#6
6
「お帰り」
キッチンのドアの前で腕を組んだままクレイはサミュエルを出迎えた。
「一体何処ほっつき歩いてたんだ? 心配したぜ?」
それから腕を解いてサミュエルの背中を押してテーブルへと導く。
「晩飯できてるぞ。腕によりをかけた、これぞ、〈クレイズスペシヤル〉!」
出て行く際、キッチンのストーブに乗っていたシチューは最高に美味しかった。でも、最初にそれを見た時ほど幸せな気分になれないのは、エルンスト・オレンジの消えた死体のせいだ。
皿から救い上げるたびに幾度もスプーンが宙に停止して、サミュエルは考えずにはいられなかった。
(何処行っちまったんだよ、エルンスト?)
小刻みに震える銀のスプーン。
クレイはロールパンを千切りながらそんなサミュエルを横目で見ていたが口に出しては何も言わなかった。
サミュエルは父の豪奢なリビングルームに立っていた。ナイキのスポーツバッグを提げて。
床には塵一つない。あのキチガ滲みたパーテイなど存在しなかったかのようにピカピカに磨き上げられて美しい家具たちの影を映している。
背後で物音がした。
振り返ると、扉の前にエルンストが立っていた。
「そこにいたのか、エルンスト!」
この男を見てこんなに嬉しかったことは過去一度もなかった。サミュエルは素直に歓喜の声を上げた。
「捜したんだぞ! 一体、何処へ行っていたのさ?」
「俺も」
エルンストはのっぺりした声で答えた。
「探し物をしていたのさ。これ」
従兄弟が重そうに手にぶら下げていたのは血だらけの右足だった──
「うわーーー!」
汗グッショリになってサミュエルは跳ね起きた。
夢だと理解するまで暗闇の中でシーツを握り締めて震えていた。夢だと納得してからも震えは中々収まらなかった。
横を見るとポッカリ空間がある。
そこにいたはずのクレイ・バントリーの姿がなかった。
「?」
最初、バスルームかと思って裸足のまま部屋を突っ切り、サイザル織りのラグを敷き詰めた階段を降りてそっちを覗いてみた。
が、そこも空っぽだった。
暗い廊下を引き返そうとした時、玄関のドアの軋む音がしてクレイが帰って来た。
クレイは荒い息をして汗びっしょりだった。まるで、泳いできたかのように。でなきゃ、自分と同じように悪い夢を見たかのように。
「……クレイ?」
吃驚してサミュエルは叫んだ。
「サミーか?」
クレイも驚いたらしく闇を透かして見ながら喘いだ。
「起きてたのか?」
「おまえこそ──」
トランクスの上にそこらにあったシャツを引っ掛けただけの魅力的な姿で少年はクレイに駆け寄った。
「何処行ってたんだ? こんな夜中に?」
クレイは短い笑い声を立てた。
「夜中? 朝だよ、もう」
サミュエルの前を素通りしてキッチンに入ると冷蔵庫から牛乳を取り出す。
「見た通り、ジョギングさ。そうら、おまえの分だ、スパーキィ。おまえも喉が渇いたろ?」
スパーキィも自分用の青い皿に牛乳を入れてもらった。
冷蔵庫に寄りかかったままクレイは首に巻いていたタオルで乱暴に顔を拭った。
白いTシャツに灰色のジャージ。誰が見たってジョギング帰りだとわかるというものだ。にも拘わらず、サミュエルは訊かずにはいられなかった。
「いつも走ってるのか? こんな時間に?」
聞きながら考えた。クレイがいつもとどこか違って見えるのは、電気も点けない薄暗がりの中にいるせいか? それともラフな格好のせいだろうか?
東海岸スタイルを絵に描いたようにいつも隙のないクレイ・バントリー。
渚を犬を連れて散歩する時でさえ履いているのは、素足に青のヌバックのビット・モカシンとくる。それなのに今は──トレッキングブーツだって?
サミュエルの質問に、まあな、とクレイは答えた。
「気が向けば、だけど。夜明け前のこの時間帯が一番、浜は人気がないんだ。空いてていいぜ」
サミュエルはまた考える。声のせいかも。クレイの声ときたら今まで聞いた憶えがないくらいザラついている。
その聞き憶えのない声で今度はクレイが訊いてきた。
「おまえこそ、サミー、どうかしたのか? 顔色が悪いぞ」
「別に」
サミュエルは頭を振った。違っているのは俺の方かも知れない。
でも、それは仕方がない。昼は変な死体見て、夜は変な夢見て……
それで神経が過敏になっているんだ。
クレイはそのままシャワーを浴びに行った。サミュエルももうベッドへは戻らず、外に出て郵便受けの横に坐って朝刊が来るのを待つことにした。流石にこの時ばかりはそこに描かれた青い鯨に何か話しかけたい気分だった。
やがて、薄桃色の空と海を背負って新聞配達の少年が自転車を漕ぎ漕ぎやって来た。
「おはよう!」
少年は叫んでサミュエルの足元へ新聞を放り投げた。返事もそこそこに拾い上げるとその場で一ページ一ページ念入りに目を通す。
「ああ、良かった!」
読み終えたサミュエルは安堵で胸を撫で下ろした。
右足を切り取られた新たな青年の記事は何処にも載っていない。
朝食のテーブルではサミュエルはリビングルームのTVをつけっ放しにしてキッチンから始終画面を睨みつけていた。
「一体、何だって言うんだ?」
神経質に何度もリモコンのスイッチを押すサミュエルにとうとう堪りかねてクレイが尋ねる。
クレイは読み終えた新聞を畳んで、スクランブルエッグとベーコンが半分以上手付かずのままの少年の皿の横に置いてから、それぞれのカップにコーヒーを注ぎ足した。
「何か見たいニュースでもあるのか?」
「え? いや、そういうわけじゃないけど……」
流石にサミュエルはバツが悪くなった。
自分を見つめるクレイの緑色の瞳。
シャワーを浴びて着替えたクレイは、またいつものクレイに戻っていた。水色のピンストライプのリネンのシャツをゆったりと羽織って、裾は砂色のショートパンツから出している。
(やっぱりクレイはこういう格好が抜群に似合うな!)
サミュエルはうっとりと見蕩れてしまった。
「俺も、シャワー浴びてくる!」
椅子を引いてサミュエルは立ち上がった。長いこと郵便受けの横の地面に座っていたせいでくっついた草の切れ端が松材の床にヒラヒラ舞い落ちて、テーブルの下でスパーキィは一つくしゃみをした。
元々は漁師の家だったバントリー家のコテージにはバスルームは一つしかない。でもそのバスルームはため息が出るくらい素晴らしかった。青から紺に至る同系色のタイル(一個として同じ模様はない)がびっしりと貼り廻されている。
バントリー家のコテージには豪奢なマントルピースもないが、居間に取り付けられた薪ストーブの周囲の壁にもこの同じタイルのコレクションが使われていた。
クレイか、クレイの父が手ずから貼ったのだろうか? それとも元からこうだった? サミュエルは凄く興味をそそられた。
けれど、すぐ雨雲のように陰鬱な問題が心を真っ黒に塗り潰す。
(一体、何処へ行っちまったんだ、エルンスト?)
目一杯熱くしたシャワーを浴びながらサミュエルは考えた。
昨日、俺は確かにアレを見た。エルンスト・オレンジの罰当たりな死体。あの時点で、従兄弟はきっちりと死んでいた。死体が歩いて何処かへ行くなんて考えられない──
(どっちにしろ不可能だ。あいつは片足だったもんな?)
一瞬、サミュエルは自分のブラックジョークにニヤッとしてしまった。
タオルを腰に巻いていったん二階のクレイの寝室に戻った。
雫を滴らせながら、こんなことだからいつもママに叱られるんだと反省する。着替えを用意せずにシャワーを浴びる悪い癖。
ベッドの上に乗っていたナイキのスポーツバッグから下着を引っ張り出す。きちんと身につけたあとで気がついた。
「……これ?」
バッグは自分のバッグだった。これもまた、エルンストの死体同様プレローズ屋敷の居間から掻き消えて行方知れずだったはずなのに……それが、何故、ここにあるんだ?
「安心しろよ」
ほとんど心臓が止まりかけた。
振り向くといつの間にか、開け放した寝室のドアの前にクレイが立っていた。
クレイは穏やかに繰り返した。
「安心しろよ。エルンストは暫くは見つかりっこないから」
「どうして──」
サミュエルは硬直して立ち竦んだ。
本当は文末まできちんと訊きたかった。どうしてそんなことを言うんだ? 或いはどうしてそんなこと知っているんだ?
でも、口の中がカラカラに乾いて言葉が出て来ない。
一方、クレイはサミュエルのそんな尻切れトンボの質問に正確に答えてくれた。
「どうしてって、俺が埋めたからさ」
「──」
サミュエルはさっきからずっとクレイの美しい肩のラインを凝視し続けていた。
目を逸らすことができない。
細面で端正なくせして肩から胸にかけてこんなに逞しいのはレスリングをやっていたせいだ。
レスリングの心得があって、6フィート以上の背丈のクレイならエルンストの背後から容易に首を絞め潰せる……
ふいにサミュエルは自分もエルンストとほぼ同じくらいの身長だという不愉快な事実を思い出した。エルンストが5フィート13で俺は5フィート12……
クレイはゆっくりと寝室に入って来た。
これまで幾度となく自分の腰や肩に廻されたその太い腕、大きくて綺麗な手をサミュエルは目で追った。
「俺の願いはおまえに理解してもらうことだ。おまえにだけはわかってもらいたいんだよ。俺という人間を」
「クレイ?」
「俺は本気でおまえのことを思っている。それで、おまえのためならなんだってやるつもりだ。と言うか……実際、やってしまったんだけど」
クレイの言葉は熱に浮かされている人のように取り留めがなかった。どっちにしろ、サミュエルもほとんど聞いていなかったが。
サミュエルは近づいて来るクレイの姿だけを見ていた。
今やクレイはサミュエルの目の前に立っていた。
それは、知り合って4日目ともなれば充分に慣れ親しんだ距離だった。〝キスへのプレリュード〟。
サミュエルが我ながら馬鹿だな、と思ったのは反射的に目を閉じてしまったこと。宛ら、口づけを待つみたいに。ああ、そういや、こんな映画もあったっけ。〝死の接吻〟。
それで、つくづくと思った。クレイはエルンストの時みたいに隙を狙う必要はないぞ。今度ばかりは真正面から殺れる。
本当に恐ろしい人間がどういう種類かもこれでよぉくわかった。
もう、遅すぎるけど。
見るからに残虐で凶暴そうなイージー・ライダーどもと違って、クレイ・バントリーはあくまで優雅でノーブルだった。見てみろ、今だって……
嫌がらせない、抗わせない、それこそがこういう男の最も恐ろしい点なのかも。
湖面のようにピカピカ光っていた父の居間の冷たい床の上で、そうして、クレイ自身のラベンダー色のベッドの中でそうだったように、サミュエルは今度も自分が何であろうとクレイの求めていることを全て、喜んで受け入れるだろうとわかっていた。
キスも、抱擁も、愛撫も、殺人も……一緒だろ?
「なあ?」
クレイは片腕を伸ばしてサミュエルの首に巻きつけた。そっと引き寄せる。
「俺がどんなにおまえを思っているか、わかってほしい……」
「OK」
目を閉じたままサミュエルはちょっと微笑んだ。意外なほどしっかりした口調で自分がこう言っているのが聞こえる。
「わかってるよ、クレイ。それって、つまり、おまえは俺の十番目で、俺はおまえの六番目ってことだろ? でも、いいよ。おまえは優しかったから」
きっと最後の瞬間も優しく殺ってくれるはず。
「……なら、いいよ」