表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/63

初夏の出会い

 一葉がバスを降りると、辺りは人でごった返していた。

 航空会社側も、ある程度は予想していたのか、各所に警備の者や案内の者を配置し、混乱に備えてはいるものの、それでは到底間に合わないように見受けられる。

 一葉は、早くも気を挫かれそうになりながら、とりあえず、人波に乗って空港内へと入った。


 中へ入れたのはいいものの、人が多すぎて、自分の意思では全く進むことができない。

 一葉は、あっちへ引きずられ、こっちへ突き飛ばされ、とうとう、完全に人波から弾かれてしまった。


「…これは、無理そうだ」


 考えてみれば、あの春が生で見られる初の機会なのだ。人々が見逃すはずがない。


 春は五年前、突然現れた、まるで人形のような俳優である。

 温かみのある陶器のような肌、陽の光を糸に紡いだかのような髪、そして、ビー玉のような金色の瞳。すらりとした体躯。

 その全てが、どこか現実離れしていて、とても生身の人間には見えない。


 しかし、彼が人形と呼ばれる理由は、それだけではなかった。

 春は、映画やドラマの他には、どのような番組にも、決して出演しないのである。よって、セリフを読んでいるとき以外の彼の姿は、完全に非公開となっており、その素顔は誰にも分からない。

 これだけの人気を誇りながら、どんな人気番組にも登場しない彼に、世間は、CG説やロボット説など、ありえない説を唱え始めていた。

 それが、ここにきて、番組出演どころか、生で登場するというのだ。

 彼を一目見ようという人々は、着々と増え続けていた。


 一葉は、一つため息をつくと、人波から外れた方へ歩き出した。

 こんなことで諦めてしまうつもりはなかったが、時間まで、まだ三十分以上ある。三十分もあの中で待ち続けるのは、体力的に厳しい。どこかで座って、体力を温存しておくのが賢明だろうと考えたのだ。


 人混みから外れた辺りは見事に無人だった。

 一葉は、大きな観葉植物の影に小さなベンチがあるのを見つけた。

 もし、授業時間内に終わればそのまま学校へ向かおうと思っていたため、制服で来てしまったのが、やはり少し居心地悪い。さすがに補導されることはないだろうけれども、あの影に隠れていられれば、何となく気が楽な気がした。

 足早にそのベンチへ向かう。歩きながら、もし、あの影に先客がいたらという可能性に思い至った。立派に育った観葉植物の葉は、青々と周囲からの視線を遮っている。

 とりあえず、覗いてみよう。一葉は鬱蒼と茂った葉に手をかけた。

 


――――……



はる様、そろそろお時間です」


 日向は、まだ遠く眼下に広がる故郷を冷めた目で見下ろした。

 ひとたびこの地に足をつければ、また「日向」としての重圧と閉塞感にさいなまされるのだろう。春乃宮家のワケあり跡継ぎとして。

 遠い記憶の彼方にある空色の目をした美しい母。日向をあの家に置き去りにして、一人祖国へと旅立った、世界にただ一人だけの母親は、今も息災なのだろうか。

 そうだといいと、日向は思った。裏切られたとは思っていない。捨てられたと恨んでいるわけでもない。そう、日向は幼い頃から何度も自分に言い聞かせてきた。

 全ての元凶はあの家にあるのだと。


 それでも日向は、適度に距離を置きながら、未だ春乃宮家を捨ててはいない。捨てられるはずもない。

 自身の責任を投げうち逃げ出せば、数多の人々が路頭に迷うことになる。つけは全て何の罪もない弱者の元へ降りかかるのだ。日向は両手をきつく握りしめた。

 身にあまる重責と、日々向けられる蔑みの視線に耐えながら、日向はそれでも空を見つめ続けた。

 遠い祖国の地に暮らす母を想い。

 そして、一人膝を抱え暮らす、たった一人の少女のために。


「…無月」


 無意識にその名を呟いて、はっと首を振る。

 幼い頃から常に彼女を守ろうとしてきた。悪意と作為と虚偽と策謀の渦巻くあの世界の中で。

 無月は美しかった。恐らく世界中の誰よりも美しい。幼い頃からその容姿は人のものとは思われなかった。

 一点の曇りも存在しない、真っ白な肌。滑らかに広がる手足。そして、華奢な指先。

 大きく黒目がちな瞳は、濃く長く、けれどもすっきりとしたまつげに覆われ、左右にすっと広がった眉の間から、作り物のような鼻が通る。控えめな、けれどもふっくらとした薔薇色の口元。柔らかな頬。

 腰まで揃う黒髪は、光の加減で青にも緑にも赤にも見える不思議な色。風に吹かれると、水が流れるように靡く。

 初めて無月を見たとき、天女が舞い降りたのかと日向は半ば本気で思った。それほどまでに、彼女の姿は現実離れしていた。

 周囲の大人たちも、視線を釘付けにされながら、しかし声をかけることもできずに慄き惑う。

 大人になった今も、それは変わらない。いや、豊かに膨らんだ胸元や、柔らかく丸みを帯びた腰は、以前よりずっと多くの視線を集めるようになった。

「月の女神」無月の存在は人々の間でそう囁かれた。

 日向は、密かに恐れていた。彼女は生まれてくる世界を間違えてしまったのかもしれない。そしていつか、故郷の者に連れ去られて、あるべき世界へ帰ってしまうのではないだろうか。あれほど美しい彼女が、この黒い靄が渦巻く世界で長く生きていけるとは、到底思えない。

 しかし無月は、周囲の視線にも、そして日向の恐れにも全く関心を示さなかった。


「日向!」


 そうして、日向に幼い頃のままの笑顔を向ける。


 彼は無月の笑顔を見ると、確かな安堵とともに底無しの罪悪感を感じた。雛鳥への刷り込みさながらの信頼を利用して、日向は無月をその腕に抱き続けてきたのだ。戸惑っているはずだ。しかし無月はその行為を、いつも微笑んで受け止めた。

 日向には、分かっていた。自身の抱く感情と、無月の抱く感情は全く別種のものであるということに。分かっていながら、その身も心も全て自分のものにしてしまいたい。

 誰より彼女の未来を想いながらも、その幸せを与えるのが自分であればいいと願う。

 日向は、窓硝子に立てた腕に、そっと頭を沈めた。



――――……



 一葉は、その情景に、瞬きすら忘れてしまった。

 差し込む午後の強い日差し。紺色のワンピースから覗く、はっとするほど白い肌。流れる絹のような髪。そして、気だるげに伏せられた大きな瞳。

 絵の中ですら、こんな人は見たこともない。

 一葉は、喉のつかえを飲みくだした。

 見たこともない、想像も及ばないような存在。それなのに、何故か一葉は、何処かで彼女に会ったことがあるような気がした。


 そのとき、彼女の伏せられた瞳が、緩慢に一葉を捉えた。

 頭の中が真っ白になる感覚。何も考えられない。ただ、その真っ黒な瞳に映る自分を、呆然と見つめるしかない。

 対する無月も同様に、ゆっくりと目を見開いた。


しん…?」


 りん、と鈴のように響く声音。

 その瞬間、一葉の体に、電流が走った。

 ようやく悟る。この人が、あの「無月」さんなのだと。


「…私は、槙の妹です。深草ふかくさ一葉いちようといいます」


 かろうじて、そう切り出す。

 一度声を出すことで、何とか現実へと戻れた気がした。


「…そう、貴女が一葉さんなのね。貴女のこと、彼からよく聞いていたわ」


 無月は、どこか悲しげに微笑む。


「すごい偶然ね。こんなところで会うなんて」


 無月は、どうぞと隣を示した。

 一葉は、一瞬躊躇った後、そっと腰を下ろす。それから、意を決して口を開いた。


「偶然ではないんです。私は、無月さんを探していました」


 そう、ずっと探していたのだ。しかし、調べても調べても、「無月」は愚か「藤泉院」の家名すら見つけることはできなかった。

 そんなことには全く思い至らなかった無月は「私を?」と不思議そうに目を見開く。


「何故、槙と別れてしまったんですか?貴女と別れてから槙は、ろくに家にも帰らないんです。…夜も戻って来ないんです」


 何とか、感情を押し殺そうとしながらも、その声には僅かに涙が滲んだ。

 無月は困ったように眉を下げると、また寂しげに微笑んだ。


「別れたかったわけではないの」


 ぽつり、とただそれだけが呟かれた。


 一葉は、その言葉に唖然とする。てっきり、兄が一方的に別れを告げられたのだとばかり思っていた。兄は、弄ばれたのだと。

 しかし、一方的に相手を弄んだ女が、果たしてこんな顔をするだろうか。


「…日向さんが、いるからですか」


 やっとのことで絞り出されたその低い声に、無月ははっとした。


「どうして、他に恋人がいるのに、槙のことを…」


 それ以上、一葉は続けられなかった。涙が次から次へと溢れる。

 無月は、どうすれば良いのかも分からずに、ただ反射的に溢れる涙に手を伸ばした。

 しかし、その手はすぐに、取りつく島もなく払われる。


「触らないでください!」


 明らかな拒絶の一言に、無月は肩を揺らした。

 伸ばした手が、ゆっくりと降ろされる。

 それから、潤んだ目を伏せた。


「…日向は、恋人なんかじゃないわ」


 今度は一葉が目を見開いた。


「でも…槙が…」


 無月はまた、微笑んだ。


「日向は、私自身なのよ」


 一葉は固まる。言っている意味が、まるで分からない。しかし、次の言葉はするりと口から滑り出た。


「それなら、どうして、槙と一緒にいられないんですか」


 言いながら、何故か一葉の胸はじくじくと痛む。無月は、そんな彼女を痛ましげに見つめた。


「彼にはもう、心に決めた人がいるのよ」


 全てを見透かされているような気がした。分かっているのでしょう?と問われているかのような。

 悲しい過去に捨て去った言葉が、一葉の胸に蘇る。


「…一葉、俺たち…」


 しかしすぐに、一葉はその記憶に蓋をした。

 溢れ出る感情を、強引に押し戻す。

 一葉は、小さく息をついた。


「…私が、誤解していたみたいです。すみませんでした」


 そう言って、頭を下げた。

 無月は、自分より頭一つ分背の低い少女を、眩しげに見つめる。


「…似ているわね。顔は、あまり似ていないけれど、雰囲気が、とても似ているわ」


 一葉は、微笑んだ。


「…家族ですから」


 無月は、鞄からハンカチを取り出して、一葉の頬に当てた。ふわりと百合のような香りが漂う。

 一葉は、目を閉じた。

 かつて、まだ母が生きていた頃、こんな風に涙を拭いてもらったことが、あった気がする。

 一葉の頬に、また新たな涙が一筋加わった。


 そのとき、華奢なヒールの小走りに駆け寄ってくる音が辺りに響いた。一葉は、後ろを振り返り、またも息を飲む。

 ふわふわと靡く蜂蜜のような髪に、琥珀のような瞳。桜の蕾のような唇に、薔薇色の頬。小柄で華奢な体躯は、触れれば折れてしまいそうなほど。

 そこには、童話の中から抜け出してきたかのような少女が立っていた。


「無月様、こちらにいらっしゃったのですね」


 安堵の息を吐きながら、無月の無事を確かめる。

 そして、一葉を不思議そうに眺めた。

 無月は、「ごめんなさい、少し一人で休みたくて」と謝罪すると、「こちらは、深草一葉さん」と、呆然とする一葉を示した。

 蜜華の顔に、一瞬、はっとした表情が浮かんだ。しかし、すぐに可憐な笑顔を貼り付ける。「花の妖精」と呼ばれる彼女の、精一杯の笑顔だった。


「一葉さん、初めまして」


 一葉は急いで頭を下げる。


「は、始めまして」

「それから、こちらは成宮蜜華さん」


 蜜華は、少しだけ膝を折った。

 一葉は、目眩がしそうだった。もしかしなくとも、彼女はあの成宮家の「成宮蜜華」嬢なのだ。この二人が、どれほど遠い世界に住んでいるのか、瞬時に思い知らされる。

 蜜華は、一葉に複雑な視線を投げかけると、無月に向き直った。


「無月様、日向様がご到着なさいましたわ。そろそろお車へ」

「えぇ、分かったわ」


 無月は、すっと立ち上がると、蜜華と並んだ。


「では、無月様参りましょう」


 蜜華が身を翻す。無月は、ちらりと一葉を見た。

 一葉は、さっと立ち上がったものの、言葉に詰まってしまい、ただ見送ることしかできない。

 無月は一度口を開いた。しかし、何かを言おうとしては躊躇い、とうとう一葉から視線を外してしまった。

 蜜華に続いて、足を運ぶ。一歩、二歩。しかし、三歩目は踏み出せなかった。意を決して、再び振り返る。


「一葉さん、また会えるわよね?」


 その横顔に、一葉はまた、強い既視感を覚えた。どこでとも分からない。けれど、強く切ない感情が渦巻く。

 一葉が呆然としているうちに、無月は鞄の中から一枚の紙を取り出し、そこに何かを書き付け、ぎゅっと一葉の手に握らせる。


「メールでも、電話でも、してくれたら嬉しいわ」


 そして、一葉が返事をする間もなく、彼女たちは空港から姿を消した。



 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ