蜜華と藤子―中編―
それから、二人は週に一度、あの門で待ち合わせるようになった。
蜜華が都合の良い曜日を尋ねると、藤子はいつでも大丈夫だと答えた。彼女がどのような毎日を過ごしているかなど、蜜華には知る由もない。だから蜜華は、素直に彼女の言葉を受け入れた。
しかし、そうは言っても、光の昼寝があるので、時間帯は自然と限られる。結局、土曜日の四時頃に落ち合おうという結論に至った。その曜日なら、蜜華の用が昼過ぎには終わるためだ。
その最初の土曜日、蜜華は門の側の木陰に身を隠し、ぼんやりと藤子を待っていた。内心、落ち着かなかった。もし、あれがあの場限りの社交辞令で、彼女にその気がなかったとしたら。そうでなくとも、彼女が怖気づいてしまえば、きっともう二度と、こちらから見つけ出すことはできないだろう。父親の愛人の居所を教える者などいないだろうから。
初めて藤子を見つけたあの日以来、蜜華は兄と顔を合わせるのを恐れていた。兄の危うげな様子を見ていると、すぐにでも兄に伝えてしまいたくなる。彼女が、どれほど恋しがっているか。身を引くことが、彼女に残された唯一の方法であり、それは、間違いなく深い愛情によるものだったのだ、と。
しかし、今伝えてしまえば、どうなるだろう。兄は、この場へ来たがるだろうか。そして、彼女を説得しようとするのだろうか。
蜜華は、何度もその場を想像した。しかし、幾度繰り返そうとも、想像の中の藤子が頷くことはなかった。涙を流しながら首を振り、そして、その場を走り去ってしまう。
蜜華はきっと、潜在的に藤子の決意の固さに気づいていたのだろう。
だから、蜜華は、心に誓った。このことは、兄には勿論、決して誰にも気取られないようにしよう、と。少なくとも、今は、そのときではないのだ。何かをきっかけに、彼女の考えが変わるかもしれない。それを、静かに待とう。それが、蜜華の出した結論だった。
傷ついた兄を見守ることしかできない無力さと、隠し事をしている後ろ暗さで、蜜華の胸は締め付けられるようだった。しかし、悟られてはならないのだ。蜜華は、この先、何年かかるかも分からないそのときを、独りで待つことに決めたのだから。蜜華の振る舞いは完璧だった。透ですら、きっと、気づいていないに違いない。
蜜華は、強いて前向きに考えることにした。いつかきっと、彼女は兄の元へと戻る。だから、そのときまで、兄に代わって、彼女を支え、見守るのだ、と。
空を、見上げてみる。ここのところずっと降り続いていた霧雨で、桜はもう殆ど残ってはいなかった。しかし、久方ぶりの陽射しの中で、春の光を吸った、柔らかそうな新芽が、まだ少しだけ肌寒さを感じる風の中に揺れていた。
僅かに傾きかけた太陽の光が、蜜華の頬をじんわりと温める。あの春の、甘く、切ない香りを、蜜華は胸いっぱいに吸い込んだ。眠ってしまいそうなほど、心地良い。
しっとりとした木の幹に、そっと手を這わせる。それから、そこに寄りかかって、ゆっくりと目を閉じた。
どれほどの時間、そうしていたのだろう。暖かな木漏れ日に、意識がぼんやりとしていたため、すぐには気がつかなかったに違いない。ふと、遠くから、徐々に近づいてくる足音とともに、赤ん坊の楽しげな声が聞こえてきた。
蜜華は、ゆっくりと目を開けた。
やがて、鬱蒼と茂った木々の隙間から駆け足で現れた藤子は、蜜華を見つけると、更に急いで駆け寄ってきた。まだ僅かに肌寒いのだが、その額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
蜜華は、寄りかかっていた木から離れ、藤子とその子を迎えた。その頬が、安堵と嬉しさに綻んでいたことには、当人すら気づいていなかった。
「お待たせしてしまって申し訳ありません」
頭に葉を付けて謝る藤子に、蜜華は「全くよ」と鼻を鳴らした。
「この私を十分も待たせるなんて、貴女どうかしているわ」
言ってしまってから、蜜華は少し後悔した。折角ここまでやって来た彼女を、ここで萎縮させてしまっては、どうにもならない。最悪の場合、帰ってしまうかもしれない。
しかし、藤子に気を悪くした様子は見られなかった。それどころか、心なしか表情も柔らかい。
蜜華の怪訝な視線を質問と受け取ったのか、藤子は「待っていただけたのが嬉しかったのです」と説明した。
藤子が透の元から姿を消して、早二年が経とうとしていた。先日二十五歳になった彼女の目には、やっと中学校を卒業したばかりの蜜華が、とても愛らしく映った。幼く、活発で、生き生きとした少女。前回会ったときには、気が動転していて気がつかなかったが、蜜華はやはり、透とよく似ていた。そんな彼女が、透であれば絶対に口にしない文句を、無遠慮に言うものだから、何だか微笑ましく思ってしまう。
蜜華は納得できなかったのか、依然として険しい顔をしていたが、興味を失ったのか、「まぁ、いいわ」と言うと、「ついていらっしゃい」と身を翻した。
蜜華が案内した建物は、本館の裏手にある別邸だった。黒々とした木扉に鍵を挿しながら、蜜華は何でもないことのように呟いた。
「この別邸は、元々祖父の妾の方が住んでいたらしいわ」
藤子は、はっと息を飲んだ。どういう意味なのだろう。そんな藤子に、蜜華は悪戯な笑みを向けると、「深読みはしないでいただけるかしら」と笑いかけた。
「妾といっても、貴女が考えているようなものではないわ。ただ、世間体のために、一応ここで暮らしていたのよ。祖母がその方を追いやっていると、世間に思わせておいた方が都合が良かったらしいわ。実際は、元々祖母がその方と親友で、自分の嫁ぎ先に引きずってきたらしいのよ」
そうして、「変わった方よね」と笑いながら、蜜華は扉を開いて、藤子に中に入るように促した。藤子が躊躇うと、「その子を抱きながらこの扉は支えられないわよ」と正論で諭されたので、素直に従うことにした。
邸内は、とても妾が暮らしていたとは思えないような内装だった。本邸に面した壁は、全て巨大なガラス扉となっており、それらはテラスへと繋がっていた。天井は吹き抜けとなっており、白い塗り壁と黒木の柱が全体を落ち着いた雰囲気に仕上げている。アラビア模様の絨毯に、柔らかい革張りのソファ、それから、ホールの中ほどには、古びたピアノが鎮座していた。左手には、二階へと続く階段も見られたが、蜜華は一直線にガラス扉へと向かった。
藤子も光を揺すりながら、その後へ続く。
「蜜華さん、どうかされましたか?」
不安げな藤子の腕に、蜜華はそっと触れた。「兄様はいつもこの時間に、あのバルコニーに出られるのよ」囁くような答えに、藤子の表情は固まった。瞬間、様々な感情がせめぎ合った。嬉しくないはずがない。喜びで、飛び上がりそうだった。駆け出して行きたい。あの、見覚えのある部屋まで。そんな自分を、必死で止めなければならないことに、胸が締め付けられた。涙が今にも溢れそうだった。
その瞬間、光が藤子の腕の中で、小さな両手を、ばたばたと振った。まだ意味をなさない言葉で、楽しそうに話している。
藤子の頬は、自然と綻んだ。「お父様にお会いできるのが嬉しいのよね」そう言うと、藤子は光の手をぎゅっと握った。
蜜華は、ふと、思った。「その子に、兄様が父親だって教えてしまって宜しいの?」
藤子は、ゆっくりと幸せを噛み締めるように頷いた。「この子には話しても良いと許可をいただいています。光は、学校にすら行くことができませんから、外部に漏れる心配が無いのだそうです」
蜜華には、「…そうなの」としか、答えようがなかった。
そのとき、あの見慣れた扉が開いた。藤子の目は、その扉に釘付けになった。息子の喃語すら耳に入ってこない。たった今、彼女の世界は、夕日に包まれたあのバルコニーで完結していた。
現れた透は、ゆったりとしたスラックスに、シンプルなシャツを羽織っていた。白い足が、まだ冷たいバルコニーを踏む。それでも、透は無表情だった。藤子は、思わずぞっとした。
切れ長の瞳ではあるものの、その温和な表情、そして立ち振る舞いにより、透は常に優しげな紳士として周囲に受け入れられきた。藤子も勿論、彼に、冷たい印象を抱いたことなどない。これまで、あんな表情は見たことがなかった。
吹雪のような荒れ狂う冷たさではない。強いて言うならば、雪の降り積もった晩、明かりも、コートもないまま、ただ体が凍っていくのを待っているかのような、そんな静かな冷たさ。
藤子は、鳥肌を抑えながらも、目が離せない。
手すりに寄りかかり、あの鬱蒼とした森に赤い靄がかかるのを見つめる透。かつて、優しげに細められた瞳は、ただ、淡く差し込む光を反射し、かつて、楽しげな笑い声を立てていた口は、微笑すら浮かべていない。精巧な人形のように、ただ目の前に広がる未来を見つめる姿に、藤子は言葉が見つからなかった。
――――……
「私が、間違っていたのでしょうか」
勧められた紅茶にも手をつけず、藤子はぽつりと呟いた。光はふかふかしたカーペットの上で、物珍しそうにピアノを叩いている。
正面のソファに腰掛けた蜜華は、なるべく平静を装って、紅茶に口をつけた。
一週間前、まだ初対面だった頃の蜜華なら、すぐに言っただろう。「分かったのなら早く兄様の元へ行きなさい」と。しかし、今の蜜華には、とてもそんなことはできなかった。
今仮に、彼女が兄の元へ戻ったなら、今後様々な局面で苦しい思いをするのは、他でもない藤子なのだ。
後ろ盾も、十分な教養も、人脈すらない。その上、彼女は、優しすぎる。透は、彼女を守ろうとするだろう。蜜華とて、今となっては、彼女の味方をしてしまうに違いない。しかし、感受性の豊かな藤子が、果たしてそのような状況に耐えられるだろうか。少なくとも、蜜華は、ぼろぼろに傷つくことが分かっていながら、彼女をそのような世界に放り出す気にはなれなかった。
蜜華は、流れるような仕草でカップを置いた。
「兄様を想ってのことだって、私は分かっているわ」
藤子は、血の気の引いた顔を上げ、蜜華を見た。
「貴女に勇気が出るまで、私が付き合うわ」
蜜華は、ようやく明確な目標を見つけることができた。彼女に、それとなく、作法や教養を身につけさせよう。立ち振る舞いや、言葉遣い、そして、必要な知識を全て、与えるのだ。
いつの日かきっとやってくるその日に備え、藤子を守る鎧を作ろう。
「だから、そんな悲しい顔をする必要はなくてよ」
蜜華の高飛車な言葉に、藤子は淡く笑った。
――――……
想像していたより幾分、藤子は物覚えが良かった。そしてまた、予想していたよりずっと、藤子はものを知らなかった。
蜜華が、「お父様の愛人ということになっているのよ。もっとしっかりしてちょうだい」と目を怒らせると、藤子は、慌てて正し、「すみません」と困ったようにはにかんだ。蜜華は、いつの間にかこの顔に弱くなっていた。
「…気をつけなさい。向こうの屋敷の者に軽んじられてしまうわ」
そう言うと、呆れたといった顔で微笑んだ。
二人は毎週、概ねこのような和やかな雰囲気の中で過ごした。ピアノに触れるのも初めてだという藤子に、蜜華は半ば無理矢理、ピアノを弾かせた。初めはドの位置すら分からなかった彼女だが、数ヶ月もすると、簡単な曲ならば両手で弾けるまでになっていた。勿論、あまりにたどたどしいものではあったけれど。
蜜華は、そんな危なっかしい演奏に耳を傾けながら、光を膝に抱いた。
しかし、一度透が現れると、藤子は、さっと立ち上がる。そして、そのまま窓辺まで歩いて行くと、そこから、じっと彼の姿を見つめる。
蜜華は、ソファに腰掛けながら、光とともにこんな彼女を見守る。ガラスのような兄を、静かにひたと見つめる姿は、まるで時間が切り取られてしまったかのようだった。
透が中へ入ると、まるで何事もなかったかのように戻ってくる彼女は、きっと、自分の姿など全く意識していないに違いない。そして蜜華も、あえてその止まった時間を、強引に回してやるつもりはなかった。
そのような中でも、光だけは、どんどん変わっていった。一人で歩くようになり、はっきりとした意思の疎通もできるようになり、そして、簡単な言葉を話すようになった。
初めは、兄と同じ蜂蜜色の髪だったのが、徐々に茶色が濃くなり、ふわふわとした癖が出てきた。きっと髪は、母親に似てくるのだろう。子鹿のような目も、藤子に似ている。しかし、抜けるように白い肌や、理知的な唇は、確かに透を思わせた。
満面の笑みで楽しげに走り寄って来る光は、本当に愛らしい。蜜華は、会う度に、光をぎゅっと抱きしめた。一度、光に指を指されたとき、蜜華は反射的に「蜜華よ」と答えそうになった。しかし、それは既で止まった。向こうの屋敷でうっかり「蜜華」という名を漏らせば、きっと疑われることだろう。
甥っ子でさえ、こんなに可愛く思ってしまうのだ。これが我が子であれば、どれほど愛しく思えるのだろう。兄は、きっと、まだ一度も見えたことのない我が子を、静かに想っているに違いない。そう考えると、蜜華は涙がせり上がってくるのを感じた。
――――……
ある日、唐突に、蜜華は告げた。
「ちょうど来週のこの時間から、私の進学祝いの会があるの」
光を膝であやしていた藤子は、不思議そうに目をパチパチさせた。
「でも、入学式は、数ヶ月前でしたし…こんな真夏に行うんですか?」
蜜華は、くすりと笑うと、「進学祝いなんて名目よ」と笑った。
「学校で、ある程度私を見てもらって、それから、花嫁としてほしいと思ってくださる方を探すのよ」
その自虐的な笑みに、蜜華は気づいていなかった。しかし、藤子は、そんな彼女を心配げに見つめた。
「蜜華さんは、あまり、学校の話をしてくださらないですが…その、楽しいことが、ないんですか?」
その明け透けな質問に、蜜華は、笑った。
「藤子さん、お行儀が悪くてよ」
高等学校でも、蜜華は変わらず過ごしていた。多くの友人に囲まれ、勉学も作法もそつなくこなし、多くの会にも出席していた。だが、それだけだ。
強いて言うならば、あの、見たこともないような美しい同級生が、印象に残っていた。彼女は、藤泉院家の令嬢だということもあり、全校生徒の注目を浴びていたが、滅多に学校には来なかった。
蜜華は、彼女に悪感情を抱くことはできなかったが、ただ、立場ある者が責任や義務を蔑ろにする姿勢に共感することもできなかった。
蜜華の表情をどう解釈したのか、藤子は気遣わしげに尋ねた。
「それでは、私は来週、お邪魔をしない方が良いのでしょうか…?できれば、その会が終わってから、一目、蜜華さんにお会いしたいのですが…」
蜜華は、藤子の不器用な気遣いに、またくすぐったそうに笑った。
「いつもの時間にいらして構わないわ。会が終わるまで、ここで待っていてちょうだい。九時には引き上げて来るわ」
その蜜華の笑顔に安心して、藤子もまた、笑みを零した。




