微笑む両親と、兄。いつか、その隣に藤子の立つ日が来たならば、兄もきっと、あんな空虚な笑顔を浮かべずに済むのだろう。
来場者から挨拶を受けている間も、蜜華は笑顔の裏に退屈さを隠し続けた。今日一日のうちに何度「美しい」と言われただろうか。どの人も、異口同音に蜜華の美しさを讃え、学業への熱意に感銘を覚え、その利発さに平伏しているらしい。蜜華は、藤子の飾り気のない褒め言葉を思い出し、そっとため息をついた。
するとそのとき、「なるほど、蜜華嬢は少しお疲れのようだ」という、低く、静かな声が辺りに響いた。
蜜華は、すぐに顔を引き締め、声の主を探そうと、辺りを見回す。しかし、探すまでもなかった。蜜華の周囲にひしめいていた人々は、今や壁のように両脇に退き、その間を、一人の紳士が近づいてくる。
蜜華は、急いで頭を垂れた。気配で、両親や兄も恭しく礼をしていることが分かる。予想外の人物に混乱しているのは、蜜華だけではないだろう。
言うまでもなく、彼は、藤泉院清宗。藤泉院家の現当主であった。
「久しいな、国和」
「…は、ご無沙汰しております」
「気を遣わせまいと思い辞退したのだが、やはり御主らの顔を見たくてな。妻は連れずに参った。驚かせたか」
「とんでもございません。勿体無いお言葉でございます」
いつもは穏やかな父の声色が強張っていることが伝わってくる。蜜華の背を冷たい汗が伝った。
「娘御ももう十六か。美しく育たれた」
「…恐れ多いことでございます」
僅かに声が震えてしまい、蜜華は両目をぎゅっと瞑る。
「ご子息も立派になられたな。…期待も大きかろう」
「…不肖の身ながら、精進して参ります」
その淀みのない静かな返答は、この場においてはかえって異端なものに思えた。
蜜華には分かっていた。透はきっと、こんな人間離れした存在に対してさえ、毛ほどの興味も抱けないのだろう。それは、尋常なことではなかった。恐らく、兄は、彼女を失ったそのときに、人として生きることを諦めてしまったのだ。
「皆、顔を上げよ」
清宗の澄み渡るような声に、その場にいた人々は反射のように頭を上げる。
「蜜華嬢」
「はい」
まるで何キロも走り続けたかのように心臓が脈打つ。じわりと汗が滲みそうになるのをこらえ、蜜華は何とか微笑んで清宗に向き直った。
「私の娘と同級生だそうだな」
「はい」
「面識はあるか?」
「いいえ」
答えた後、これだけではあまりにも愛想がないことに気づき、「申し訳ございません」と付け加える。
清宗は、いや、と一瞬間躊躇った。
「…あやつも慣れない環境に戸惑っているのだろう。其方の評判も聞いておる。迷惑でなければあやつとも親しくしてやってくれないか」
蜜華の頭に、月の女神の姿が浮かび上がる。清廉で神聖なその姿に誰もが見惚れた。しかし、誰が藤泉院家の一人娘に声をかけられるというのか。その上、遠目に見る限りでは、彼女の側にも、周囲に対する関心はなさそうだった。
成宮家の者であれば、言葉を交わすことも許されるであろうが、それは、先方から声をかけて下さることがあればの話だ。だからこそ、蜜華はかの令嬢を目で追いながらも、知り合いになろうなどとおこがましいことを考えたことは一度もない。まして友達になろうなどとは、とんでもない思い上がりだ。
蜜華は恐縮しきってしまい、「…はい」と消え入るように答えるだけで精一杯だった。
側に立っていた透が、無礼を承知で妹の後を継ぐ。
「申し訳ございません。あまりに恐れ多いことで、言葉が見つからないのです」
清宗は「よいのだ」と透の頭を上げさせた。
「突然無理を申したな。すまなかった。実のところ、今日は娘も共に連れて来ていたのだが、気分が悪いというので、別室で休ませてもらっている」
「まぁ、何のお構いも致しませんで…」
これまで大人しく夫の側に控えていたマーガレット夫人が驚きの声を上げる。
「いや、どうかそのままそっとしておいてやってくれ。少々繊細なところがあるのだ。私と二人きりというので気疲れしてしまったのだろう」
そう言って、清宗は苦しげに笑った。
――――……
まだ子供だということで、一足先に戻る許可をもらった蜜華は、月光に照らされた廊下を歩きながら、先ほどの清宗の様子について考えていた。
あの冷徹な藤泉院清宗が、あれほど辛そうな表情を浮かべていたのは、一体どうしてなのだろう。
つい先日引き取られたというご息女が、先妻の子であることで、何か問題が起こっているのだろうか。
例えば、継子苛めとか。
あのいつも穏やかな薫夫人が、それほど苛烈な苛めをしているとは思えないが、人は見かけによらぬものだ。
しかし、薫にとっては継子でも、清宗にとっては血の繋がった娘であるはずなのに。
「…家族って、難しいわ」
大切に思うからこそ、側にいられない。失うのを恐れるからこそ、遠ざかってしまう。
そう遠くない未来、自分自身、どこかの令息と結婚し家庭を持たなければならないのだ。それを思うと、無意識にため息が出てしまう。そして、そんな自分に驚いた。これまで、政略結婚に疑問を抱いたこともなければ、それを揺るぎない決定事項として受け入れてすらきたはずなのに。
いつの間にか、心のどこかで藤子を羨ましく思うようになってしまった。
気づいてしまったのだ。
この先の生涯、彼らはいつまでもお互いを想い続けるに違いない。
真面目な兄は、家のためにいつかは妻を娶るだろう。必要とあれば彼女に愛を囁くかもしれない。しかし、きっとその度に、兄の心は藤子を求め、愛しさと悔しさに締め付けられるに違いない。
勿論、そんなことにはならない。そんな結末を迎えさせはしない。
しかし、例えもし、この先二人が結ばれなかったとしても、少なくとも、自分よりは幸せなのではないかと思わずにはいられない。
想う人もなく、心から想われることもなく、ただ家のために生き、家のために死ぬ。それで、本当に良いのだろうか。
そのとき、何者かが、蜜華の腕を強く引いた。
咄嗟のことに声も出せない。暴れる余裕すらなかった。ここが自邸の廊下であることすら忘れ、足を縺れさせる。そしてそのまま、人気のない曲がり角に引きずり込まれた。
乱暴に床に押し付けられ、何が起こったのかも分からないまま、蜜華は上を見上げる。すると、闇の中に、男たちの下卑た顔が浮かんでいた。
どこかで見たことがある顔だとやけに冷静に分析をしている自分と、足を押さえつける手の感触に泣き出しそうになる自分が、頭の中をせめぎ合う。しかし、表情はあくまでも冷静なままだった。それが気に入らないのか、馬乗りになっている男が蜜華の頬をじわじわと撫でる。
背中の総毛立つ感覚に、ようやく蜜華は自分の状況を把握した。
蜜華の怯えた表情に満足したのか、男がにやりと笑う。
「蜜華様、俺のこと、覚えてますよね」
その粘着質な声に強い嫌悪感を抱きながらも、蜜華は思わずはっとする。彼は、クラスメイトの一人だった。よく見れば、両脇の男たちにも見覚えがある。
「本日は俺らみたいな零細企業の跡取りまで招待してくださってありがとうございます。といってもあなた様は一切興味を持ってくださらなかったようでしたが」
そんな馬鹿な、と蜜華の頭は罵る。どのような者に対しても、挨拶には挨拶を返したはずだ。
「悪く思わないでください。こうやって既成事実を作らなければ、あなた様に近づく方法がないのです」
途端に、蜜華は恐怖に慄いた。
「やめなさい!そんなことをすれば、ただでは済まないとわからないの!?」
押さえつけられた手足を振り離そうともがく。しかし、数人の男の力に敵うはずもなく、体はぴくりとも動かなかった。
「ただでは済まないのは蜜華様ですよ」
そう言うと、男は蜜華の胸元の布を破った。
「いや!やめなさい!やめて!」
蜜華の金切声が廊下に響く。
「蜜華様、あまり大きな声を出すと、誰かが見に来るかもしれませんよ」
一人の男が蜜華の脚に手を這わせながら警告した。
蜜華のなけなしの自尊心が、その瞬間さっと蘇る。
こんな状況を人に見られるわけにはいかない。成宮の家の者がこんな者どもに軽んじられることなど、あってはならないのだ。
蜜華の眦に涙が浮かぶ。
今このときは、自分で乗り切らねばならない。否、耐え忍ぶと言うべきか。どうせ、全てが終わった暁には、この者たちは秘密裏に葬り去られることになるのだから。そう、自分に言い聞かせた。
蜜華は、声を出すのは止めた。しかし無駄だと分かっていながらも、もがかずにはいられない。嗚咽も止められなかった。
すすり泣く彼女を組み敷き、男は蜜華の肩を撫でる。全身が粟立つ感覚に、蜜華は反射のように「やめて」と繰り返した。幾重にも折り重なったドレスの裾を割こうと、一人の男が脚から手を離す。
男が何をしようとしているか分かった瞬間、蜜華は思わず「いや!」と叫んだ。
しんとした廊下に鋭く響いた声に、男たちが一瞬怯む。しかし、そこが会場から離れた裏寂しい廊下だということを思い出すと、男は「はっ」と笑い、再び蜜華へ手を伸ばそうとした。
そのときだった。
「…何をしているの…?」
微かな女の声が、聞こえてきた。
男たちは申し合わせたかのようにばっと振り返る。
泣き疲れてぼんやりとした頭で、蜜華も声の主を見つめた。
彼女は、すぐそこに立っていた。
青い月光を背負い、藍色のドレスを身に纏った、あまりにも痩せすぎた女だった。この闇の中ですら、彼女の顔に浮かぶ不幸の色はあまりにも明確で、触れれば折れてしまいそうなほど憔悴しているのが、誰の目にも明らかだった。しかし、何より、彼女は美しすぎた。
肌は青白く光り、大きな瞳も研ぎ澄まされたナイフのような鋭利な光を放っている。やつれた面持ちが、一層彼女の美貌に箔をつけていた。
彼女はまるで、羅刹のようだった。
一歩、その女が踏み出す度に、男は「ひっ」と後ずさる。彼女の表情はぴくりとも動かない。
蜜華は、その異様な光景に、息をひそめることしかできない。
彼女は間違いなく、藤泉院家の無月様だった。
学校でちらと見かけたときには、こんな恐怖にも似た畏怖など、感じたことがない。そもそも、これほどまじまじと彼女を見つめたことなどなかった。
彼女の正体に気づいたのか、それとも、その血気迫る美しさに恐れをなしたのか、男たちは叫びながら、蜘蛛の子を散らすように走り去った。
あまりの展開に、蜜華はぽかんと無月を見つめることしかできない。
無月は、しずしずと歩み寄ると、自身の肩掛けを蜜華に掛け、その背に控えめに手を回した。
「…立てそう?」
蜜華は頷き、無月の手を借りながら立ち上がった。
幽鬼の様に青白く細い手から、確かな体温を感じ、彼女が人であることに今更ながら驚く。
「送って行くわ。あんな下衆は私に任せて、忘れてしまいなさい」
蜜華は、あまりの言いように、思わずくすりと笑ってしまった。無月も淡く微笑む。
「ごめんなさい。日向の口が悪いせいなの」
「いえ、仰る通り、覚えておく価値もない下衆でしたわ」
蜜華の声には未だに涙が滲んでいたが、無月はあえてそこには触れなかった。
中庭を抜ける。真夏の夜の庭は、瑞々しい草と、幼い頃の記憶にある秘密めいた香りに満ちていた。
「さっきまで休憩室を借りていたのよ。それで、会場に行く途中に迷ってしまって。あなたの誕生日会だってことは知ってたのだけれど、気後れしてしまったの」
「無月様が、私に気後れですか?」
「えぇ」
無月は静かに笑う。
「私、つい最近まで、自分に藤泉院家の血が流れているなんて、夢にも思っていなかったのよ。あなたよりずっと下の家格の家で、祖父母と静かに暮らしていたの」
ざっと、一陣の風が吹き抜ける。
長く伸びた夏草が靡いた。
蜜華は、言葉が見つからないまま、肩掛けをぎゅっと胸の前で握りしめる。「冷える?」という問いに、ゆるゆると首を振った。
本当は、夜風が少し冷たかったのだが、わざわざ彼女の手を煩わせる必要はない。別邸の灯りは、もうすぐそこに見えていた。
暖かな灯りのもと、生命力に満ち溢れた草花に囲まれた無月は、とても羅刹女には見えない。折れてしまいそうなほど細い腕も、やつれた頬も、青白いことに変わりはないが、その冷たい瞳の裏側には優しさが満ち、その胸の奥底には、得難い正義感が眠っている。
玄関灯の下で蜜華が肩掛けを返そうとすると、無月はその手を押さえた。
「中に入るまでかけておいた方がいいわ」
蜜華は少し戸惑ったが、素直に甘えておくことにした。
「…今度、学校でお返し致しますわ」
そう言ってはにかむ蜜華。無月は驚いたように目を見開くと、ぎこちなく微笑んだ。
「えぇ、また、学校で」
――――……
短い廊下を抜け、ホールに入ると、藤子はソファに寝かせた光の頬を撫でていた。
蜜華の足音に、弾かれたように顔を上げ、「お帰りなさい」と言いかけて、彼女の口は止まる。
見る影もなく切り裂かれたドレス。ぐしゃぐしゃに絡まった髪に無残な花飾りがぶら下がり、薄く化粧を施した頬には涙の跡がくっきりと残っている。
「何が…」
無意識のうちにそう呟きながら、藤子は瞬時に蜜華の身に起こったことを悟った。
自分の足に蹴躓きながら蜜華の元まで走り寄り、肩掛けごと、彼女を強く抱きしめる。
そのとき、蜜華は初めて自分が震えていることに気づいた。
ようやく、安全な所へ帰れたのだ。
藤子の温かな腕の中で、 蜜華はその喜びを噛み締めた。
赤く染まった目縁から、再び涙が溢れる。藤子はそれに気づくと、より一層強く蜜華を抱き寄せた。
しかしその涙は、悔しさのためでも安堵のためでもなかった。
「違う…違うのよ、藤子さん」
今となっては、あんな「下衆」のことなど、どうでもよかった。勿論、容赦するつもりはない。傷つけられた誇りを思えば当然だ。
しかし、やはり、そんな取るに足らない者らのことなど、もはやどうでもよかったのだ。
今、蜜華の頭に浮かぶのは、月光を背に闇の中に佇む、月の女神の姿だった。
考えてはならない。気づいてはいけない。そう考えれば考えるほど、青く光る瞳が、鋭く蜜華を射抜く。
ぼんやりとした灯りのもとで、ぎこちなく微笑む彼女の表情が、頭から離れない。
「あぁ、藤子さん…」
何故、よりにもよって、女性なのだろう。
何故、よりにもよって、藤泉院家なのだろう。
決して叶うはずもないこの想いを、一体、どこに飼っておけばいいのか。
魂が惹きつけられるかのような感覚への喜びと、道ならぬ想いへの戸惑い、悲しみ、混乱、不安。蜜華は藤子に縋り付くことしかできなかった。
恋をしてしまったの。何故、彼女なの。この想いはどうしたらいいの。そう、叫び出したかった。
しかし、それはしてはならないと、蜜華の理性が口を固く閉ざさせる。密やかな嗚咽だけが、辺りに響いた。
蜜華は、口には出せない想いを、胸の内で繰り返す。
恋をしてしまった。それも、決して許されない恋を。誰にも言えない、罪深い恋。
これは、分不相応にも愛する人を望んでしまったことへの罰なのだろうか。自分の政略結婚に疑問を抱くことが、それほど業の深いことなのだろうか。
この想いが、いずれ誰かを傷つけることがあるかもしれない。抱いているだけで、多くの人を裏切ることになる。
誰にも悟られてはならないこの想いを、本当に、恋と呼んでもいいのだろうか。




