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六年

 しんと静まり返った病室内。

 透は、深草兄妹に視線を合わせると、氷のような透明な声で、告げた。


「清和家の者は、遠い昔から代々成宮に仕え続けてきました。そして彼もまた、私の父に忠誠を誓っていたはずです。父はそんな彼を見込んで、彼女付きの執事に任命したのですから。…私も、彼なら問題ないと思っていました」


 あまりに無感情な声音に、誰もが言葉を見つけることができない。無月でさえ、透をじっと見つめていた。

 ふいに、平坦な声が、空気を揺らす。足を組んだ日向が、透に真剣な目線を据えていた。


「結局、奴は何故無月を求めたんだ。その女が指示したことだったのか?」


 清和の目的は、皆、朧げにだが察していた。

 影のものとして扱われる藤子と光を、表舞台へ。そして当然その際、成宮の血を引く透と蜜華が目障りな存在となってくる。


 透は、静かに目を伏せた。長く柔らかな睫毛が、ガラス玉のような瞳に影を落とす。

 その目の下には、紫色の隈ができていた。

 引き結ばれた唇が、開かれるかと思えばまた閉ざされ、言葉は何も出てこない。

 そんな彼の姿を、蜜華は見つめていた。決して視線を逸らすことなく真っ直ぐに。その人形のような表情からは、彼女の感情は一切読み取れない。

 そしてようやく、透の口が開かれる。その声は、ひどく低くかすれていた。


「彼は、無月さんを光の後ろ盾に据えたかったようです。…つまり、将来的に、二人を婚姻させうる状況を作ろうとしていました」


 ある程度は予想通りだったのか、日向は何の反応も返さない。そして無月自身も、全く関心を示さなかった。


「…清和は、彼女は父の愛人だと、きちんと認識しているようでした。彼ら二人はやましい関係にはないと主張しています。そして、彼女はこの件には一切関与していない、全て一人で計画したことだと、繰り返しています。…しかし、私は勿論、それが真実だとは考えていません」


 透は、冷静に、分析した事実を並べる。

 それは、あまりに冷酷なもののように、一葉には思われた。


「清和が、彼女に入れ込んでいるのは確かです。何らかの方法で、彼を籠絡したのでしょう。何れにせよ、すぐに彼女も取り調べられます。そして、何の関係もない人たちをこんな形で巻き込んだその罪は、決して許されるものではない。きっと、彼女からは、一切の自由を奪うことになるでしょう。彼女の母親か、光を人質に取り、彼女をどこかに閉じ込める必要があると、父は考えているようです」


 一葉は、息を飲む。人間を閉じ込めるというその発想が、そもそも彼女の有する常識を超えていた。

 そんな一葉のひんやりとした手をしっかりと包み込みながら、槙が口を開く。彼の掌は、ひどく熱かった。


「俺は…俺たちは、そんなことは望んでいません。一葉が無事なら、それでいいんです。お二人のお父上はきっと透さんや妹さんの安全を考えて、そんな提案をされたんでしょう。…それでも」


 そこで、槙は言葉を切った。数秒の間、躊躇う。それからまた、ひたと透を見つめる。その真摯な眼差しから、目をそらすことなどできなかった。


「…透さんは、本当に、その方を疑っているんですか?その方をそんな風に罰してしまって、本当にいいんですか?」


 その問いに、透の瞳が僅かに見開かれる。

 透は、倉庫での槙の姿を思い返した。あれほど怒っていたではないか。妹が、理不尽に連れ去られ、危うい目に遭わされたのだ。その上、自身まで手酷い怪我を負ったというのに。

 何故、彼女を庇うのか。

 そんな透の内心を見透かした日向が、低く笑う。


「そいつは何も、その女を庇おうとしているわけじゃないと思うぞ」

 「そうだろう」そう問いかける日向に、槙は戸惑いを見せた。


「俺は、ただ…透さんが本当にそれを望まれているわけではないような気がしただけです」


 そして、困ったように少し笑った。隣の一葉も、淡く微笑み微かに頷く。


 透は、何と言えば良いのか分からなかった。あの二人は、一体何を考えているのだろう。あんな目に遭っておきながら、何故、周囲の人間の気持ちばかりを優先しようとするのか。透は、全く理解できなかった。

 ただ、一つだけ確かなことは、この二人が、藤子を罰する必要性を感じていないということだ。

 そして透は、それに安堵している自分に気づいた。

 無理矢理抱き、子を孕ませ、見張りをつけ、六年もの間飼い殺してきた。もうこれ以上、そんな彼女を傷つける必要はないのだと、二人は言ってくれている。


 透は一度、口元を緩めた。その表情に、室内の空気まで、心なしか柔らかいものとなる。

 それからまた、深草兄妹に向き直った。

 その表情は、ぞっとするほど、穏やかだった。


「お二人の御心遣いには、本当に、感謝します」


 そこで、一度言葉を切って、改めて二人に頭を下げる。その声音には、確かに感謝の情が滲んでいた。頭を上げるようにと促す槙と一葉。その光景に、誰もが多かれ少なかれ、肩の力を抜いた。

 その次の、言葉を聞くまでは。


「しかし、それでも私は彼女の罪を問います」


 槙は、呆然と透を見つめ、一葉もまた、息を飲む。

 誰かが言葉を挟む間もなく、透は、流れるように言葉を継いでいった。


「私は、彼女を信じていました。そして、今もまだ、私の記憶の中の彼女は、素直で臆病で優しい、あのときの姿のままです。…彼女は私に隠し事をしていましたが、悪意があったわけではありません。私は、彼女を責める気持ちなど、微塵も抱いてはいません。むしろ、その件で傷つけられたのは、彼女の方です。…ですが、それを理由に彼女を見逃すわけにはいきません」


 透の瞳から、また温度が消えていく。そしてその代わりに、冷え冷えとしたその声音に、静かな熱が篭った。


「私との関係が、免罪符になってはならない。罪を犯せば、それに報いなければならないのですから。理由はどうあれ、彼女に付いていた執事が、無月さんを得るために、一葉さんを攫った事実は覆りません。人は、変わります。そして、私が言葉を交わしていたのは、この世界のことなど何も知らない、六年前の彼女だけです」


 透は、目元を細め、笑顔を作った。目の下の隈が深まり、淡い色の肌が、余計に白く浮いて見える。どうしようもない疲労の色が、誰の目にも明らかだった。


「お二人の御意向に背くことになってしまいますが、どうかご理解ください」


 そう微笑む透を、槙は、しっかりと見つめ返した。怪我を負っていることを忘れてしまったかのような、よく通る強い声を出す。


「一度でも愛した人を、そんな風に罰することが正しい判断だとは、俺には到底思えません」


 透は、少しだけ眉を下げた。一度でも、愛した人。いや、きっと、そうではない。彼女の存在は、今でも透の中心を占めている。だが、透は、声を揺らすこともなく、断言した。


「いいえ、これが、最も正しい判断です」


 眉を寄せながら、笑う。だが、声音には、何人たりとも侵すことのできない、強い決意が込められていた。

 槙はもう、黙るより他なかった。日向も、自身の組んだ指先を見つめている。


 そのとき、ひた、と音がした。素足が、冷たい床を、踏みしめる音。左肩を押さえながら、それでも力強く、蜜華は立ち上がった。

 止めようと伸ばされた無月の細い指先が、宙を彷徨い降ろされる。痛みに歪んだ目元に、引き結ばれた口。そこには、確固たる意志があった。そして無月は、蜜華のこんな表情は、これまで一度も見たことがなかった。彼女のあまりの真剣さに気圧され、透ですら、その場を動くことができない。

 とうとう、彼女は、兄の眼前に立つ。透は、椅子に座った状態のまま、強張った妹の顔を見上げた。どこか現実味のない光景として、その瞳に映る蜜華。縺れて束になった細く柔らかい髪と、目縁の赤みが、痛ましい。病衣を着ずに、ゆったりとしたワンピースを纏っているのは、如何にもプライドの高い彼女らしかった。

 その、蜜華の腕が、唐突に上げられる。それにつられて、鮮やかな黄色の袖が、ふわりと舞った。

 そしてその手は、真っ直ぐに、透の頬を打った。


 乾いた音が、響く。

 しんとした室内で、その音はやけに大きく聞こえた。


 透には、何が起こったのか、まるで分からなかった。左の頬が、やけに熱い。そして、眼前の妹の瞳からは、せり上がった涙が、葉を伝って流れ落ちる雨水のように、次から次へとこぼれ続けていた。


「兄様はただ、藤子さんを罰することで、自分を守ろうとしてるだけじゃない!」


 言葉が、溢れる涙とともに、とめどなく迫り出る。それはとても、一朝一夕の間に溜め込まれたものとは思われなかった。


「兄様は藤子さんを疑うことに疲れてしまっただけなんでしょう!?藤子さんが悪者になれば、もう兄様と一緒になることは、本当にできなくなるものね!兄様は、藤子さんから逃げて、そうして今まで疑い続けてきたんだわ!責める気持ちがないなんて嘘よ!そうやってずっと、自分だけを守り続けてきたくせに!」


 蜜華は、自分自身、何を言っているのか分からなかった。頭に霞がかかっている上に、視界まで、まるで嵐の日の窓ガラスのように、歪んでいる。


「藤子さんの気持ちも、父様や母様や、私の気持ちも、置き去りじゃない!兄様は、どうして気付こうとしないの!どうして、藤子さんは、誤解を解こうとしないのよ!六年間も、苦しみ続ける必要なんて、どこにもないじゃない!」


 蜜華は、その場にへたり込む。ぱたぱたと、涙が直に床へ落ちた。


「…どうして、二人は、進んで不幸になろうとするの」


 震える声が、完全に嗚咽に飲まれる。

 その細い肩をそっと抱き寄せながら、透は、掠れた声で囁いた。一体どういうことなのか、と。

 不安げに揺れる月光色の瞳が、所在なく彷徨う。


 蜜華は、また、乱れた髪の間から、真珠のような涙を零した。


 

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