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頬を上気させて写真家は続ける。
「アンブローズ・リンクィストは七〇年代の一時期ギリシャに遊学していたのよ。この事は新聞やTVでも触れられていたけど。彼は当時アテネ大学の高名なスピリドン・マリナトス教授に師事してて……
世界的大発見と騒がれたアクロティリ古代都市の発掘にも参加している。
アクロティリはキクラデス諸島の最南端の島、サントリーニ島にあるんだけど、ここの遺跡からはミノア文明を色濃く残す家屋や壁画や壺なんかが大量に見つかってるの!」
「待てよ、何の話をしてるんだ?」
葵里子が一体何について語っているのか、クレイもサミュエルも皆目見当がつかなかった。
「サントリーニ島? 古代都市の遺跡? ミノア文明?」
「ん、もうっ! よくそんな無知で生きてられるわね? ハーバードで何習ってるのよ!」
話の腰を折られて葵里子は不機嫌だった。
「サントリーニ島は、キクラデス諸島で一番有名な〈エーゲ海の三日月〉と呼ばれてる島じゃない。
ミノア文明って言うのはこのサントリーニ島から約二〇キロの処にあるクレタ島を中心に紀元前2000年から1450年頃まで栄えた古代海洋民族文明よ。
あまりにも突然の衰退が謎とされて、一部の学者は本気で伝説のアトランティス文明こそ、このミノア文明だと信じてるとか。それはともかく──
アクロティリ遺跡は1967年にスピリドン教授によって発掘作業が開始され、古代都市が丸ごと掘り起こされたの! このことが何を意味するかわかる?」
クレイとサミュエルは一切口を挟まず、サッと首だけ振った。
「3500年前にサントリーニ島で火山の噴火があったことを裏付けてるのよ!
言い換えるなら、古代都市が現在まで丸ごと保存されたのは、火山灰が街ごと埋め尽くして封印してくれたおかげってこと。
そもそも、発掘の指揮を執ったスピリドン・マリナトス教授は早くからサントリーニ島の火山活動及びそれに伴う大地震に着目していて……ミノア文明は火山活動と地震によって崩壊したという論文を発表してる。
不幸にも教授は1974年、発掘現場の事故で亡くなってしまった。
何でも、組んであった足場から転落したんだそうよ。
ところで、さっき何て言った、サミー? ロブ・プレローズの航海日誌でキクラデス諸島編が1975年?」
葵里子は唇を舐めた。
それから、先刻までとは打って変わった、厳粛な声で話し始めた。まるで、彫像たちが聞き耳を立てているのを知っていると言う風に。
「ロブ・プレローズはその1975年、キクラデス諸島のミロス島でリンクィストと出会ったと仮定してみて。私の推理はこうよ。
マリナトスの門下生だったアンブローズ・リンクィストは師の事故死以後、解き放たれて、或いは、箍が外れて、より自由になって、火山灰から海中へ目を向ける。
古代の街を埋め尽くしたサントリーニ島の噴火はここ1万年間に地球上で起こった噴火中最大級のものだとリンクィストは知っているわけだし、それに伴う地震で多くの遺物が海に崩れ落ちた可能性に気づかないはずないもの!
現に、ミネア文明よりはずっと新しいけど、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケも全部エーゲ海の海中から引き上げられたのよ。あんたたちだってこのくらいのことは常識として知ってるわよね?」
葵里子は、その引き上げられた女神の名を刻んだ少年のスニーカーを一瞥した。NIKE……
今度も、クレイとサミュエルは押し黙ったままやり過ごした。
「さて、アンブローズ・リンクィストはあまりにも有名になりすぎたサントリーニ島は避けて、それ以外の島を選ぶの。そうして、幸運にもミロス島の海中から埋もれた傑作を幾体か発見した。
それらが今、私たちの目の前にあるクーロスなのよ!」
葵里子は再び、居並ぶ古代の静かな若者たちに視線を向けた。
「リンクィストはこれらの彫像を、彼等の故郷からこっそりと持ち出したんだわ!」
「こっそりと持ち出した、だって?」
今まで口を噤んで来たクレイが思わず叫んだ。
「おいおい、いい加減なこと言うのはよせよ。その推理はあまりに突飛過ぎないか? 遺物はギリシャ本国のものだぞ。となりゃ、その手の行為は〝密輸〟……いや、もっと大それた〝略奪〟ってことになる」
「美の前、愛の前、求めてやまない至宝の前で……完全に己の欲望を制御できる〈安全金〉なんて人間には装備されてないのよ。 ※安全金=引き金の反対語
忘れたの、クレイ?」
腕を組んで、明らかに北叟笑んで葵里子は真っ黒い瞳でクレイを凝視した。
「あんただって自分の欲しい男の子のために〝美術品〟どころか、よりによって〝死体〟を運んだじゃない? こっそりと?」
「クソッ……」
クレイ・バントリーがどれほど傷ついたかなど一向に気にする様子もなく写真家は先を続けた。
「アンブローズ・リンクィストの場合はこっそりと人類の貴重な遺産を運んだの。自分だけのものにすべく解体して梱包した。尤も、実質的な意味で言うなら、運んだのは──」
「俺のパパと、パパのヨットだった……」
少年は吐き捨てるように言った。
「リンクィストが船で言った〝コソ泥〟って意味がよぉくわかったよ! 奴はホントのことを言ったんだ」
「私は〝キクラデス諸島〟というこの新しい鍵を見つけて、それでもう一度振り出しに戻って……あんたの足の裏の刺青の謎を解くべくこの島に帰って来たのよ。
先にクレイのコテージに寄ったんだけど鍵が掛かってた。それで、プレローズ屋敷へ廻ったら、鍵は開いているもののあんたたちの姿はない。見張り台のテーブルには素敵なカクテルがほとんど手もつけずに放置してある有様……」
勿論、葵里子はカクテルを全部飲み干しながら周囲を見廻した。
そして、眼下遥か、夕陽の中を鯨岩へとひた走る二人の姿を発見したのだ。
にこやかに微笑して写真家は長口舌を締め括った。
「〈見張り台〉って、かくも便利な代物よねぇ!」
「おい、ちょっとこっちへ来てみろよ!」
洞窟の隅の方でクレイの呼ぶ声がした。
サミュエルと葵里子が行ってみるとアウトドア用のテーブルセットが置かれていた。
周囲の彫像と比べてその新しさが妙にリアルで生々しかった。
曇ったスチールのテーブルの上に高性能ランタンと冊子が乗っている。
サミュエルとクレイにはそれが欠落していたロブ・プレローズの航海日誌だとすぐわかった。
真っ先に葵里子が手に取って、小脇に懐中電灯を抱えた体勢のままパラパラとページを繰っていたが、やがて黙ってサミュエルの方へそれを突き出した。
「?」
開かれていたのはノートも終いの方。栞代わりに写真を挟んだページ。
ロブ・プレローズが赤ん坊を抱いて写っているその一枚はサミュエルが初めて目にするものだった。
(ママが撮ったんだろうか?)
この白い柵は見張り台だ。風を受けて父は溢れんばかりの笑顔を浮かべている。一方、自分ときたらヒドイ。今にも泣き出しそうな──或いは、クシャミがしたいのか?──クシャクシャで猿そっくりの最低のショットだった。
水平線がちょうど自分を抱く父の日焼けした太い肘の辺りにあって、右側に鴎が二匹旋回している。
──それから、一行目が目に飛び込んで来た。
《 よく来たな、サミー!
私がこの日の来るのをどんなに待っていたか、わかってほしい。 》




