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微笑みの王子

 藍色の空に、同色の凪いだ水面。下弦の月が、海面でゆらゆらと揺れている。今夜は随分星が多いようだ。灯りの無い港のはずなのに、車外がぼんやりと明るく見える。

 一葉は、車窓から外を眺めていた。反抗心から顔を背けているかのように見せかけて。腕は後手に縛られており、足も自由ではない。無論、縄抜けの経験など皆無だ。しかし、一葉は、恐れるわけにはいかなかった。

 「藤泉院家の娘」とは、無月のことに違い無い。しかし、無月がこの場に来ることはまず無いだろうと一葉は踏んでいた。無月の起こしうる行動は全く想像の範疇に無いが、少なくとも、周囲がそれを許しはしまい。

 しかし、兄は、確実にこの場に来てしまう。一葉は確信していた。あのお人好しの兄は、どんな無謀な状況でも、単身乗り込んでくるに違い無い。たった一人の家族を取り戻すために。

 そのとき、一葉は何としても兄を守らなければならない。


 男に縛られた際の手順を思い出す。暴れながら、殆ど無意識に様子を観察していたのだ。彼女は、伊達に秀才と呼ばれているわけではなかった。

 そして、そこから、なるべく弱そうなところを徐々に緩めていく。健康的な肌に食い込む縄を、ミリ単位でずらしていく。ずらしてはまた戻り、またずらすことを後手で繰り返す。

 足は、あえてそのままにしておく。交渉で使われる際に解かれることを見込んで。下手に緩めると疑われてしまうだろう。

 一葉は、ミラー越しに、運転席に座る男を睨みつけた。



――――……



 日向は五番倉庫から離れた位置に車を停車させた。その港には、巨大な倉庫が七つほど立っていたが、灯りがついているのは、その五番倉庫だけだった。

 倉庫までおよそ五十メートルほどの距離がある。それから日向は素早くライトを切った。車を止めた時点で走り始めるかと踏んでいた槙も、大人しく倉庫を見つめている。

 日向は、口元だけで不敵に笑うと、槙の顔を覗き込んだ。


「驚くほど冷静だな」


 槙は「そう見えるなら、良かったです」と呟くと、「冷静ついでに、教えてください」と日向の瞳を見返した。濃茶色の瞳が、月の光を受けて強く光っている。


「日向さんは、何故今俺に協力してくれてるんですか?」


 その質問は尤もだった。無月がここに来ることはない。彼女が関わらない以上、日向も関わる必要はないのではないか。

 日向は、にやりと笑うと、また視線を倉庫へ向けた。


「…憂さ晴らしにはもってこいかと思ってな」


 その言葉に、ある種の反感を抱いた槙が、日向に向き直った瞬間、日向はまた口を開いた。


「それに、俺もあんたの妹に用があるんだ」


 槙は、瞬いた。何故、とは聞くまでもない。それも無月のためなのだろう。だから、その理由は驚くほどすとんと槙の胸に落ちてきた。

 槙もまた、日向とともに倉庫に視線を移す。


「…俺はこんな経験初めてなので、日向さんの指示に概ね従います。それで、一葉が助かるなら」


 日向は、薄く笑う。


「作戦は、臨機応変に、だ。まぁ、やり合いは避けられないだろうが。腕に自信は?」


 槙は日向を盗み見る。

 生成り色のシャツから覗く首も、腕も、白く、そして繊細だ。グレーのズボンもすっきりと着こなされている。痩せ過ぎているわけではない。むしろ、完璧だと言ってもいい。しかし、とても戦闘要員として数えることはできないだろう。

 対する槙は、かなり筋肉質だ。黒いTシャツから伸びる腕は、長く、しなやかな筋肉に覆われている。また、ジーンズの上からでも、体幹がしっかりしていることは見て取れた。

 日向は、「まぁ、何とかなりそうだな」と言うと、車から降りた。その際、音は全くと言っていいほど立てていない。槙もなるべくそれに倣い、降車した。

 二人は、明々とした倉庫へ向かう。扉は開け放されていた。



――――……



 一葉は、無人の車内で必死にもがく。


「藤泉院の娘は来ないようだ。此処で大人しくしておけ」


 運転席に座る男は、平坦な口調でそう言うと、一葉の姿をカメラに収め、車を降りた。


「始末を終えたら場所を変えるか、相手を変えるか…」


 降り際のその言葉は、一葉の耳にも届いていた。

 一葉は、焦りで汗ばむ手を懸命に動かしながらも、考える。きっと、兄が来たのだろう。たった一人で。男の「五番倉庫へ来い」という言葉を信じ、そちらに向かったに違いない。倉庫の裏に停車してあるこの車に気づくことなく。このままでは、兄が「始末」されてしまう。

 一葉の目尻に涙が浮かんだ。手首は、ずっと動かしている。一人になってからは、足の縄も何とかしようと試みている。しかし、どちらも、緩んだかと思えば締まり、一向に抜けられる気配がない。何も顧みず強引に動かす彼女の手足首には、はっきりと血が滲んでいた。


 時間がない。もう、既に手遅れなのかもしれない。そんな思いが、彼女の勝気な瞳から涙を溢れさせた。


「槙…槙…!」


 気づけば、そう叫んでいた。自分で叫んだその名前に、更に涙が零れる。


「槙!気づいて!此処なの…!」


 嗚咽交じりの声でそう叫びながら、後部座席のドアを不自由な足で蹴る。一葉の中の冷静な部分では、きちんと分かっていた。そんなことをしても、何の意味も無いのだと。しかし、自由になる気配の無い手足。この状況で、彼女に何ができるだろう。たった一人の家族を、今度は自分のために失うというのか。


 あのとき、彼の気持ちを受け止めていたら、こんなことにはならなかったのに。


「神様お願い……」


――これ以上、私から、大切な人を奪わないで。


 その瞬間、運転席の窓が、粉々に砕け落ちた。


 あまりの光景に、唖然とする一葉。かなりの音がしたはずだが、それすら耳に入らなかった。状況に頭がついていかないものの、反射的に後ずさる。

 すると、窓の外れた枠から白い手が、差し込まれ、ロックが解除される。一葉は、その光景をただただ張り詰めた表情で見つめるしかない。


 ついに、後部座席のドアが開かれた。

 一葉は、咄嗟に身を縮めた。反対側のドアまで後ずさる。するとその人物は、彼女と目線を合わせるかのように、車内を覗き込んだ。


「君が、深草一葉さんだね」


 柔らかそうな蜂蜜色の髪が、月光に透けている。切れ長の瞳が、痛ましげに細められた。


「…可哀想に。大丈夫、私は君を助けに来たんだよ」


 そう言うと、男は、紺色のスーツの懐から、ナイフを取り出し、一葉の手首の縄を、一気に切り去った。それから、「ごめんね」と断ると、足首の縄も同様に両断した。

 涙でぐちゃぐちゃになった顔も、ハンカチで綺麗に拭き取られる。

 一葉は、うわ言のように呟いた。


「槙が…兄が、危ないんです」


 男は、分かっているよ、と強いて柔らかく応じた。それから、一葉の方へと手を差し出す。


「お兄さんを、助けに行こう」


 兄を、助ける。そう、兄を助けなければ。

 一葉の黒曜石のような瞳に、また熱が戻った。


 白い手の平に、自分の荒れた手を重ねる。それから、震える足で立ち上がった。


 夜の海の香りが、吹き抜ける。一つに結われた黒髪が、強くはためいた。


「槙は、この中ですね」


 そう言うと、正面へ回り込むため、彼女は足をそちらに向けた。そんな、今にも走り出しそうな一葉を、男はそっと押さえる。


「…焦りは禁物だよ。ついておいで」


 そう言うと、男は、倉庫の裏側の小型の扉の方へ視線を向けた。



 

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