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たった一人の家族

 その日は、深夜から続く雷雨のせいで、高校も、中学校も、休校だった。何でも、台風が近づいていたらしい。生温い湿った空気が、まだ夏を思わせる、そんな九月のある日。

 槙は高校二年生、そして、一葉は、まだ中学校に上がったばかりだった。


 午後六時半少し過ぎ。二人は、居間でノートを広げながら、両親の帰りを待っていた。

 槙は、地元では有名な進学校に通っていたため、夏休み明けの実力テストに備えなければならなかった。一葉は、そんな兄を誇りに思い、自分も兄に近づきたいという意識が強かった。二人は殆ど無言だった。


 二人の母親、咲は、車で夫を会社まで迎えに行ってしまった。この雨で電車が止まってしまったのだ。彼女が家を出たのは六時過ぎ。それほど遠くない会社から戻るのは、恐らく七時前くらいだろう。

 二人が帰るまでに、夕飯の支度なり、お風呂の準備なり、洗濯物を畳むなり、しておくべきなのだろうか、と槙は迷ったが、そもそも彼は家事をしたことがなかった。一葉も同様だ。たまに手伝うことはあったけれど、頼まれたことしか満足にはできない。槙は、大人しく待っておこうと結論付け、またノートに向かった。

 午後八時半前、漸く呼び鈴がなった。しかし、そこに立っていたのは、両親ではなかった。涙を浮かべた母方の祖父母が、槙と一葉を強く抱きしめた。



――――……



「それから兄妹二人で暮らしてきたのか?」


 日向は軽快にハンドルを切りながら、澄ました顔で尋ねた。興味も同情も、その表情からは読み取れない。

 街灯の光が、次々に後方へと飛んでいく。

 槙は助手席でまっすぐ前を見つめていた。揺れも騒音もない車内にいては、まるで、進んでいる気がしない。

 槙は、両手をぐっと握った。


「あの、運転代わってもらえませんか?」


 日向はそんな槙を一瞥すると、にやりと笑った。


「今のあんたに運転なんてまかせられるか。冷静ぶってるのが余計に不気味だ」


 槙は、自虐的に笑うと、先の日向の質問に答えることにした。


「俺は最初、一葉だけは母方の祖父母のところに預けようと思ったんです。ただ、俺は世話になるわけにはいかないので、あの家で一人で暮らそうと。でも、一葉が納得してくれなかったので」

「…だろうな」


 日向は、短い相槌で先を促した。それに気を悪くすることもなく、槙はまた話を続ける。話をしている方が、辛うじて落ち着きを保てるのかもしれない。


「それで、あの家で、二人で暮らし始めたんですけど、やっぱり大変で。金銭的には、両親のおかげでそれほど困らなかったんですけど、俺たち二人とも家のことは殆どしたことがなかったので、最初のうちは失敗だらけでした」


 槙は、当時を思い出して、ゆっくりと目を細めた。表情が、その思い出の大切さを、物語る。


「毎朝弁当を作るために四時に起きてましたよ。今思えば、あんな不恰好な弁当なんて、かえって恥ずかしかったんじゃないかと思うんですけどね。友達に、馬鹿にされていないといいんですけど」


 そう言うと、槙は涙を浮かべて苦笑した。


「俺も奨学金を受け取るために、働きながら勉強していたので、一葉にはきっと苦労をかけてばかりでした」


 日向には、嫌という程に分かってしまう。いくら親の遺した保険金、財産があったとしても、そんなものはたかが知れている。これから教育を受けていきたいと願う子供二人の将来に、一体どれほどの足しになるというのか。

 槙は、きっと、血の滲むような生活の中で働き、そして寝る間を惜しんで勉強してきたに違いない。

 日向はちらりと槙を見遣ると、平坦な声で「…ご立派なお兄さんなことで」と呟いた。

 槙は、苦笑したまま「兄でいるしかなかったんですよ」と返した。


「俺は、最初にこの気持ちを自覚してからずっと、家族を壊してしまわないように、必死に隠してきました。誰にも悟られてはならないと。でも、結局神様は、家族を奪ってしまったんです」


 日向は槙の目を盗み見たが、その目は驚くほどに穏やかだった。


「一葉にとって、俺は最後に残された、たった一人の家族なんです。俺は、彼女の求める存在であり続けなければならない」


 日向は、はっとした。まるで、自分の心の声を聞いているかのようだった。そう、「彼女の求める存在」であり続けなければならない。でも、それは、槙が妹に向けている感情と同種のものなのだろうか。


 槙は、己を戒めるかのように低く呟いた。


「もう二度と、彼女を困らせるような真似はしたくない」



――――……



 辺りに闇が広がり始めたため、蜜華はそろそろ宿に戻ろうと無月に声をかけた。

 そのとき、彼女の携帯が着信を告げた。

 無月が視線で構わないと促したため、蜜華はすぐに通話ボタンを押した。

 ディスプレイに表示されていたのは「春乃宮日向」という名前。恐らく、無月の様子を心配してかけてきたのだろう、と推測した。


「はい、日向様、どうかされましたか?」


 「日向」という言葉に、自然と反応した無月は、聞くともなしに耳を傾けてしまう。

 そんな無月に、蜜華が気づくことはない。日向からの言葉を受け、丸く大きな目をさらに丸くして、言葉を荒げる。


「深草一葉というと…深草槙の妹の……錦港!?このすぐ近くではありませんか!」


 その名前に、無月の視線が、すっと細まった。

 同時に、蜜華は無月の手首を無礼にならない程度に握り、足早に歩き出した。

 周囲に控えている者に手で合図を送る。車をここへ持ってくるようにと。


「えぇ、此処にいる成宮の警備の者だけでは心許なく思います。すぐに藤泉院家までお送り致しますわ」


 そして、蜜華は、携帯をしまうと、歩きながら無月を見つめた。


「無月様、ご無礼をお許しくださいませ。しかしながら、猶予がございませんの。すぐに御自宅までお送り致しますわ」


 緊張の滲んだ声で、早口にそう言った蜜華は、先回りしてきた車の後部座席の扉を開き、促した。

 しかし、無月は乗ろうとしない。


「無月様?」


 焦った声で言い募ろうとする蜜華を、無月は厳しい目で見つめた。

 無月のそんな顔を、蜜華は初めて見た。ガラス玉のような瞳の奥に、深い青い光が瞬いたような気がした。


「蜜華、一葉さんがどうしたの?何故、私を安全な場所へ避難させようとするの。日向に、何が起こったの」


 蜜華は、答えるしかなかった。

 そもそも、無月の意思は、蜜華にとって絶対的なものである。しかしそれ以前に、この圧倒的な視線を受けて、背ける者など存在しない。

 蜜華は、日向から受けた情報を、漏らさず伝える。

 薄桃色の唇が、僅かに震える。色素の薄い睫毛も、小刻みに揺れていた。

 無月は、蜜華の手を包んだ。それから、淡く微笑む。


「大丈夫よ、蜜華」


 頭上から、ぼんやりとした光が差し出した。そろそろ月が、世界を照らし始めたのだろうか。月光の中の彼女は、もはや人とは思われなかった。


「蜜華、錦港へ向かうわ」


 その言葉は、蜜華の予想していた通りのものだった。理性が、それはならないと警鐘を鳴らしている。しかし、彼女に抗う術はなかった。


「はい、無月様の御心のままに」


 蜜華は、決意する。もし、彼女に何かが起こったときには、自分の命に替えてでも、お守りするのだ、と。



 

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