#25
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砂を蹴散らして二人が鯨岩へ到着した時には夕焼けはとっくに燃え尽きて空には月がかかっていた。
月が投げ落とすふんわりした青白い光の中で改めてクレイとサミュエルは岩山を眺めた。
驚いたことに岩山には刺青の白い点=目の部分までちゃんとあった。岩壁に丸く凹んでいる部分がそれだ。そのせいで岩の塊はますます鯨じみて見えた。
もっと言えば殺人鬼を撃ち殺した夜に見た、あの一匹にそっくりだった。
念のため、サミュエルはクレイに訊いてみた。
「ここを探検したことある?」
「いいや」
言下にクレイ。ちょっと頬を紅潮させて、
「この辺は俺のテリトリーじゃなかった」
だが、すぐ付け足した。
「こっち……絶対入れるはずだ。この手の岩なら……」
果たして、海水に浸かっている細い割れ目が見つかった。
体を斜めにして辛うじて人一人通れるくらいの縦穴だ。
水に躊躇するスパーキィは外で待つことになった。
「OK、何かあったら──勿論、そんなことはないだろうけど、半日以上経っても俺たちが戻らなかったら、その時は誰かに知らせてくれよ?」
クレイはスパーキィの頭を撫でながら命じた。
「例えば、恋人のタイクーンの処へでも?」
スパーキィが嫌そうに鼻を鳴らしたのをサミュエルは見逃さなかった。
膝を濡らしてクレイとサミュエルは進んで行った。
すぐに明かりが必要になった。
クレイはチノパンツのポケットからライターとキャンドルを取り出してそれを灯して明かりにした。
本来なら今夜の見張り台での別れの宴用に用意したロマンチックな小道具だったのだが。まさかこんな実用的な使い方をするとはクレイも予測していなかった。
細い通路はほどなく尽きて、空洞に出た。
「──……」
二人が息を飲んだのは、そこが、自然が長い時間を費やして育んだ空間だからというばかりではなく──
そこに明らかに人の手によって造られた、美しい芸術品が並んでいたせいだ。
一瞬、クレイもサミュエルも美術館に迷い込んだのかと錯覚した。
クレイの掲げるキャンドルの灯りの中に次々と浮かび上げる端正な若者たちの像……
「な、何なんだ? ……こんな処に……これ……?」
「一体、誰がこんなもの造ったんだ?」
「クレタ人よ」
二人は飛び上がった。またしても心臓が止まるかと思った。
「クーロスって言うのよ。知らない?」
振り返ると、すぐ後ろの暗闇──今しがた自分たちが通って来た狭い岩の回廊に衣通葵里子が立っていた。
(ああ、やめてくれよ、本当に……!)
クレイはつくづく思った。どうして、この女はいつもこうやって突然に俺たちの前、いや、後ろか、に現れるんだ?
「一般的には紀元前六〇〇年頃のギリシャ・アルカイック期の大理石の青年像を指すの。この後の青銅の像が瞬間的な躍動美に溢れているのとは対照的に、〈静止した若者たち〉と呼ばれているのよ」
葵里子は驚愕のあまり固まってしまったクレイとサミュエルをさっさと追い越して彫像群へ近づいて行った。自分の懐中電灯で照らして熱心に眺め回す。
「ホントだ! シンプルで寡黙な像たちねえ! ほら、この口元を見て。これが、かの有名な〝アルカイックスマイル〟よ。唇の端をちょっと上げる、ぎこちなくて謎めいた微笑……」
20世紀の明かりに照らされて、彼等古代の美青年たちが突然の来訪者を冷笑しているのか含羞んでいるのか、益々わからなくなった。
「葵里子……この野郎っ……!」
突然、サミュエルが掴みかかった。
が、今回ばかりはクレイも止めなかった。少年の気持ちがよくわかったから。
事件後、有ろう事か有るまい事か、この自称写真家はどさくさに紛れてさっさと姿を眩ましてしまったのだ。
この女にせっつかれながら悪戦苦闘して漁船の無線で沿岸警備隊に救援を求めたところまではサミュエルもちゃんと憶えている。その時はまだ写真家は傍にいた。だが、その後、クレイがヘリで搬送される段には……どうだったかな?
漸く警察の許可が下りてサミュエルがクレイのコテージへ戻った時には、写真家の荷物は一切合財──あのクリーム色のコンバーチブルごと──消え失せたいた。
「信じられないぜ! この雌犬! 全て俺とクレイにおっ被せて自分だけ勝手にバックレるなんて? あの後、俺たちがどんな目にあったかわかってんのか? どんなにややこしくて大変な思いをしたことか。それを今更、またしてもこんな処にいきなり現れやがって……」
「いいから、聞きなさい」
葵里子は落ち着き払ってサミュエルをクレイの方へ押し戻した。
「あんたたちは大丈夫だと思ったのよ。だって、そうでしょう? そうだったでしょう? 私のような文無し芸術家と違ってあんたたちは優秀な弁護士付きですもの。でも、私はそうはいかないわ。貧乏人は厄介事にオチオチ巻き込まれるわけにはいかないの! そんなこともわからないの?」
逆に葵里子は二人を恫喝した。
「むしろ、あんたたちは私に感謝するべきだわ!」
「な、何言ってやがる……」
「相変わらず減らず口だな! 俺たちがあんたに、一体何を感謝しなくちゃいけないんだ?」
「私はね、身動きできないあんた達に代わって、私たちだけが握ってる情報を生かすべく色々調べ廻って来たのよ!」
ここで葵里子は黒髪を背中へ払い除けた。胸の前にカメラがぶら下がっているのをクレイとサミュエルは確認した。と言うことは──
今、眼前にいるのは亡霊でも妄想でも幻でもなくて正真正銘の衣通葵里子なのだ……!
その葵里子が、洞窟内に並べられた彫像の一つ一つにゆっくりと光を当てて行く。
等身大よりやや小ぶりの、それらの像は全部で五体あった。
どれも右足か左足を前に出して控えめな様子で佇んでいる。
その様子が若者特有の匂いを端的に伝えていた。戸惑っているような迷っているような、不安と逡巡……初々しさと清冽さ……夢想と憧憬……
今この瞬間、これほど間近にいながら彼らの吐息が聞こえないのは、彼らが恥ずかしがって自ら息を殺しているせいだと錯覚しそうになる。
だが──
さらによく見て行くと、像には繋ぎ合わせたとわかる無惨な瑕が何箇所か見て取れた。
肩や首、肘や膝にも……
葵里子は体を反転させて彫像からクレイとサミュエルに向き直った。
「あのイカレたリンクィスト教授が目論んだ通り、警察やマスコミは事件の猟奇性にばかり目が眩んで細部を見誤ってしまった。でも私達は違う。少なくとも私はね。それで、きちんと教授の身辺を再調査したのよ」
衣通葵里子が言うには──
彼女は漁船でリンクィスト自身の口から聞いた〝ある言葉〟が引っ掛かってならなかった。それ故、シアトルの自宅は元より彼が教鞭を取った全ての地域を実地調査して来た。
「ねえ、憶えてる? 船でアンブローズ・リンクィストときたら自分の潜水の腕前をイヤったらしく自慢してたじゃない? 『若い頃は島々で鳴らしたものさ』とか何とか」
だが、クレイもサミュエルもそれについて全然記憶になかった。
「?」
「?」
「もうっ! これだからあんたたちは──」
二人を詰ろうとして途中で葵里子は気がついた。何と言っても二人は潜れるのだ。
潜水に関してコンプレックスを持っていないから教授の言葉など気にかけなかったのだろう。
「まあ、いいわ。とにかく、改めて詳細に調べてみてわかったのは──島は島でも教授が言っていたのはエーゲ海のキクラデス諸島だってこと!」
「キクラデス諸島だって?」
ここへ来て、初めてクレイとサミュエルが大いに反応した。
「それ、パパの失くなってた航海日誌の部分だ! 確か《キクラデス諸島/ミロス島》ってなってた! 1975年……」
「やっぱりね!」
葵里子は満足げに頷いた。
「これで間違いない! サミー、あんたのパパとあの教授の〝接点〟はそこ、キクラデス諸島なのよ! 二人とも同時期そこにいたんだわ!」




