#4
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クレイはずっと約束した店のバー・コーナーで待っていた。
こちらもサミュエルの麻のジャケットに負けず劣らずビシッと決めて出て来た。
クレイ・バントリーが今夜のために選んだのは、白と紺の細かい千鳥格子の上着で、その下には群青色のB・Dシャツ、サンドベージュのチノパンツ。ネクタイは寒色系に一筋黄色を交えた横縞だ。
勝負に出る時、クレイはいつも横縞と決めている。幸運のオマジナイ、ラッキーボーダー。事実、背の高さによく映えて大抵の場合、彼に勝利をもたらした。果たして、今日はどうだろう?
クレイとしてはサミュエルが例によってちょっと目を伏せて、「超クールだ」と言ってくれるのを期待していた。でなければ小声で「ステキだな」。または無言で微笑む。以上三つの内どれでも構わない。
足元、卸したてのダーティバックの靴の横にはいつもながらスパーキィが寝そべっている。
明るい灰色の壁に緑の窓枠が印象的なここ、〈グリル・ホープ&ウィンドゥ〉はきちんと躾けられたお利口な犬なら店内何処にいてもOKだった。自身、ダルメシアンを飼っているオーナーのジョバンニ・ラルデッリはバントリー家とは古くからの知り合いで──実のところ、ヨチヨチ歩きだったクレイが海で溺れかけた時の詳細を記憶している現存する三人の人間の一人だった。(他の一人は父、ジェイムズ・バントリー。もう一人はクレイ本人)
そのせいかどうか、ラルデッリは毎年一回はそのことを話題にしないと気が済まない。 そういうわけで目下のクレイの心配は、今夜デートの最中にオーナーが自分たちのテーブルにやって来てその話を持ち出さなければいいが、というものだった。誓っていうが、自分が無様に溺れたのは後にも先にもアレ一回きりだ。サミーは信じてくれるだろうか?
カウンターの横の丈の高い窓は通りに面していて、歩いている人たち──浜へ降りていく人、こっちへやってくる人──一人残らず見渡すことができた。
クレイとスパーキィは長い夕焼けから始まって絶妙なグラディションで少しづつ変化して行く七月の美しい海辺の風景を見つめ続けた。
時間と数十人の人──サミュエル以外の誰か──が彼らの前を通り過ぎたが、一人と一匹は決してその場を動こうとはしなかった。
やがて、再び世界が朝の光に包まれるとクレイは浜を突っ切ってやって来た。
閉店まで〈グリル・ホープ&ウィンドゥ〉のスツールに座り続けてクレイが発見したのは、オーナーは昨夜は例の話をしなかったな、ということ。
そりゃそうだろう。いくら陽気で無神経なラルデッリでもそんな残酷な真似はできっこない。現実に難破しかけている男を目の当たりにしては過去の遭難話なんて気の毒過ぎて持ち出せるもんか。
実際、昨夜の自分はオムツをつけてアップアップやってた時より遥かに哀れな顔をしていたに違いない。
(クソッ……)
念のため確認したが、いつもの浜辺のサミュエルの場所は空っぽだった。
クレイはプレローズ屋敷のポーチに立って辺りを窺った。
一昨日と変わった様子はなかった。ドライブウェイに車は見当たらない。と言うことはあのイカレた従兄弟も不在ってわけだ。
グルッと屋敷の周辺を巡って車庫も覗いてみた。そっちはきっちりと扉を閉めて斡旋してあった。
クレイはポーチに戻って呼び鈴を押した。
何の反応もない。
二、三度繰り返した後で、試しにドアノブに手を置くと──開いた。
瞬間、クレイとスパーキィは顔を見合わせた。
「──」
クレイは体を斜めにして中に入った。
屋敷の中は森閑としていた。が、なにせ古くて広いので今日に限ったことではない。
リビングルームに足を踏み入れて、そのあまりに酷い有様にショックを受ける。
パーティの後を絵に描いたよう。散乱するビール缶やワインの空瓶、汚れた皿、チーズの欠片。スナック類の袋が破れた風船よろしく床のあちこちに散っている。
前々日ここで、まさにこの床の上で、自分とサミュエルは愛し合ったのだと思うと耐えられない気がして目を逸らした。
「?」
階上で微かな音がする。
ひどく清らかな音だったので最初はウィンドウ・ベルかと思った。それから、すぐにシャワーの音だと気づく。
果たして。サミュエルはそこにいた。
ドアを開け放したまま、ロブ・プレローズのメインゲストルームのバスタブに浸かって目を閉じていた。
両足を組んでバスタブの縁に乗せているので嫌でもあの美しい足の裏の刺青が目に入る。
バスルームのタイルの色は白と黒。黒髪のサミュエル自身が凝ったモザイク模様の一部のようでクレイは見蕩れてしまった。
ドアの前で暫く惚けたように突っ立ってそっちを見ていた。
どのくらいそうしていただろう。漸くのろのろとクレイは口を開いた。
「無用心だぜ、サミー。表、鍵が開いてる」
「ああ」
物憂くサミュエル。まだ目は瞑ったままだ。ここでクレイの怒りが突如燃え上がった。
「いい気なもんだな? デートの約束すっぽかしてパーティに鞍替えか? 馬鹿な俺とスパーキィは一晩中……クソッ」
いったん息を吐いて、額に落ちてくる邪魔な髪を掻き上げると、
「まあ、それはいいさ。どうせ俺は憐れな十番目だよ。だけど、せめて、キャンセルの電話くらいくれても良さそうなもんだ!」
「……電話か」
やっと目を開けてサミュエルは言った。
「俺も、かけたかったよ、電話……」
声が引き攣る。サミュエルはそのまま頭ごとバスタブの中に体を沈めた。クレイは一足飛びに市松模様の床を突っ切ると両肩を掴んで少年を湯船から引っ張り上げた。
サミュエルは泣いていた。
遅まきながらクレイも事の異常さに気がついた。
「どうかしたのか、サミー? 何があった? 一体──」
終いまで問う必要はなかった。引き上げたその上半身にくっきりと残っている痣……
目を凝らしてよく見ると、手首や足首にも。それらは明らかに縛られた痕だし、体の方は……
「サミー? これは……これ……」
言葉にならなかった。
「おまえの言った通りさ」
サミュエルは乾いた声で言うのだ。全身びしょ濡れのくせに。
「エルンスト・オレンジ。あいつはホント、サイテーのクソガキだ。俺を借金のカタに売りやがった。ロクでもない売人連中に」
クレイの方は見ずにバスタブに目一杯張った水を見ている。
「奴ら、俺を……よりによってパパの家で俺を……」
「サミー」
それ以上言わせまいとしてクレイは抱き寄せた。
「ごめん、クレイ」
抱きしめられたせいでくぐもった声でサミュエルは謝った。
「俺、本当、電話したかったんだ、おまえに」
「やめろ」
サミュエルの面積分、切り取られた影のようにクレイのシャツに見る見る染みが広がって行く。が、構いはしなかった。クレイはもっと強く、自分自身の内側にサミュエルが食い込んでしまうほど強く、腕に力を込めて抱きしめた。
「俺こそマヌケもいいとこだ。阿呆面下げて、犬みたいに待つことしかしなかったなんて。もっと早く、おまえが遅いって怒鳴り込んでりゃ……」
悔やんでも悔やみきれない。
「こんな真似させなかった。絶対、こんな酷い真似、誰にも」
「無理だよ」
ここでサミュエルはクスッと笑って、
「おまえが来たところで、連中は──」
突然、さっきまで思い出せなかった古い映画のタイトルを思い出した。
「〝イージー・ライダー〟並みにイカレたジゃンキーどもだったんだぜ。おまえまで怪我してたら、俺、立ち直れないよ」
「おい、俺を見くびるなよ。こう見えても高校時代、レスリング部で鳴らしたんだ」
「本当?」
クレイ・バントリーはレスリングをやるには細くて長身過ぎるようにサミュエルには思えた。尤もそのことはクレイ自身三年間悩み続けた問題ではある。
「何ポンドの階級? 対戦成績はどうだった?」
クレイは咳払いをして、
「まあ、俺のことは置いといて、スパーキィを嘗めんなよ! あいつだって──あいつこそ〝K9〟ばりのスーパードッグなんだから」
バスルームのドアの前にちょこんと座っているスパーキィを二人は一緒に振り返った。
穏やかな毛むくじゃらのその姿にサミュエルは心底癒される思いがした。それから、自分の体にぴったりと廻されたクレイの腕にも。
どっちも金色で、陽だまりの匂いがする。
「何がして欲しい、サミー? 今、俺にできることなら何だって力になる。警察に電話するかい?」
クレイが改めて申し出た時にはサミュエルはかなり落ち着きを取り戻していた。
何処からか見つけてクレイが持って来てくれた父のバスローブを羽織ってバスタブに浅く腰掛ける。
スパーキィは相変わらずバスルームのドアの外側にいて濡れた床の上に立つご主人とその友人の様子を神妙な面持ちで見守っていた。
(フフ、どうやらアイツはあんまし水が好きではなさそうだな?)
サミュエルは視線を犬からクレイに戻すと苦笑して首を振った。
「警察? 連中が何をしてくれるって言うんだ。大体、奴ら、今それどころじゃないだろ? 例の連続殺人事件で忙しいって時に、ありふれたレイプの一つや二つ……」
サミュエルは目を瞬いた。
「それに、今回のことは俺にも責任があるんだ」
自分がのん気にもあんな連中、屋敷に入れなきゃこんなことにはならなかった。そして、それ以上に、あいつ、エルンストを受け入れなければ──
「あのクソッタレ! ブッ殺してやりたい!」
クレイの眼差しに我に返った。急いで、クレイが何か言う前に言ってしまう。
「警察なんかより、クレイ、俺、一つだけ頼みがあるんだ。聞いてくれる?」
「勿論さ! 言ってみろよ」
「おまえの家に行きたい」
「!」
クレイはたまらなかった。見開かれた少年の瞳は硝子のようで次の瞬間にも砕け散ってしまいそうだ。今すぐ飛んでいって抱きしめてやりたくなる。実際、クレイはそうしたが。
「俺、今、ここにいたくないよ」
クレイの腕の中でサミュエルは呟いた。
「おまえのベッドで眠りたい。なんせ昨夜は一晩中、寝てないんだ。あ、当然か。レイプされてて眠れる馬鹿いやしないか」
「やめろ、サミー」
クレイはサミュエルの両肩を揺すって優しく叱咤した。頬を寄せると少年の髪がまだ濡れているのがわかる。
「いいとも」
心からクレイは言った。
「お安い御用さ、俺んちへ来いよ! そして、100年でも眠ってていいぜ、俺のベッドで!」
かく言うクレイ自身、昨夜は一睡もしていない。
ずっと、つれない 誰かさんを恨んで……待ちぼうけを食わされていたんだからな?