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綺麗な寝台

 萌黄色の森に囲まれた湖に、小さなボートがたくさん浮かんでいる。どのボートにも、輝く笑顔を弾けさせる子供と、それを優しく見守る両親の姿。

 槙は、そのうちの一艘に手を振った。なるべく、楽しげに見えるように。

 それに気づいた一葉が、小さな手を目一杯振る。少しだけ、ボートが傾いた。先程まで穏やかに手を振り返してくれていた父と咲さんが、慌てて彼女を抑える。

 咲さんは、本当に綺麗な人だ。特に、笑っているとき。両頬にえくぼができて、目元が柔らかく細まる。

 一葉も、将来きっとあんな美人になるんだろう。今でも、笑い皺のでき方は咲さんにそっくりなのだから。


「しーん!!」


 日に焼けた肌に、真っ白の可愛らしい歯がきらきら光る。


「槙も一緒に乗ろうよ!」


 槙は、曖昧に微笑んだ。

 彼には、分かっていた。両親もそれを望んでいるのだということが。特に、咲さんは、実の母親以上に、自分を深く愛してくれている。咲さんは、心まで、強く美しい。

 ただ、何となく、槙は落ち着かなかった。どう考えても、自分を邪魔者以上の者だとは思えなかった。

 産みの母親の記憶は、全く残っていない。ずっと、父親と二人で暮らしてきた。だから、自分に母親ができて、本当に嬉しかった。幼い妹は、必ず自分が守ろうと密かに誓った。三人とも、槙にとっては大切な家族だった。

 だからこそ、槙は、彼の家族に対して、時折臆病になってしまう。


「次は乗る!」


 そう言って、木の下から手を振り返す槙は、どこから見ても晴れがましい。しかし、咲はその笑顔を見ると、少しだけ、泣きそうな顔をした。



――――……



 体が、火照る。全身が、特に背中がひどく汗ばんでいるのが不快だった。それに、脇腹がひどく熱い。

 槙は、目を開けよう、と思った。思うと同時に、真っ暗だった視界が、周縁から白んでいく。しかし、なかなか焦点が定まらない。全てが、ぼんやりとしていて、試しに目を細めてみても、はっきりとした輪郭を見ることができない。


「槙…?」


 小川のせせらぎのような静謐な声が、辺りに響いた。その姿が、今は亡き面影に、重なる。


「…母さん?」


 声を発すると、途端に視界が開けてきた。

 白く、清潔な天井、壁。大理石の床。分厚い絹のカーテン。そして、左手に、無月と日向が腰かけていた。

 何故、自分はこんなところで寝ているのだろう。それに、何故、こんなに体が言うことを聞かないのだろう。そんな問いが、ぼんやりと彼の頭に浮かんだ。


 槙が完全に目を開くと同時に、二人はゆっくりと立ち上がった。どちらも真剣な眼差しで、槙を覗き込んでいる。


「気がついたか」


 最初に言葉を発したのは日向だった。抑揚のない、静かな声。それは、明らかに槙を気遣ってのものだった。

 槙は、「はい」と返事をしたかったが、口の中が異様に渇いているようで、上手く言葉を発することができない。

 それを見て取った日向が、彼にコップを手渡した。槙は、迷うことなくそれに口を付ける。容易く一杯を飲み干す。がさがさした喉が、少し潤った気がした。


 無月は、ただ、彼を見つめる。

 静かに、ぼんやりと。


 二杯目の冷たい水が、槙の頭を、徐々にすっきりさせていく。そして、この状況を、瞬時に飲み込んだ。

 無月の腕と頭に巻かれた包帯。黒いシャツに着替えている日向。

 あのとき、銃声の響き渡る中で、倒れた一葉。


「一葉は、何処ですか」


 思いの外、平坦な声が出た。

 もっと取り乱すと思っていたのか、日向も驚きの表情が隠せていない。しかし、無月の様子は、変わらなかった。


「隣の部屋のベッドの上よ。もう、意識も戻っているわ。…貴方が、一番重症だったのよ」


 無表情でそう言うと、彼女は扉を開けて、廊下へ出て行った。

 すっと音もなく扉が閉まる。規則正しい足音が、遠ざかり、聞こえなくなった。


 日向は、苦笑を漏らすと、槙に向き直る。


「俺と無月はこの通りだ。蜜華は肩を撃たれたが、命に別状はない。後遺症の心配もないらしい。それからあんたの妹も腿を撃たれたが、こちらもすぐに回復するそうだ」


 日向は、淡々と言葉を続ける。


「医師も驚いていた。あれだけの怪我を負っていながら、誰よりも早く意識が戻った上に、修復速度が恐ろしく速いらしい」


 そう言うと、日向は少し悪戯に笑った。


「まったくお前ら兄妹は化け物か」


 槙は、安心したためか、そんな軽口にさえ自然に笑い返した。


「化け物は日向さんですよ。何であの状況から無傷で生還してるんですか」


 日向は心底楽しそうに笑う。その笑い声は、林を吹き渡る風のように爽やかで、目尻の皺が、一葉と、母親を、無意識に思い出させた。槙は眩しげに目を細める。

 ふと、今思い出したかのように、日向がまた口を開く。


「それから、透のことなんだが」


 槙は、それは自分が聞いても大丈夫なのだろうか、と躊躇ったが、ここまで巻き込まれたのだからそのくらいの権利はあるだろう、と一人結論づけた。


藤子とうこというのは奴の愛人で、ひかるというのは奴の息子らしい」


 槙は、その話を瞬時に飲み込むことができなかった。あの倉庫で戦っていたときは、必死で目の前のものに集中していた。そして、意識すらはっきりとはしていなかったのだから。


「どういうことでしょうか?」


 そう問い返す槙に、日向は順序立てて説明するため、再び口を開く。

 しかし、その声は、音もなく入室してきた男に遮られた。


「日向さん、その話は、私からさせていただけませんか。蜜華にも、もう隠してはおけませんから。既に皆さん隣に集まって…」


 そこまで言って、透は槙の姿を見た。王子然とした雰囲気に、僅かに影が差す。


「…すみません。とてもここを動けるような怪我ではなさそうですね」


 日向は、当然だとでも言いたげな視線を透に投げた。

 一方、槙は、少しだけ腕を動かすと、「このくらいの怪我なら大丈夫ですよ」と、さも何でもないことのように応じた。それから、足を動かすと、そのまま床に立ち上がる。

 二人は、呆然とこの青年を見つめていた。

 無意識に呟かれた「嘘だろ…」という言葉に、日向自身がはっとする。


「槙、自分の怪我が分かってるのか?」


 槙は決まり悪そうに笑うと、「この感じだと…打撲と骨折と切り傷ってところだと思います」と応じた。


 そう、打撲と骨折と切り傷。全身に渡る打撲と、五ヶ所の骨折、それから無数の切り傷。

 日向は、諦めたように笑った。きっと、この男の原動力は、他でもない、深草一葉その人なのだ。透の話など、おまけか、悪くするとそれ以下に過ぎない。

 槙はただ、一葉に会いたいだけなのだろう。

 日向は、そっと肩を貸す。透も反対側へ回った。


「リハビリもいらないんじゃないか」


 日向の冗談に、透は口元だけで笑い、槙は静かに声を立てて笑った。


 廊下は、室内より少しだけひんやりとしていた。熱を持った患部には、それが心地良い。

 だが、怪我を負った足でも、十歩も進めば、目的の部屋の入口に辿り着く。

 透が、その引き戸をそっと開ける。そして、槙を気遣いつつ、また扉を閉めた。


 槙の目は、潜在的に一葉を探す。

 右手のベッドには、蜜華が、そしてその隣の椅子には無月が腰かけていた。

 そして彼女は、一葉は、左手の一番奥のベッドの上にゆったりと座っていた。いつもきちんと結われている髪は解かれ、しっかりとしたかたい黒髪が肩のあたりに広がっている。あのとき着ていた制服ではなく、今は青白い簡易な布を纏っていた。

 彼女は、槙を、茫然と見つめている。

 それを見た瞬間、槙の目から大粒の涙が噴き出した。

 日向の制止も耳に入らないのか、よろよろと一葉の元まで進み、一葉の肩を掴む。そしてそのままベッドの上できつく抱き締めた。収まることのない嗚咽が、空気を揺らす。

 一葉も、ゆっくりと腕を回すと、彼の小刻みに震える手を、そっと撫でた。


「心配かけてごめんなさい…ありがとう」


 そして、静かに涙を流した。

 そんな二人を、無月は静かに見守る。その表情は、張り詰めた無表情でもなければ、強張った笑顔でもない。静かな泉の水面のようなそれだった。

 蜜華にも、無月が何を感じているのか、まるで分からなかった。そこに感情があるのか疑ってしまえるほどに、何も感じていないかのような表情。


 しかし、蜜華には分かってしまう。無月がこの状況で、何も感じないはずがない。無月の、深草兄妹への関心を、蜜華は嫌という程目の当たりにしてきたのだから。それが僅かなものであったとしても、悲しみにしろ、祝福にしろ、何らかの感情を抱くはずなのに。無月は、それを故意に隠しているのだろうか。それとも、意識の水面下で、自粛しているとでもいうのか。


 この雰囲気の中で、言葉を発する者はきっと他にはいない。

 蜜華は、色の薄まり乾燥した唇を、そっと開いた。


「そこのお二方、宜しいかしら?」


 平素より少し掠れた、しかしなお可憐な声に、槙と一葉が振り返る。


「私見ての通り怪我をしているの。眠くて仕方ないのよ。お兄様、お話があるのでしょう?早く始めてくださいませんこと?」


 丸い瞳で視線を寄越された透は、「あぁ、すまない、そうだったね」と言うと、入り口付近に立てかけてあった椅子を二つ取り、それを日向にも勧めた。


 一葉はベッドの片側に寄り、槙に横になるように促す。槙は一瞬躊躇したものの、先程の蜜華の気迫に圧されたのか、すぐに横たわり聞く体勢に入った。


「今回の件は、全て私が原因なんです。本当に、申し訳ありませんでした」


 そう言うと、透は顔を歪ませて、静かに頭を下げた。




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