#3
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村で一軒しかない書店のウィンドゥ越しにクレイはそれを見た。
向かいの道路沿い、パコダの木の下に停めてある西海岸風のド派手な車とその中に座っている二人連れ。
運転席にいるのはサングラスをかけた赤い髪の男で助手席の方は──サミュエル・ケリーだった。
二人は何やら親密そうに頭を寄せ合って話し込んでいる。
「何が」
手に取っていたR・マックロスキーの絵本を棚に戻しながらクレイは口の中で呟いた。
「強引なのは俺が初めてだよ。あの口説かれ上手め……!」
ハッとしてサミュエルは振り返った。
黄金の毛玉が──またしても──降って来る。そして、その後ろに立つブロンド。
「……クレイ?」
飛び込んで来た犬の衝撃でサングラスをずり落とした隣の赤毛は口汚く罵った。
「何だよ、このクソ犬はよ!」
「ハイ、サミー!」
わざと無頓着にクレイはスパーキィのリードを引っ張った。
「よせ、スパーキィ。デートの最中に悪いぞ」
勿論、腹の中は煮えくり返っている。連れの男も事の次第を察したようだ。
「ははぁ、そういうことか?」
スパーキィに踏みつけられた髪を整えながらサミュエルを振り返って、
「相変わらずモテモテだな? こっちでもこの手の連中に付き纏われてんのか?」
赤毛はサミュエルの耳元へ唇を寄せた。
「また、俺がブチのめしてやろうか?」
これ見よがしに少年の肩に腕を回すと、
「な? いつだって俺はおまえの頼もしきボディガードだもんな?」
「よせよ、エルンスト」
「邪魔したな」
クレイは踵を返した。もう充分だ。
「あ、待って、クレイ!」
サミュエルはローライダーから飛び降りて追いかけて来た。
一方、クレイは決して歩調を緩めず、振り返りもしないで、きっぱりと言った。
「俺のことなんか気にするなよ。それより、早く戻ってやりな。さぞかし寂しがってるぜ。おまえの──十一人目が」
そこでやめておけば良かったものを。
だが、やっぱりやめられなかった。捨て台詞が口を突いて出る。
「ったく、いい好みしてんな? あんなのがいいのか? 信じられないぜ」
追いついて並んで歩いていたサミュエルが一瞬ニヤッとしたが、それを見逃すクレイではなかった。
彼は足を止めた。リードがピンと張ってスパーキィが哀れな鳴き声をあげる。
「何が可笑しい? 振られた野郎の苦悩を見るのが快感か? ほんと、外見じゃわからないもんだな。おまえもアイツに似合いのクソガキってわけだ。知らなかったぜ」
「俺も知らなかったな」
サミュエルも負けていなかった。
「あんたがこんなに短気で早トチリだとわさ? おまけに了見も狭い。あんたこそサイテーなクソガキだぜ!」
「何だと?」
「ちゃんと話を聞けったら!」
サミュエルは素早く車の方を振り返った。親指を突き立てて、
「エルンスト・オレンジ。ありゃ、従兄弟だよ。断じて十一番目なんかじゃない」
クレイは暫く無言だった。
無言のまま、首吊り状態のスパーキィを見かねて飼い主の手からリードをひったくったサミュエルを眺めていた。スパーキィはと言うと、サミュエルの足の間を嬉しそう跳ね回り、濡れた鼻を手に押し付けて素直に感謝の気持ちを表している。 それで──
クレイはこういう風に言うのがやっとだった。
「従兄弟だってぇ? 全然似てないぜ?」
スパーキィの首を掻いてやりながらサミュエルは澄まして答える。
「よく言われるよ。幸運なことに?」
それから、その従兄弟について、今朝突然やって来て自分も吃驚したこと、暫く置いて欲しがっていること等、ざっと説明した。
「まあ、屋敷は広いからあっさり断るわけにもいかなくて。でも、俺もあんまし嬉しくない。エルンストはおまえの指摘通り──趣味のいいやつじゃないし」
「いや」
クレイは咳払いをした。
「えーと、俺が言いたかったのは、その、つまり」
「実際、素行悪いんだ。ママにはあいつと付き合うの禁止されてる。そうだな、あいつこそ、ほら、サイテーのクソガキさ」
クレイは潔く頭を下げた。
「謝るよ、サミー。俺は酷いことを言った。ごめん」
「俺も言ったよ?」
赤面しているクレイをサミュエルは小首を傾げて見つめている。明らかに面白がっている様子だった。
だが、スパーキィを放して立ち上がると一転して神妙な面持ちで切り出した。
「会えて良かった、クレイ。 何度も電話したんだぜ?」
「俺に? 何度も?」
それはつまり、今朝別れてからって意味か? キリムの上で一晩中一緒に過ごした後で、もう何度も? クレイは再び天国が見えたような気がした。霧の向こうに、門だけ、それもぼんやりとではあるが。
「うん。良かったら、今夜、ディナー食べに行かないか?」
今、目を伏せて頬を赤らめているのはサミュエルだった。
「だけど、あいつはどうするのさ?」
思い出してクレイはそっちへ目をやった。両手を頭の後ろに組んで運転席のシートに凭れている赤毛の従兄弟。
「知るもんか」
きっぱりとサミュエルは言い放った。
「俺は居場所を提供するだけで、それ以上は関係ない」
クレイの顔に満面の笑みが広がる。同時に肩をちょっと竦めたのは、再び見え始めた天国の門を意識したせいかもしれない。
かの文豪に諭されるまでもなくその門の狭さについてクレイ・バントリーは重々承知していた。
夕刻、自室に使っている二階のメインゲストルームでサミュエルは念入りに出かける支度をしていた。
プレローズ屋敷に滞在して一週間。サミュエルは今でもまだ時折、慌てて窓を閉めたくなる。海の水が窓枠から零れ落ちてくる気がして。
そんな美しい妄想に囚われるほど父の屋敷は海に侵蝕されている。
(侵蝕……)
その言葉にクレイを思い出した。
何のスポーツやってるのか、今夜、絶対聞き出さなくっちゃな。
細面で端正な顔からはちょっと想像もつかないくらい彼の腕が太いこと、俺はもう知っている……
明かりを消したリビングルームは海の底みたいで、俺の顔に零れたクレイの金の髪は月の光とおんなじ色をしてたっけ……
「めかしこんでるじゃないか、デートか?」
いきなり入って来たのはエルンストだった。
「ノックぐらいしろよ」
檸檬色のネクタイを結びながらサミュエルは心の中で罵った。
(ホント、サイテーのクソガキだぜ。)
「お相手は差し詰め──昼間のあのお坊ちゃまか?」
エルンストはベッドをぐるっと廻ってサミュエルの横に来るとネクタイを引っ張った。
「おまえ、あの手の正統派に弱いよなぁ。金髪、碧眼、長身の男前。セレブの親を持つスノッブなワスプのボンボンってか?」
サミュエルは頭を反らせてネクタイをひったくった。
「ケッ、連れてる犬がゴールデンレトリバーとくりゃハマリ過ぎもいいとこだ」
サミュエルは鏡の中の自分の襟元にだけ意識を集中させる。クレイはこの色好きだろうか? 気に入ってくれるかな?
「で? おまえのその好みは……アマンダ譲りってわけね?」
「いい加減にしろっ!」
流石に我慢できなくなってサミュエルは叫んだ。エルンストはベッドに腰を下ろして歪な笑みを浮かべている。
「おまえのママが結婚した時にゃ、超玉の輿って我らが親族一同沸き返ったらしいもんな? 俺のお袋なんて今でも二言目には『アマンダは上手くやった』って愚痴ってるぜ。盛大な結婚式、夢のような新婚生活、嵐の離婚劇の果てに、慰謝料ガッポリぶん盗って──今度は莫大な遺産と来た」
エルンストは猫撫で声で訊いてきた。
「なあ? この屋敷も含めて……プレローズ家の所有物は全ておまえのものになるってのは本当か?」
「知らない」
吐き捨てるようにサミュエル。
「俺は未成年だし、その件ならママか管財人の弁護士にでも聞いてくれ。どけよ」
エルンストはわざと鏡と少年の間に立ち塞がった。
「そう邪険にするなって。羨ましがる権利くらいは俺にだってあるさ。俺はこんなに毎日毎日、金の工面に四苦八苦してるってのに、可愛い従兄弟のおまえときたら、この先一生その手の苦労とは無縁だってんだから」
結局ネクタイはエルンストが結んでくれた。でもサミュエルはちっとも嬉しくなかった。
「誰でも、おまえみたいな生活してたら金に困るってもんさ。薬とギャンブルの二重漬け。これじゃどんな遺産受け継ごうと同じだろ? すぐ破産しちゃうよ」
「何だと?」
「俺が知らないと思ってんのか? ママも心配してる。メリッサ伯母さんのためにもそろそろまっとうな生き方するべきなんじゃないのか?」
エルンストはいったん開きかけた口を閉じた。暫くサミュエルを見つめていたがホウッと息を吐く。
「……わかったよ」
この態度にサミュエルは内心驚いた。絶対に従兄弟は怒り出すだろうと──生意気なことを言うなと怒鳴り返してくるものと予想していたから。
今、エルンストはむっつりと押し黙ったまま客用ドレッサーの鏡の中の、念入りに髪を整えている年下の従兄弟を凝視している。
次に口を開いた時、エルンスト・オレンジの声の調子は先刻までとは全く違っていた。
「話は変わるけど、サミー、今夜ここへ友人呼んでパーティ開きたいんだが──構わないよな?」
「え?」
「おっとっと、わかってるって。約束する。破目は外さない。勿論、この家の物にも一切手は触れないから、いいだろう?」
「──」
サミュエルは迷った。だが、最終的に、どうせおまえはおまえで外でお楽しみなんだし、と言うエルンストの言葉に折れた。
「OK、好きにしろよ」
サミュエルが承諾したのとほとんど同時に外のドライブウェイの小石が軋む音がして車が入って来た。
サミュエルは思った。
(チェッ、エルンストめ。どっちにしろ事後報告だったくせして。)
口に出してはこう言った。
「おい、おまえのご友人とやらがお着きのようだぜ?」
「みたいだな」
エルンストはそそくさと階下へ降りて行った。
散々迷った末決めた、麻のジャケットに腕を通しながらサミュエルが階段を降りて行った時、その友人たちはまだ玄関ホールに屯していた。
一見して、エルンスト同様、素行の良くない連中だった。
(よくこんな格好で美しい島内を恥ずかし気もなく歩けるもんだな?)
サミュエルは心底呆れた。一人は袖を切り刻んだTシャツに革のベスト。もう一人は鋲を打った革ジャケットを腰に縛りつけ、裸の上半身には背中や肩や胸にざっと見ただけで五つも刺青がある。
まるで古い映画から抜け出て来たみたいだ。母と一緒に見たその映画の題名を、この時どうしてもサミュエルは思い出せなかった。一体、従兄弟はこんな連中と何処で知り合うんだろうと考えながら階段の最後の数段を駆け下りる。
エルンストも交えた三人は全く動く気配がなかった。
ホールを横切って来るサミュエルをじいっと見つめている。
「へえ、こいつが?」
「ああ。俺の従兄弟のサミュエル・ケリーだ」
「ふーん、おまえってイカレた法螺吹きだと思ってたけど、こりゃ謝らなくっちゃな! 中々どうして……触れ込み以上だ」
連中は挨拶もしなかったし、サミュエルもそのつもりはなかった。脇を摺り抜けて玄関扉の取っ手に手を置いた際、一言だけ。
「じゃ、ごゆっくり」
「ああ、そのつもりさ。ゆっくりと──」
一人が扉を押さえたのでサミュエルは驚いてそれをやった男の顔を見た。
「──楽しもうじゃないの」
「何の真似だよ?」
サミュエルは従兄弟の方を振り返った。
「エルンスト?」
エルンストは肩を竦めた。
「仕方がねえだろ?」
別の一人──扉を押さえてない方──がエルンストに代わって説明してくれた。
「こいつは俺たちに借りがあるのさ。それなのにもう、どうしたって返済できないらしい」
この段階でサミュエルはほぼすべてを悟った。一方、往生際の悪い従兄弟はこの期に及んで言い訳をしだす始末。
「おいおい、人聞きの悪いこと言うなよ。俺は3分の2は清算した。残りのちょっとばかしが、どうも……」
「何がちょっとばかしだ、よく言うぜ!」
扉を抑えている男が言う。
「で、俺たちは取引をしたのさ。野郎、可愛い従兄弟がいるって言うじゃないか。そういうことなら話は早いや。俺たちは旅の途中で先を急いでるし、男の子でも女の子でも要は上玉なら大歓迎さ!」
再び扉を抑えていない方、
「俺たちときたら、そりゃもう慈悲深い質なんだ!」
「ふざけるなっ!」
サミュエルはエルンストに飛びかかった。胸ぐらを掴んで寄木細工の美しい床に引き倒すとそのまま馬乗りになって殴りつける。
「どうして先に言わなかった? 金なら貸してやる! それを、こんな──」
「本当かよ?」
殴られているにも拘わらずエルンストは微笑を漏らした。
「さっき俺が申し出てたら貸してくれたか、おまえ?」
「!」
サミュエルは殴るのをやめた。数秒間それについて考える。そんな様子を見てエルンストは勝ち誇ったように叫んだ。
「そうら見ろ! 俺だって馬鹿じゃねえ。おまえが俺なんかに金を貸してくれるはずないってことぐらいわかってるさ!」
「エルンスト……」
「それに、借りたら返さなけりゃならなくなる。サミー、俺は、金輪際おまえに借金なんかしたくないんだよ」
エルンストは床から首を上げて、乱れた黒髪が被さっている年下の従兄弟の耳元で囁いた。
「これなら、なあ? 返さなくって済む。単純明瞭で手っ取り早いだろ? ケリをつけるにはもってこいさ!」
「畜生! ぶっ殺してやる!」
叫んでサミュエルは握っていた拳を開くとエルンストの首に巻きつけた。
本気だった。怒り狂っていて、頭の中が真っ白になり、指が千切れるくらい渾身の力を込めて絞めた。 ここに至って、漸く他の二人が動いた。
後ろからサミュエルを羽交い絞めにしてエルンストから引き離す。
「おいおい」
やけに間延びした声。もう扉を押さえていないのでどっちがどっちだかサミュエルには区別がつかない。
「従兄弟喧嘩はそのくらいにしとけって。ゲストをほっとくもんじゃないぜ、坊や?」
「揉めるんなら後で存分にやってくれ。尤も、おまえさんにそんな元気が残ってればの話だけど、な?」
後は耳障りな笑い声と、喉を押さえて床を転げまわっているエルンストの激しい咳の音に掻き消されて、目の前の二人が何を言っているのかサミュエルにはもう全然聞き取れなくなった──