#2
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別荘への道を意気揚々と歩いていたクレイは、途中、一度だけ声をかけられた。
「ハイ、クレイ!」
茶色い髪を短く刈り込み、その髪とほとんど同じ色に日焼けした三〇代半ばの男性。
バミューダパンツに鯉の模様のアロハシャツ。この格好からはちょっと想像できないかも知れないが渋いハンサムだった。両手に黒いゴミ袋を下げている。
「この間は渚の清掃活動に参加してくれてありがとう! また頼むよ!」
傍らの少年にも笑顔で頷いてみせると足早に浜へ降りて行った。
「誰?」
「ジェフ・ペッカーさんて言って……いつもああやって暇さえあればビーチの掃除をしている善人だよ。本職はスキューバーダイヴィングのインストラクターで店も経営してる」
いい機会だと思ってクレイは訊いてみた。
「ダイヴィングはする?」
「うん。でも、サーフィンの方が好きだ」
やっぱりな! 少年の肩の辺りに目をやりながらクレイは笑いを噛み殺す。
「まあ、もしダイヴィングをしたくなったら言ってくれ。俺はさっきのペッカーさんの店の永久会員だからさ、用具のレンタル料金はいつでも二〇%オフなんだ」
白いペンキの剥げかけた木造のコテージが視界に入るや否や、サミュエルは心底感じ入ったという風に小首を傾げてため息を漏らした。
「ワーオ……素敵だな!」
「プレローズ屋敷とまではいかないけどな。〈見張り台〉もないし。でも、まあ、悪くないよ」
事実、クレイは、元漁師の持ち家だったこの小さな家がボストンの実家以上に大好きだった。
クレイが鍵を開けている間、サミュエルは青い鯨が描かれたブリキの郵便受けをしげしげと見つめていた。
狭くて居心地の良い居間のソファにサミュエルを座らせクレイはキッチンへ向かう。
「親父さんは不在なの?」
「うん。今年は俺だけ。親父は旅行中さ。曰くハネムーンってね。でも、おかげで好き勝手できる」
「浜辺で拾った男の子、片っ端から連れ込めるし?」
クレイが振り返ると、いつの間について来たのかキッチンのドアの前にサミュエルが立っていた。
眩しい陽光を纏っていたさっきまでとは違って、薄暗い室内で見るその姿は全くの別人に見える。
浜辺のサミュエルは純粋で子供っぽかった。今、樫材のドアに凭れている少年はゾッとするほど悪魔じみていた。
(OK、受けて立とうじゃないか。)
クレイは荒々しく冷蔵庫を閉めると向き直った。
「おまえの方こそ、まさか、ついて来るとは思わなかったぜ、こうも簡単に」
「へえ? 誘ったのはそっちだろ?」
サミュエルは口を尖らせた。クレイは少年がしきりに引っ張っているマドラスチェックのシャツに目をやった。緑、黄、ピンク、橙……その下の群青色のサーフパンツは、貝殻を敷いた小道を並んで帰ってくる間ににとっくに乾いているはず。
「今までは誘われても容易には靡かなかったじゃないか。俺で七人目だっけ?」
サミュエルの顔が怒りで紅潮した。
「〈見張り台〉が付いていないって? 聞いて呆れるぜ! ずっと俺のこと見てやがったな?」
「いつも見てたさ。この一週間……ずっと……」
「!」
クレイの率直な返答は少年を面食らわせたようだ。
サミュエルは怒鳴るのをやめて、両手の親指をサーフパンツの端に引っ掛けると訊いてきた。
「……どうして見てたのさ?」
実際のところ訊いてみたくてたまらなかったのはクレイの方だ。
それで、クレイはそうした。
「おまえは、どうしてついて来たんだ? 七人そうやったみたいに、何故、あの場で──焼けた砂の上できっぱりと拒絶しなかったのさ?」
「質問に質問で答えるなよ。マナー違反だぞ、そういうの」
サミュエル・ケリーの瞳が菫色の闇の中でキラキラ燦いている。さっき二人して浜に置き去りにした夕焼けの名残みたいに。
クレイはあっさりと観念した。降参の印に両手を挙げると、
「言わせたいのか? おまえ、目立ってたぜ。一週間思いつめて……もうこれ以上耐えられなくて……玉砕覚悟で突撃したんだ」
「ふーん」
と、サミュエル。
「いつも? こんな風に口説くの? だとしたら──あんたの方こそ撃墜率100%だろ?」
少年はクレイから目を逸らせた。俯くと髪が黒雲のように額に被さる。
「俺、初めてだよ。あんたみたいな人。だから、ついてきたんだろ?」
その後、もっと小さな声で少年は囁いた。
「こっちこそ、言わせんなよ……」
二人はクレイのコテージのこじんまりしたキッチンで仲良く夕食を食べた。
予め冷蔵庫で冷やしてあった胡瓜とイカのマリネ。急いで茹でたパスタ。ミニッツ・ステーキにトマトのサラダ。他にはチーズだけという簡素なディナーだったが二人とも充分満足だった。
クレイはワインを勧めたがサミュエルはクラブソーダーでいいと言い張ったので、クレイもそれに倣った。
こうして、楽しくてぎこちない夕食が終わるとすぐサミュエルは帰ると言って立ち上がった。
「じゃ、送ってくよ」
クレイが椅子を引くと、テーブルの下で食事の間中ずっとおとなしく寝そべっていたスパーキィが慌てて這い出して来た。
「こんな夜道、おまえみたいなのを一人で帰すわけにはいかないもんな」
闇の中に例の右足好みの変質者が潜んでいないとも限らない。今やクレイは本気でその可能性について心配し始めていた。
「真昼間でさえ七人ってんだから……」
言い出し難そうにサミュエルが訂正した。
「あのさ、九人なんだ。正確には」
「やれやれ」
二人と一匹は夜の道をプレローズ屋敷まで取って返した。
クレイの別荘から時間にして10分くらいの距離だ。
実際には5分で充分だったかも知れない。でもクレイは、そしてサミュエルも、決して急がなかった。 急ぎたくなかった。
道沿いの家々の茂みからバラの香りが漂って来る。夜霧と潮風に混じって特性の香水のように二人の鼻腔に満ちた。幸福の匂いに一番近い気がした。
クレイはこっそり考えた。きっと、空の満月の匂いも混じっているに違いない。
のろのろと歩いたせいで何人もの人と擦れ違う破目になった。
自転車に乗った少年の一群。10代の恋人たち。銀髪の初老の紳士。壮年の夫婦。灰色の猫。
猫が首に結んでいた細い革紐の先で金の鈴がチリンと鳴った。それから──
野兎が一匹、二人の前を横切って駆けて行った。
あまりにもいきなりだったのでスパーキィは吠えることすら忘れていた。
かくして行き着いたプレローズ屋敷である。
遠くから眺める以上に、間近で見るその邸は壮麗で美しかった。
この地方独特の、木を薄くウロコのように重ねた外壁は風雨に晒されて本来の茶色から灰色に変わっている。柱やポーチや窓枠、そして見張り台は真っ白に塗られて、玄関横には島の古い屋敷の例に漏れずちゃんと建築年号が掲げられていた。
《 1770 》
「良かったら上がれよ。どうせ、こっちも俺一人だから遠慮はいらないぜ」
時代を重ねた玄関扉の前でまっさらなサミュエルがそう言ってくれた時、クレイは感動でまともに返事もできなかったほどだ。
コロニアル復興様式の外観同様、屋敷の中も重厚で優美だった。
白い壁に蜜蝋色の床と天井がどこまでも続いている。海の匂いの染み込んだひんやりした廊下を歩きながらクレイは尋ねた。
「一人って……他には誰も住んでいないのか?」
「うん。親父の両親は親父が二〇代の頃に相次いで亡くなってて、以来ずっと親父が一人で管理して来たって話だ。俺のママとの短い結婚生活を覗いては、ね」
居間の茶色い革張りのソファに二人は腰を下ろした。
サミュエルはすぐに冷えたアンバーエールの6パックを冷蔵庫から出して来た。
(100年来の恋人同士に見えなくもないな?)
マントルピースに置かれたアンティークの鏡。そこに映った自分たちを盗み見てクレイは内心まんざらでもなかった。鏡の下、銀の写真立ての中から微笑んでこっちを見ている人がいる。
「カッコイイな。 あれ、親父さん?」
サミュエルは露骨に顔を顰めた。
「タイプかい、あんなのが? よしなって!」
一缶目を飲み干しながら、指を振った。
「泣きを見るってママなら言うぜ」
写真の方は見もしないで、
「ひでぇ男だったってさ。海しか愛していない、冷たくて自分勝手でわがままな永遠のお坊っちゃま。ママは終いには徹底的に憎んでた。赤ん坊の俺にも酷い虐待したって」
「え?」
ギョッとしてビールの缶を落としそうになるクレイ。
そんな動揺を知ってか知らずか、サミュエルはさりげない調子で続けた。
「そもそもママに離婚を決心させた一番の理由こそ、それ、親父の俺への虐待行為だったらしい。まっ、幸か不幸か、小さすぎて俺はそのことは全然覚えてないけどね」
元夫の死を知らされた時、アマンダ・ケリーは息子の前できっぱりと『天罰よ』と言い切ったそうだ。
「酷い死に様だったんだ」
さっきから愛犬の背中ばかり見つめているクレイにサミュエルは囁いた。
「場所はサイアスコンセット沖の魔の海域──ほら、大昔、イタリアの客船が真っ二つになったあの辺だ。海難事故にはつきものらしいな? 波に弄ばれて岩なんかに叩きつけられるだろ? 上がった死体、見れたもんじゃなかったって」
「もうやめろよ」
「あれ? スプラッターものは嫌いかい?」
そういう口調を浜辺でも聞いたな、とクレイは思い出した。クレイはボローニャソーセージは嫌いかい?
「そうじゃなくて」
今、クレイは砂に汚れた自分の青いヌバックを見下ろす代わりに少年の瞳をしっかりと見返して言った。
「俺の言いたいのは──自分を傷つけるのはやめろってことさ」
切り刻まれているのは親父さんの死体だけじゃないだろ?
「無理するなよ。自分を偽るのは、もうよせ」
瞬間、眉間に皺を寄せてサミュエルはクレイを睨みつけた。
それから、あっさりと頷いた。
「……うん」
膝の間でビール缶をきつく握り締めながら少年は言うのだ。
「俺、すっごくショックなんだ。悲しいって言うのか、よくわからないけど、耐えられない。押しつぶされるような……これ、喪失感?」
サミュエルは初めて写真を振り返った。
「だって、ママがどんなに悪く言っても、俺にとってパパはやっぱりアイツ一人なんだから」
写真の父は甲板の上で濃紺のポロシャツ姿で笑っている。その船〈S・S号〉はこの春、父とともに海中に沈んだ。
こんなに別れが早いなら、母がどんなに反対しても父に会うべきだったと、今サミュエルは心の底から後悔していた。
「毎年、パパは俺と会いたがった。夏休みを島で一緒に過ごそうと手紙を山ほどくれた。でも、俺はママの言いなりで……いつだってママだけの息子で……で、こうして本当のパパを知るチャンスを永久に失くしちまったんだ」
リビングルームの窓の横、ガラス張りのキュリオケースの中が全部サミュエルの写真で埋め尽くされているのにクレイは気がついた。
毎夏、島への招待を辞退する手紙に添えて少年が送った身代わりの写真たちをロブ・プレローズはこうして大切に飾っていたのだ。
初めてこの部屋に足を踏み入れて、風を入れようと窓を開け、父のコレクションを発見した時のサミュエルの姿をクレイは想像してみた。ナイキのスポーツバッグを足元に落としたまま立ち竦む黒髪の少年。その横で彼の鼓動のようにレースのカーテンが海風に膨らみ、縮み、また膨らむ……
「ママは気づいていない」
サミュエルは引き攣った笑みを漏らした。
こんな笑い方もできるんだな、とクレイはこっそり感嘆したが。
「つまり、会わせといた方がママにとってもズーーツと有利だったのにな!」
口ではどんなに言っても自分の中で父はどんどん理想化されていってる気がする。
「そのせいかな、俺、物凄いファザコンかも、な?」
(だから、こういうタイプに弱いんだ。)
横目でクレイを見やりながら、これは口に出さず心の中だけで付け足した。
実際、クレイ・バントリーはロブ・プレローズによく似ていた。
長身、金髪、緑の瞳。いつも海辺にいるみたいに──こんな月の夜でさえ──眩しそうに目を細める、その癖に至るまで。
結局、二人はその夜、プレローズ屋敷の古風なキリムの上で結ばれた。
クレイは天にも昇る心地だった。
しかし、翌日の午後には地獄を見る破目になる。