#24
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「私たちが幸せだったのは本当に短い間だけ。どうしてこんな風になっちゃったのか私にはわからないわ。あっちの島の美しい浜辺で出会った瞬間から、私たちお互いを〝最高の恋人〟だと確信したのに。
私たちの〝愛情物語〟は何処に消えてしまったのかしら?」
「アハハハ……」
我慢できずにクレイは声を立てて笑い出した。傷口が引き攣って死ぬ思いを味わった。
「失礼。イテテテ……でも、ああ、やっぱりサミーのママだなと思って……」
「あら?」
可愛い唇を突き出して不平を言うところと、すぐそうやって物事を映画のタイトルに喩えるところ。
「〝ガラスの部屋〟もサミーと一緒に見たんですってね?」
実は、遂今しがた入れ違いで出て行ったサミュエルの捨て台詞がそれだった。
『本当は今でもリッキーのこと忘れられないんだろう?』
と、散々絡んだ挙句──暇を持て余すたびに、または儀式のように定期的にサミュエルはそれをやる──『そんなにリッキーがいい男なら、いいよ、じゃあさ、あの世で俺たち〝ガラスの部屋〟しようぜ? 俺に異存はない。今から楽しみだな! 三人プレイか!』
ときた。断っておくが〝ガラスの部屋〟はAVではなく、映画史に燦然とその名を残す珠玉の名作である。
「にしても──毎回感心しますよ。古い映画までよく知ってるな、サミー。人生で一番感銘を受けた言葉は〝お熱いのがお好き〟の最後の台詞だなんて言うんですよ」
アマンダはあっさり認めた。
「映画マニアは私なのよ」
シーツの上に伸ばしっ放しだったクレイの手をギュッと握ると、
「こうやって、手を繋いで、深夜ソファでビデオを見るのが離婚後の私たち家族の儀式だったのよ。二人ともベッドへ行かずそのままソファで夜を明かしたことが幾晩もあったわ。数え切れないほど。ほら、ひとりぼっちのベッドが怖くて……」
「ティッシュならサイドテーブルの上にありますよ」
クレイは教えた。泣き虫のところも似ているな?
「あの、誤解しないでね、クレイ? 私とロブにも幸せな時はちゃんとあったのよ。だからこそ、こうして人生と真っ向から遣り合っていけてるの。それで……」
ちょっと声が震えていた。だからこそ、その告白は美しかった。
「私が2度と島へ行きたくないのは、あそこが嫌いだからじゃない。悲しいからよ。ロブとの思い出が美し過ぎて。あなたにはそのことわかってほしいの」
事実、彼女は東海岸に滞在した三日間、島へは一度も渡らず、病院近くのホテルで過ごした。
「だから」
宛ら宣誓する如く右手を肩の高さに上げてアマンダは言うのだ。
「私は今後、息子が島へ行くのを決して反対したりしないわ」
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「おい、聞いてるのか、クレイ?」
見張り台の白い手摺りに凭れてサミュエルがこっちを見ていた。口を尖らせて。
「なあ? 来年の夏まで、俺のこと忘れるなよ。何だよ、それとも、もう早速ここから他のクソガキ捜してんのか?」
「やれやれ、またそんなこと言ってるのか。いいから──こっちへ来て座れよ。乾杯しようぜ」
折しもクレイは見張り台に設えたテーブルにグラスを二つ並べ終えたところだ。
悪戯っぽく片目を瞑って、これが何かわかるかい、と訊いた。
丈の高いグラスに美しい真紅の漣が揺れている。
ちょうど夕焼けのさなかで、空も、海も、砂浜も、つまり周り中グラスの中身と一緒の色だった。
勿論、クレイは満を持して、計算済みで、この瞬間を狙ったのだ。
一つ咳払いをしてから、
「おまえのママが教えてくれた特別のカクテルだぜ、これ」
「ママが? いつ?」
流石にサミュエルは吃驚した。
「カリフォルニアに戻る前日、病室で。彼女、紺に白い花を散らしたジョーゼットのワンピース姿で……そりゃあ綺麗だった!」
「ふうん、知らなかったな」
「知らなかったろう?」
クレイはグラスを翳して得意気に説明した。
「アマンダ・ケリーがロブ・プレローズに会った運命の夜、作ってもらったのが、これ。二人して、まさにここ、見張り台で乾杯したってさ! そして、それ以後も、何回も……」
クレイはクリネックスの箱を膝に抱えてうっとりと話してくれたアマンダの姿を思い出した。
『幸福な思い出のナンバーワン……!』
と、彼女は言っていたっけ。
『本当に憎らしい奴! 海やヨットのこと何にも知らない私をからかって……面白がって作ってくれたんだわ!』
「ロブ・プレローズ氏はこのカクテルが大のお気に入りだったそうな。それと言うのも名前のせい。これ、〈キール〉って言うんだ」
「へえ?」
「尤も、キールはキールでもこっちのは船じゃない。ヨットとは全然関係なくて、単にこのカクテルの考案者の名に由来するんだ。確かフランスの何処かの市長だったはず。えーと、何処だっけ? あれ、ど忘れしちまった! ここが肝心の蘊蓄なのに。リヨン? ニース? ディジョン? それとも」
「ケッ」
これがサミュエルの率直な感想だった。
(何考えてんだか、クレイの奴……)
デリカシーの欠片もない、と少年は思った。当のママとパパの愛は破局したんだぞ。そんなのを再現するとはゲンが悪いったらない。
元々ワインはあんまり好きじゃない上に、クレーム・ド・カシスの赤は今となってはサミュエルが世界で一番嫌いな色だった。リッキーの髪の色。
(何から何まで腹が立つ……!)
そういうわけで、少年はだらしなく椅子に腰を下ろすと顔を顰めて一口啜った。
次の瞬間、あっと叫んで、半分以上スパーキィの背中に零してしまった。
「ひどい態度じゃないか」
クレイは少年の無作法に痛く傷ついた。
「俺がせっかく──」
だが、サミュエルの尋常でない顔つきを見て怒鳴るのをやめた。
「何? どうかしたのか?」
「見てみろよ、クレイ、あれ!」
「え?」
サミュエルは震える指を前方へ突きつけた。
「あれ、何かに似てないか?」
クレイは風に靡く前髪が邪魔だった。額から掻き上げながら目を細めて、見た。
サミュエルの指し示す方向……見張り台からの展望……
今となっては見慣れたはずの、いつもと変わりない風景がそこにあった。
海と浜と断崖と岬。幾艘もの船──夏に比べてその数はやや減ってはいたが。
夕焼けがそれら全てをカッと燃やしている。
サミュエルが指差しているのは、島で昔から〈鯨岩〉と呼ばれている岩山だった。今、それは夕陽のせいで日中とは違った角度で影を濃く砂浜に落としている。
(何かに似てないか、だって?)
クレイにも瞬時にわかった。
鯨岩は影の部分と繋がって──影の部分を合わせると──サミュエルの足の裏の刺青とそっくりだ!
「こんなことって……」
クレイは身震いした。
「ハッ」
《 I・N・K・I・R 》
刺青の語句、あの〝キール〟は船体ではなくカクテルのことか?
カクテルを楽しんだ二人だけの時、眼前に見えたもの……
周り中カクテル色に染まる世界で、その瞬間見えるもの……
「クレイ、行ってみようぜ、あそこへ!」
既にサミュエルとスパーキィは駆け出していた。




